- 作者: 古賀史健
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/01/26
- メディア: 新書
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内容紹介
「話せるのに書けない!」人のための“文章の授業”
どうすれば自分の気持ちや考えを「文章だけ」で伝えることができるのか? この授業のスタート地点はそこにある。そう、僕らは「話せるのに書けない!」のだ。人に口で伝えることはできても、それを頭の中で文章に変換しようとすると、とたんに固まってしまう。メールの一通すら、うまく書けない。「話すこと」と「書くこと」はまったく別の行為なのだ。決して「同じ日本語じゃないか」などと思ってはいけない。この授業では、現役のライターである僕が、現場で15年かけて蓄積した「話し言葉から書き言葉へ」のノウハウと哲学を、余すところなく伝えていく。学校では誰も教えてくれなかった“書く技術”の授業をいま、始めよう!
この本が上梓されたのは、2012年の1月。
著者の古賀史健さんと岸見一郎さんとの共著『嫌われる勇気』が大ベストセラーになったのは、2014年でした(2013年12月に出版)。
僕がこの本を手に取ったのは、古賀さんが糸井重里さんインタビューしてまとめた『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』と読んで、あらためて、古賀さんのインタビュアーとしての力量を思い知らされたからなのです。
この本、『嫌われる勇気』以前に書かれたものである、というのに気づいたのは、読み始めてからなんですよね。
フリーライターとして栄華を極める前に出されているだけに、かえって、「叩き上げのフリーライターの気概」みたいなものがにじみ出ている気がしました。
誰だって、話すことはできる。感情にまかせて口喧嘩することも、気のおけない仲間たちと夜通し語り合うことだってできる。日本語を使って意思や感情を表現することに、これといって不自由を感じない。時間が許すのなら、いつまでもしゃべっていたいとさえ思っている。
にもかかわらず、メールの一通すら「書けない!」のだ。
ここではっきりとさせておこう。「話すこと」と「書くこと」は、まったく別の行為だ。決して「同じ日本語じゃないか」などとひとつの土俵で語ってはいけない。
古賀さんは、学校教育での「読書感想文」が、考えを文章にまとめるトレーニングではなく、「生活指導」になっていることを指摘しています。
「はじめに」でぼくは「書くこととは、考えること」だと述べた。
”書く技術”を身につけることは、そのまま”考える技術”を身につけることにつながるのだ、と。
この真意について、読書感想文を例に考えてみよう。
普段本を読むとき、われわれは「あー、面白かった」と思っていればそれでいい。それ以上の気持ちを誰かに説明する必要なんてどこにもないし、主人公の名前を忘れてしまてもかまわない。
ところが、読書感想文となれば、そうはいかない。
「夏目漱石の『坊っちゃん』を読みました。とっても面白かったです」
これでは、なにも伝わらないのだ。
そうではなく、『坊っちゃん』を読んだことのない人にもわかるように、どこがどう面白かったのか言葉を尽くして説明しなければならない。『坊っちゃん』の面白さを、自分の言葉に”翻訳”していく必要があるのだ。
たとえば、『坊っちゃん』はどんなストーリーだったのか。
そこにはどんな登場人物がいて、それぞれどう絡んでいったのか。
主人公はあのとき、なぜあんなことをしたのか。
作者の夏目漱石はなぜ、彼(主人公)にそんなことをさせたのか。
そして読者たる自分は、物語のどこに「面白さ」を感じたのか。また、それはなぜなのか。
感想文を書こうと思うなら、こうして物語の内容、魅力、ポイント、欠点など、あらゆることを自分の頭で整理・再構築し、アウトプットしていかなければならない。
これは非常に面倒で、骨の折れる作業だ。
しかし、いったんこのステップを通過すると、『坊っちゃん』に対する理解度はまったく違ったものになる。
だってそうだろう。なにも書かなければ「あー、面白かった」だけで終わるはずだった。「なんかよくわかんないけど面白い」で片づけることができた。
ところが、感想文を書くためには、その「なんかよくわかんない」部分に、言葉を与えなければならない。あいまいな記憶、漠とした感情に、論理の串を突き刺さねばならない。書き上げたあと、より深い理解が得られるのは、当然のことである。
