大学のウソ 偏差値60以上の大学はいらない (角川oneテーマ21)
- 作者: 山内太地
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2013/11/09
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。
大学のウソ 偏差値60以上の大学はいらない (角川oneテーマ21)
- 作者: 山内太地
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
- 発売日: 2013/11/28
- メディア: Kindle版
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内容紹介
世界中が競う大競争社会のなかで、日本の大学教育はその期待にまったく答えていない。このままでは、欧米はおろかアジアの国々にも教育水準で大きく劣ってしまう! 日本の大学教育の現状と対策を考える警告の書。
「偏差値60以上の大学はいらない」って、どういうこと?
と思いながら読み始めたのですが、いわゆる「釣りタイトル」なんですよね。
この新書の内容をひらたく言ってしまうと、「日本で高偏差値の『難関大学』には、入るのに苦労するわりにはメリットが乏しいから、そこに入れるくらいの実力がある人は、海外の一流大学への留学を検討するべき」そして、「それほど偏差値が高くない人は、日本の特色ある教育を打ち出している中堅大学を名前ではなく中身で選んで入るべき」というものです。
要するに「日本の大学教育への警鐘、とくに『一流大学』の教育レベルの低さを指摘している本」なのです。
僕はいまから大学に入ることは(たぶん)ありませんし、息子もまだ小学校入学前なので、あまり切実な気分では読めませんでした。
僕自身も、いまは学生を教育する立場ではありませんし。
とはいえ、ここで紹介されている、海外の一流大学の厳しさを知ると、日本の「大学」というのは、学生の自由度が高いというか、まだまだ「大学は遊べるところ」という意識があるのだな、と思い知らされます。
いや、海外にもおそらく「しょうもない大学」は、あるんでしょうけど。
ちなみに、隣の韓国はどうしたか。1997年のIMF危機、これで強制グローバル化が行われました。別に韓国が良くて日本がダメと言っているわけではなくて、韓国は強制的とはいえグローバル化に早く取りかかった。
韓国では小学校から英語教育はネイティブか留学経験者だけが担当します。日本は相変わらず受験英語教育をやっています。これは英語に苦手意識を持つ、大量の英語嫌いと、ごく一部の受験英語が得意な自称グローバル人材を作り出します。
大学教育は相変わらず、黙って数百人が授業を聴き、レポートだけ出せば単位が出るような教育をしており、30年前と変わりません。自分で考え、発表するような教育はごく一部です。だいたい、高校までそういう教育を受けていないのに、大学でいきなり自主的に学べる学生ばかりではありません。本当の意味での企業とのニーズのすり合わせもしていない。
30年前の教育を受けて、20年後の社会で使うと、時差は50年です。こうした、時が止まった教育を今受け若者たちというのが、この後社会の主役になっていくと考えた時に、お先真っ暗です。でもそれは、相変わらず過去のルールで教育をやっている大学がいけないのです。
半導体や電機など、うまくいっていない日本のものづくり産業が変われないとよく言われますが、教育の世界も全く同じです。なぜかと言うと、日本の大学は今苦境にある日本のダメな会社の正社員になるための人材を作っているから。
著者はこの例として、東京大学とイェール大学の語学の講義を紹介しています。
東京大学では、語学は英語、ドイツ語(第二外国語)が、それぞれ週に90分×2コマずつ。
講義を受ける学生は、60人くらいだそうです。
それに対して、イェール大学では、月曜から金曜までの1限目(朝がいちばん集中できるから、という理由なのだとか)に、中国語(などの外国語)の講義が入っています。講義時間はそれぞれ50分しかありませんが(そのくらいが集中力が続く時間の限界、ということで)、クラスの人数は7〜10人。
講義を受ける学生としては、どちらがよりプレッシャーがかかるか、容易に想像できますよね。
まあ、日本人である僕としては、英語が母国語の人は、みんな英語ができるところからスタートできるっていうだけでも、けっこうアドバンテージがあるよなあ、なんて僻んでしまうところもあるのですけど。
