琥珀色の戯言

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【読書感想】安部公房とわたし ☆☆☆☆


安部公房とわたし

安部公房とわたし


Kindle版もあります。

安部公房とわたし

安部公房とわたし

内容紹介
「君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ――」
その作家は、夫人と別居して女優との生活を選んだ。
没後20年、初めて明かされる文豪の「愛と死」。


師であり、伴侶。23歳年上の安部公房と出会ったのは、18歳のときだった。そして1993年1月、ノーベル賞候補の文学者は、女優の自宅で倒れ、還らぬ人となった。二人の愛は、なぜ秘められなければならなかったのか? すべてを明かす手記。


正直、この本に対する第一印象は、あまり好ましいものではありませんでした。
「ああ、また『暴露本』か……相手が亡くなって20年も経ったのだから、いまさら『告白』しなくてもいいだろうに……そもそも、山口果林さんって、いま何歳なんだっけ……」
とか、そういう感じでした。

 夫人も癌を患っていると知ったのは安部公房の癌がわかって一年くらい経ったころだろうか。「どちらが長生きするかの競争だな」冗談めかして彼は言った。
 その日から、私は離婚という言葉を口にしなくなった。未来は運命に委ねよう。「実質は君が勝ちとっているじゃないか」と安部公房は言った。私は夫人の苦しみを知りながら、安部公房との時間を過ごしてきたのだ。

この本を読みながらも、あまりにも冷静に当時のことを振り返っている山口さんの文章に、「でもあなた『不倫』してたんでしょ?」と、内心、苦々しく思いつつ読んでいたんですよね。
しかも、山口さんは、「奥様にはすまないと思う」なんてことは、この文章のなかにはほとんど書いておられませんし。


でも、「エピローグ」まで読み終えて、僕のそういう考えは、ちょっと変わっていきました。
山口果林さんもまた、「安部公房」という大きな存在に束縛され、がんじがらめになってしまっていた部分があって、こういうふうに書くことでしか、「昇華」できなかった想いがあったのかもしれないな、って。
そもそも、いちばんズルいのは、安部公房ではありますし。


付き合い始めた当初のことを振り返って。

 週に一、二回の逢瀬。急流に溺れそうな私を、しっかりと繋ぎとめてくれる安定感と信頼感を安部公房に感じていた。本体の自分自身を取り戻す、貴重な、かけがえのない時間だった。
 ただ当時、私はこの恋愛関係の持続には懐疑的だった。焼却始末してしまった日記にも書き記していた。安部公房も熱病のような状態は、何処かに落ち着き先を見つけて着地点に至るのでは、と考えていたのではなかっただろうか? 酔いが醒めた時の恐ろしさを夢に見ると言っていた。三年、長くて五年……。「安部公房スタジオ」として、一緒に芝居を作る場所が確保されれば、おのずと関係は変質していくのではないか。私はその間、できる限りのものを吸収する。別れの時期も克服して、女優と作家・演出家の立場での同志になれればと考えていたように思う。

男女の関係って、本当にわからないものだと思います。
「永遠」を誓ったはずのふたりが、わずか1年後には諍いが絶えなくなり、離婚してしまうことがある一方で、山口さんみたいに「そんなに長続きしないだろうし、今後の自分のステップアップに役立てば」というような計算もあったはずの関係が、ずっと続くこともある。


この本を読んで、すごいな、と思ったのは、山口さんが、徹頭徹尾、この物語を「山口果林の視点」で描いていることなのです。
ここには、「山口果林が見た、安部公房」が、そのまま封じ込められているのです。
「有名人の関係者」が描いた「回顧録」みたいな本って、大概、「亡くなった有名人を過剰に美化したり、大きな存在として描かれていたりすることが多い」のですよね。
あるいは、著者の主観で、相手の考えを類推したことを「客観的な事実」のように書いてしまったり。
この本は「安部公房についての話」というより、「安部公房という恒星に捉えられてしまった、ひとりの女性の話」なのです。