実際に過去の経験を振り返ってみても、ただ読んだだけの本と、しっかり感想文まで書いた本とでは、記憶の有り方まで違っているはずだ。
書くことの醍醐味、自分の言葉に”翻訳”することの醍醐味は、ここにある。
われわれは、理解したから書くのではない。
理解できる頭を持った人だけが書けるのではない。
むしろ反対で、われわれは「書く」という再構築とアウトプットの作業を通じて、ようやく自分なりの「解」を掴んでいくのだ。
順番を間違えないようにしよう。人は解を得るために書くのだし、解がわからないから書くのだ。おそらくこれは、世界的な文豪たちでも同じはずである。
わからないことがあったら、書こう。自分の言葉に”翻訳”しよう。そうすればきっと、自分なりの解が見つかるはずだ。長年ライターとして生きてきたぼくが、断言する。
わからないから書けない、言葉にできないから書けない、というのではなくて、言葉に、文章にしてみることによって、自分なりの「答え」に近づいていくことができるのです。
言われてみれば、たしかにそうだよなあ、と。
そして、こういうプロセスがあるからこそ、「書く」という仕事は、現時点ではまだ人工知能に置き換えるのが難しいし、「書く技術」が役に立つ場面が多い、ということでもあるのです。
この本を読みながら、僕は「古賀さんの文章って、一文がけっこう短いというか、あえて長文を避けているような感じがする」と思ったんですよね。
一文の長さを意識しながら読んでいったのですが、一文を短く、構造をなるべくシンプルにすることが徹底されていました。
また、「接続詞を積極的に使うように」とも書かれていて、接続詞が多い僕にとっては、心強くもあったのです。
文章講義の本には「接続詞をなるべく使わないように」というものが多いのですが、文章を論理的に展開していくためには、「ここにどんな接続詞が入るのか」を意識したほうが良い、ということなんですね。
われわれにとっての「伝えるべきこと」、それは第一に”自分の意見”だ。
自分はこう思っている、自分はこんな提案をしたい、自分はあなたにこうしてほしい、といった”自分の意見”こそ、最大の「伝えるべきこと」である。
そして大切なのは”自分の意見”が完全な主観であり、感情だということだ。
文章という声も表情もないツールを使うかぎり、その”感情”は論理のレールに乗せてやらないと届かない。われわれは”感情”を伝えたいからこそ、論理を使うのだ。”主観”を語るからこそ、客観を保つのだ。
この本、基本的に「書くことに興味がない」とか、「書こうとしても、一文字も書けない」という人向きではなさそうです。
その一方で、ある程度書くことはできるのだけれど、どうもうまくいかない、自分の文章に納得できない、という人が、その壁を破るためには、すごく有用だと思います。
視覚的リズムとはなにか?
わかりやすくいえば、文字や句読点が並んだときの、見た目の気持ちよさだ。
本屋さんでパッと本を開いた瞬間、ネットのブログ記事を見た瞬間、受け取ったメールを開いた瞬間。読者はこの一瞬で「なんか読みやすそう」「なんか読みづらそう」を判断している。視覚的で、直観的な判断だ。
もし、ここで「なんか読みづらそう」と判断されてしまうと、本は棚に戻され、ブログは別ページをクリックされ、メールボックスは閉じられる。チラシやDMはシュレッダーへ、というわけだ。
これを避けるために必要なのが「視覚的リズム」なのだが、ぼくは大きく次の3つによって生まれるものだと思っている。
(1)句読点の打ち方
(2)改行のタイミング
(3)漢字とひらがなのバランス
読みやすく、しかもリズミカルな文章をつくるためには、いずれも大切な要素である。
このあと、(1)(2)(3)についての具体的な説明がされていますが、どれも頷かされることばかり。
本もそうでしょうし、とくにブログの場合には、「第一印象」って、すごく大事だと思うのです。
ここで「思う」と書いているわりには、僕は気を使っていないのを反省しているのですが。
ブログの場合、「読みやすいレイアウト」が共有されすぎてしまって、どこも同じにみえるのも問題点かもしれません。
夏休みの宿題の読書感想文はうまく書けなかった、という人にとっては、これまでずっと感じていた「書くこと」へのもどかしさを解消するきっかけになる本ではないかと思います。
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