琥珀色の戯言

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【読書感想】人に強くなる極意 ☆☆☆☆


内容紹介
どんな相手にも「ぶれない」「びびらない」「怒らない」――。ビジネスでも人生でも、人と相対したときにどう振る舞えるかが結果を大きく左右する。いつでも最高のパフォーマンスをするには、どんな心持ちでいることが重要なのか。外国の要人、日本国首相、そして特捜検察などに対してギリギリの交渉力を発揮してきた著者が、現代を“図太く"生き残るための処世術を伝授する。


佐藤優さん流の「処世術」をまとめたものです。
「他人との付き合い方」に悩み続けている僕としては、この希代の外交官にして読書家は、こんなふうに「他人」と折り合って生きているのか、と感心しながら読みました。
その一方で、TPPに関して「中国やEUに対抗するためには、アメリカを中心としたTPPの輪に日本が加わらなければ生き残れないのは自明の理」などと書かれていることには、正直、違和感もあったのですけど。


この新書を読み、佐藤さんの考えに頷きながらも、僕は吉本隆明さんのこんな言葉を思いだしていました。
吉本さんの1988年の講演「日本経済を考える」より。

 なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。


 そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。


 反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。


 ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。


 しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおられるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。


 僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。


 それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。


 だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。


 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。

佐藤優さんというのは、基本的に「選良のための生き方」をレクチャーし続けている人なのだと僕は感じます。
佐藤さん自身も、自分が知的エリートであることに、プライドを持っているでしょうし、それはけっして悪いことではありません。
国家の戦略を担当するような人が視野狭窄に陥り、自分の利益に汲々としているようでは、国にとっては「悲劇」ですし。
実際は、佐藤さんも書かれているように「自分の出世のことしか頭にないような官僚」が多いようなのですが。


ただ、この新書「所詮、エリートのための内容なんだろ」と切り捨ててしまうのも、勿体ないのですよね。
佐藤優さんが、さまざまな修羅場を経てきた「賢人」であることは間違いありませんし、この本のなかには「ごく普通の人が、社会生活をおくっていくうえで、知っておいたほうが良いこと」もたくさん書かれています。


「部下を怒る上司」について。

 それ以外にも、上司が部下を戦略的に怒ったり怒鳴ったりするケースがあります。たとえば部下が取引先とのやり取りでミスをしてしまった。何とか取引先に謝り穏便に済ませたい時にどうするか。
 こういうときに直属の上司が出てきて、取引先に謝りながら、彼らの前で部下を怒鳴りつける。「なんてことをしでかしたんだ!」などと言ってボロクソに怒鳴る。すると取引先の人は「まぁまぁ、部長さん、そんなに怒らないで下さい」と、「悪気があったんじゃないんだし」と何とか収めてくれる。
 それを狙っても一種の芝居なのですが、怒鳴ることでその場が収まる場合もあるわけです。上司は一見部下を怒鳴って攻撃しているようですが、実は結果的に部下を守っている。こういうことって、よくあるのではないでしょうか。
 ですから上司が怒っている場合、どの怒りなのかをまず冷静に判断しなければなりません。神がかり的な怒りなのか、あるいはフリーズさせるための怒りなのか、はたまた戦略的でお芝居的な怒りなのか――。
 その分析もしないで、ただ怒っている上司は面倒だとか、嫌だとか決めつけるのはあまりにも短絡的で幼い。まず怒っている相手をよく見て、どの種類の怒りなのかを判断することが肝要です。

 誰だって、上司に怒られるのはイヤなはずです(僕だってイヤです)。
 でも、その場では「怒られてイヤだった」場合でも、実際には「上司が怒ることによって、周囲からの怒りを吸収してくれることもある」のですよね。
 「そこまで怒らなくても」と、本来怒ってしかるべき人のほうが、なだめてくれたりもして。
 もちろん、怒られなくてもすむような状況が望ましいのですが、怒られた、ということで思考停止するのではなく、「怒り方で、相手の器をみる」ことだって可能なわけです。
 それだけの余裕と観察力がある人は、そうそういないのだとは思うのですが、そういうものの見方もあるのだ、というのは、知っておいて損はないはず。
 「怒っている上司」と言葉にしてみれば同じでも、感情に任せて、やつあたりしているような人と、被害を最小限に食い止めるために、あえて怒ってみせている人とでは、大きな「違い」があるのです。
 でも、それをちゃんと見ている人というのは、そんなに多くはない。


 佐藤さんは、基本的に「原理原則に忠実でありたい」と考えておられる人だと僕には思われるのですが、けっして頭が硬い人でもないんですよね。
 第2章のタイトルは「びびらない」なのですが、そのなかで、こんな話をされています。