この語学の例に限らず、日本では、東大や京大、早慶のような一流大学でも(いやむしろ、一流大学のほうが)、大教室で、学生が受け身で話を聞いているだけの講義が多く、先生ひとりあたりの学生の人数が多すぎることを著者は指摘しています。
それで、本当に「世界に通用する人材」が養成できるのか?と。
その一方で、最近の日本の学生の傾向としては、あまり留学したがらず、「内向き」になっていると言われています。
僕も基本的には「意識高くない系」なので、「知らない人、知らない国で勉強するなんて、不安」なのはよくわかるんですけどね。
去年、東京外国語大のオープンキャンパスで出会ったある高校生が、次のように言っていました。
「中国は嫌い。インドネシアは貧しい。フィリピンは危険」
彼は残念ながら、親世代の80年代後半のアジアに対する偏見や価値観のまま、今の日本を生きているのです。日本国内ならそれでいいでしょうが、世界は違うルールで動いていることは明白です。
これは彼の考えではなく、高校の先生や保護者など周囲の大人がそう思っている、本人もネットで偏った情報ばかり見ている。ルールが変わる前の世界が永遠に続くと思っているのが原因です。
ああ、そういう気持ちはなんかわかるよ。
でも、著者がこの本のなかで指摘しているように、これらの国は急速に発展してきているし、ある意味日本よりも可能性やチャンスもある。そして、貧しい地域や危険な場所もあるけれど、それをわきまえて行動すれば、そんなに心配はいらないのです。
しかし、東京外国語大学を見学に来るということは、それなりの偏差値と海外への興味があると思われるのに、こんなもの、なのかな……
この新書を読んでいると、実際のところ、欧米の超一流大学への留学は、けっこうハードルが高そうなんですよね。
優秀な学生が、自分の力を試したい、と覚悟をきめて行くには良いけれど、「海外生活に興味があって……」というレベルだと、返り討ちにあいそうです。
それに比べて、著者が薦めているフィリピンへの語学留学だと、周囲にも同じようなレベルの学生が多いし、先生たちも英語が母国語ではないので、こちらの気持ちも汲んでくれて親切に教えてくれる、しかも発音なども綺麗、と、かなりのメリットがありそうです。
ただ、「じゃあ、あなたの子どもが、フィリピンに語学留学に行くと言ったら、どうしますか?」と問われたら……
うーん、今の僕なら、『イーオン』とかの駅前留学で良いんじゃないの?とか言いそうだな、やっぱり……
日本の場合、海外留学には語学や他国の生活習慣や文化を学ぶ、というのと同時に「箔をつける」というような要素もあるんですよね。
その「箔」というものが、本当に社会で通用するかどうかはさておき。
著者は、「なぜ教員1人あたりの学生数」にこだわるのか?という問いに対して、こんなふうに答えています。
これはアメリカの調査結果ですが、授業から得た内容を覚えているかを半年後に調べたところ、講義で聴いたことを半年後も覚えているのは5%でした。皆さんが聴いた講義の記憶は半年後に消えてなくなっていることが分かります。
読書は10%ですので、講義より読書をしている方がましということが分かります。視聴覚は20%なので、本を読むより映像を見る方がましということが分かります。デモンストレーションは30%ですから、講義の6倍の価値があります。グループ討論は50%です。黙って授業を聴いているより10倍定着するわけです。さらに、「自ら体験する75%」「他の人に教える90%」と続きます。
米国の大学では、授業に積極的に参加しないと点数がつきません。手を挙げないと点数がつきませんので、手を挙げて意見を言わないのはその場にいないのと同じです。手を挙げるといじめられる日本の国民性では難しい面もありますが見習うべきです。
「参加型のほうが、効果がある」ことが実証されている、というわけです。
にもかかわらず、日本では、旧態依然とした講義が、「伝統」の名のもとに、続けられている。
個人的には、「大学が遊べるところ」であるというのは、嫌いじゃないんですよ。
ビジネススクールみたいになってしまうよりは、はるかに人生における意義があるんじゃないか、とも思うのです。
でも、そうも言っていられないのも、世界の現実ではあるのでしょう。
こういう選択肢もある、ということは、知っておいて損はないと思います。
ただし、留学先は、他人の推薦文句だけじゃなくて、自分でしっかり確かめておくようにしてくださいね。