あと、この本を読んでいて、ちょっと懐かしくなったのは、こんな話でした。

 連続ドラマ「ある晴れた日に」の番組宣伝のために出た「クイズ・ヒントでピント」から思いがけずにレギュラーのお話を頂く。仕事を受けるべきか悩む。役者は、お茶の間の人気者になるべきではないと私は考えていた。何処かにミステリアスな面を持ち続け、表現のジャンプが利く状態に自分を置いておくことが大切なのだ。バラエティ番組に出演することで、自分自身を束縛しないかと不安だった。ただ、テレビに出ることで仕事がくるのも事実だ。結局、五年近く務めた。安部公房は箱根でよくこの番組を見てくれた。芝居と違って瞬間的に表れる、計算していない表情や反応を、どうしたら演技に生かせるか探ってみなさいとアドバイスさせる。確かに自分でも驚くほど、生き生きとした存在感が出る時があった。再現できる方法を試行錯誤した。しかしクイズ番組のレギュラー出演は、ドラマや舞台と重なって、想像を超えるハードスケジュールを体験することになる。

ヒントでピント』、子どもの頃、好きで毎週観ていたんですよね。
あのとき僕が「解答者のひとり」としてみていた女性を、偉大な作家が「自分の愛人」として別の場所から眺めていたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。
そうか、あのとき、山口さんは、そんなことを考えながら、あの番組に出ていたのか……

 ふたりで、チェス、オセロゲームに嵌る。ダーツやピストルのおもちゃも買わされた。「クイズ・ヒントでピント」の商品で、大理石のようなアラバスターのチェスセットを貰った。チェスに嵌った時期は手を覚えるのに随分勉強した。安部公房は強かった。自分が勝つと機嫌が良いのに、私が勝つと途端に不機嫌になり、二回戦には応じてくれない。子供みたいに負けず嫌いだった。
 私は仕事の待ち時間用に、小型のコンピューター・オセロを持っていた。我が家で、安部公房の訪問を待つ間にもよくやっていた。そんな私を安部公房は、しばらく馬鹿にしていたが、結局プレゼントさせられる羽目になった。仕事に疲れるとよく手にした。

こういう、ちょっと微笑ましくなるような、安部公房の晩年の私生活も、たくさん紹介されています。
独創的な知性と、子どもっぽいいたずら心を併せ持った「文豪」の、知られざる面の数々。

 いつのことだったか、「次の世紀に生き残る作家は誰だと思う? 三人挙げてみて」と聞いたことがある。安部公房は少し考えて「宮沢賢治太宰治……うーん」三人目の名前はなかった。自分だという思いがあったのだと思う。


山口さんが、安部さんの「正妻」に対して、「これみよがしの謝罪の気持ち」を書いたりせず、かといって、あからさまに敵愾心を表明したりもせず、「好きな者どうしが一緒にいることが、なんでこんなめんどくさいことになっているのだろう?」とやや困惑しているような態度を一貫してとっているのは、すごく自然な感じもするんですよね。


ああ、長年同じ相手と不倫をしている女性って、こういう感情の流れになっているのだなあ、なんて、妙に感心してしまったりして。


ただし、それはあくまでも、この本の読者としての感想で、ひとりの夫としての僕は「安部公房夫人の心中は、平穏ではいられなかっただろうな……」と考え込まずにはいられなかったのが率直なところです。
いくら「気持ちが移ってしまったから」といって、親子ほど年齢の違う女性のもとに奔り、自分を捨てた男。
「好きになっちゃったんだから、相性が良かったんだから、しょうがないんじゃない?」と、諦められるわけもなく。
そのうち飽きるか飽きられるかするんじゃないか、なんて思っているうちに、何十年も経ち……なんていうのは、正妻側からすれば、許し難い現実だったはずですし。


第三者的にみれば、安部公房さんは「若い女優の卵を自分の地位と文名を利用して手なづけ、長年囲っていた、許し難いヒヒオヤジ」だとも言えます。

 安部公房の死の経緯がスポーツ新聞に掲載されたことで、「山本山」のコマーシャルから降板されられたのはショックだった。マネージャーは呼び出され謝罪したという。謝罪すべきことだったのだろうか。私の二十五年間は償うべき人生だったのだろうか。

「二番目に会った人のほうが、自分に向いているのではないか」というケースは、誰にでも想像できると思います。
でも、それがアッサリ許されていては、夫婦制度なんていうものは、成り立たない。
子どもだって、傷つくかもしれない(というか、たぶん両親の諍いは、子どもを傷つける)。


なんというか、「夫婦」とか「パートナー」って関係は、なんだかとてもめんどくさいものだなあ、とか、考えてしまったりもしたんですよね。
僕にはこれが「正しい」とは思えなかった。
でも、「償うべき人生」だとも、思えなかった。

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