- 作者:遠野遥
- 発売日: 2020/07/04
- メディア: 単行本
Kindle版もあります。
2020年9月号の『文藝春秋』には、芥川賞受賞作として、この『破局』が全文掲載されています。
私を阻むものは、私自身にほかならない。ラグビー、筋トレ、恋とセックス―ふたりの女を行き来するいびつなキャンパスライフ。28歳の鬼才が放つ、新時代の虚無。
第163回芥川賞受賞作。
露悪的な村上春樹みたいな小説だな、と思いながら読みました。
もともと、村上春樹さんの小説には、露悪的なところがあるのだけれども。
僕にとっては、自分に自信がある、やたらとモテる男の自慢を延々と聞かされ、この男が酷い目にあわないかな、という黒い期待と、これが芥川賞受賞作だ、ということで、なんとか最後まで読み通せた感じです。
若い、スポーツをやっている人が、自分の「身体性」みたいなものについて、延々と語り続ける、というスタイルは、第160回芥川賞受賞作『1R1分34秒』を思い出すのですが、この『破局』は、主人公の属性が「良い大学、自分を律する能力の高さ、そして、感情が欠落してしまっている思考」が鼻について、本当に読んでいてつらかった。
これって、純文学っていうより、エロ系のノベルゲームが、10年くらい前に通過してきた世界観なのではなかろうか。
それとも、「現実を生きている人間のほうが、出来の悪いノベルゲームの登場人物化してきている」ということなのだろうか。
近頃、私たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、私の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。最後にセックスをしたのは、一ヵ月以上前だったか。付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスをすることはできない。無理にしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。それに、私は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはできない。麻衣子が目標に向けて頑張っているなら、それを応援するのが私の役目だろう。
あまりに「自分の内面」が説明的に語り続けられるのを読んでいると、「これは、見かけ上は社会にうまく適応することができた発達障害者の心の動きを記録した小説なのだろうか?」という気もするのです。
そうであるとするならば、これは「傑作」なのかもしれません。
ただ、読みながら、「もしかしたら、石原慎太郎の『太陽の季節』とか、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、村上春樹の『風の歌を聴け』を、いまの僕と同じくらいの年齢、40代くらいで読んだ当時の大人たちも、みんな『何なのこの性欲について延々と書かれているみっともない小説は!』って思っていたかもしれないな」とは考えていました。
本当に、この小説には何もない。いや、言い訳と性欲しかない。これこそが現代の「虚無」なのだろうか。
そもそも、小説というのは「みっともないものを、活字にして突き付ける」面はある。
もし僕がこれを高校生のときに読んでいたら、「大学生って、こんなに簡単に、女の人と仲良くできるのか、いいなあ!勉強頑張ろう!」とか思っていたかもしれません。
村上春樹さんの『ノルウェイの森』を読んだときはそう思ったのだけれど、あれから30年間、ワタナベのような「やりたい放題期」は、僕には一度も訪れてくれませんでした。
重要なサブキャラっぽい「膝」っていう人も(ネーミングセンスが村上春樹っぽいというか「鼠」を思い出しました)、思わせぶりなのだけれども、結局、主人公と恋人の出会いのきっかけとしか機能していないし。
あと、ラストで主人公の性格が変わりすぎているというか「読者を満足させる終わりにする」ために、すごく駆け足で御都合主義になっているように感じました。
こいつに天罰を!と思っていたのだけれど、嫌な奴が実際に嫌な目に遭ったら、それで気分スッキリ!ってわけじゃないみたいです。
でも、これだけ不快なものを書けるというのは、ある意味「才能」なのかもしれないな。