 びびらない力、胆力のつけ方をここまでいろいろ説明してきましたが、中には大いにびびらなければいけない場面もあります。たとえば新宿の駅かどこかで怖そうな人たちに囲まれそうになった。そんな時は一目散に逃げるべきです。
 彼らと対決するとか、理屈で説得しようとしても無駄です。相手はあきらかにお金かお金になりそうなモノを奪おうと近づいてきている。そんな相手に対してはとにかく逃げる。
 ビジネスの現場でもそのような場面があります。たとえば押し売りのような人間が来て、なんでお前の会社はうちの商品を買わないんだと因縁をつけてくる。あるいはお店などでも突然怖い顔の人がやってきて、「おしぼりはいらないか」とか、「観葉植物はいらないか」と聞いてくる。
 そんな時は面と向かって相手の言葉に反応してはいけません。たとえば「いや、ウチは使い捨てのおしぼりしか使わないから」などと断ろうとすれば、「こちらにも使い捨てのおしぼりはある」といわれる。「タオルなら必要だけど、おしぼりはいりません」などと断ろうとすると、「タオルも扱っている」などとからみついてきます。
 相手はこちらに断る理由をいわせて、それを一つずつ潰してくる戦略ですから、とにかく理由をいわないこと。ただ一言「契約自由の原則に基づいてうちは取引しません」と突っぱねる。契約自由が法的に認められていて、買うか買わないかの判断は当然自由。その原則だけで押し通す。こちらを食い物にしようと虎視眈々と狙っている連中に対しては、大いにびびってシャットアウトする必要があります。
 逃げてはいけない場面で逃げ、逃げるべきところで逃げない。そこのところがチグハグな人が結構多いです。いじめの問題なんて特にそうで、自分の子どもがいじめに遭っていたら、無理して学校に行かせる必要なんてありません。
 相手はそれこそ理屈の通じない連中です。そんなところに無理に行かせても問題が改善するわけがない。こういう時こそ逃げるべきなのです。親であれば子どもに逃げていいぞと、学校に行く必要などないというメッセージを発してやるべきでしょう。
 それを「逃げるのはよくない」などとトンチンカンなことをいったりするから、子どもは追い詰められて最悪の結果、自殺にまで至ってしまう。

「逃げてはいけない場面で逃げ、逃げるべきところで逃げない。そこのところがチグハグな人が結構多いです」
 ああ、僕もたぶんそうだ……
 なんでも「逃げない」ことが美化されがちだけれども、実際「立ち向かっても意味がない、理屈が通じない相手」というのは存在するわけで、その場合は下手な勇気をみせるより、逃げたほうが良いのですよね。
 いじめの相手が「理屈の通じない連中」かどうかには、異論もあるかもしれませんが、僕はこの件に関しては、佐藤さんの考えが正しいと思います。
 「理屈が通じるような連中はいじめなんてやらない」し、少なくとも「理屈が通じることに賭けるのは、リスクが高すぎる」のではないかと。


 ちなみに、佐藤さんは、ネットについて、このように仰っています。

 ネットにもちょっと触れておきましょう。よくご存じかも知れませんが、ネットという匿名の世界にこそ、日ごろの鬱憤やストレス、怒りがそこかしこで飛び交っています。
 掲示板などには、一つのことを巡って延々攻撃し合っている人たちがいるでしょう。結局はお互いの人格攻撃に堕ちてしまう。相手に怒りをぶちまけて発散しようとしているのでしょうが、結局ますますイライラしてまた別な人間に当たるという負の連鎖です。
 そうやって募らせていく怒りというのは、とても虚しいし病的です。しかし、いまやネットの世界全体に、そのような虚しさと病いが溢れている感さえあります。もちろんネットがいけないというのではなく、その使い方が問題だということ。
 ただでさえストレスが多くイライラしがちな日常の中で、ネットの中でさらに怒りと憎しみを増幅させる必要があるのでしょうか?
 それならば、前に述べた本、特によい小説を読む、いい映画を見る。自分と似たような境遇の主人公や、想像もしていなかったような内面の世界を知ることで、心の中のモヤモヤが昇華されていきます。

 ヘビーネットユーザーである僕にとっては、耳に痛い言葉です。
 ネットでは効率的に情報収集しやすいのは確かなのですが、自分自身のストレスを増幅してしまったり、他者の怒りに感化されやすいのも事実です。
 だからこそ、オフラインでのフィクションの世界で、自分をリフレッシュさせることは、けっこう大事なのかもしれません。
 なんのかんの言っても、いまの世の中で、「ネットを使わないで生きる」のはけっこう難しい。
 いや「ネガティブな感情が飛び交いやすいところを避ける」ことは可能なのかもしれないけれど、僕の場合、自らそういうところに踏み込んでしまう傾向もありますし。
 何事にも「節度」って大事ですよね、うん。


 佐藤さんの真似はそう簡単にはできないと思うのですが、書かれているものの中で、自分に活かせるものだけを拾っていくだけでも、お値段分以上の価値はありそうな新書ですよ。
 
 

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