琥珀色の戯言

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【読書感想】ぼくらの文章教室 ☆☆☆☆


ぼくらの文章教室

ぼくらの文章教室

内容紹介
どうすれば上手な文章を書けるようになるのだろうか。
そのためにはまず、自分の好きな文章たちを見つけること。
そしてその文章たちの中に入りこみ、
「びっくりしたり、感動したり、うろたえたりしているうちに、
……『文章』の成分のようなものがしみついて」くると、
タカハシさんはいう。
たとえば、タカハシさんが好きなのは、明治から昭和にかけて生きた貧しい農婦である木村セン。
彼女は遺書を残そうとして文字の手習いをはじめた。
障子紙の切れっ端に色鉛筆で書かれたその文章は短く、
ことばにも文字にも誤りがあるのに、なぜか力強く響く。
これは「名文」以上の文章ではないか。
あるいは、免疫学者の故多田富雄さんの『残夢整理』の文章。
これは作者が「幻覚」を見るに至るほど、
真摯に、徹底的に考えつづけてきたあげくにできた文章である。
自らの「人生」を見つめる視線の「深さ」によるのではないか、
名文以上の何かが含まれているとタカハシさんは考える。
ところで、現在最も文章がうまい人は誰なのか。
タカハシさんによれば、スティーブ・ジョブズが現代最高の文章家であり、そのプレゼン能力は驚異的だという。
彼が産み出した製品は、製品として素晴らしいだけではなく、
それに伴う「意味」も素晴らしい。
言い換えるのなら、「ことば」が素晴らしい。
ジョブズのプレゼンテーションの中にある秘密とは何だろう。
鶴見俊輔さんは『思い出袋』『教育の再定義』のなかで、
教育に本当に必要なものは何かについてふれている。
タカハシさんはこれを読みながら、「文章」を書く人と読む人との関係は先生と生徒の関係に似ていると思う。
それは人から人へなにか伝えること。
それが「文章」というものの、もっとも大切な機能なのだ。
「教育」と「文章」はよく似ている。
「専門家」や「エラい人」以外のみんなのための、伸びやかな思索が弾む人気の文章教室。


文章を書くのは、簡単なようで、難しい。
考えれば考えるほど、難しくなってくるような気がします。
この本、高橋源一郎さんによる「文章教室」なのですが、実際に読んでいくと「うまい文章の書き方」がわかってくるというよりは、「うまい文章、というか、他人の心に届く文章って、何なのだろう? どうすれば、それが書けるようになるのだろう?」と、かえって悩ましく感じてくるのです。
この本の冒頭で、木村センさんという人の「手紙」が紹介されています。
木村さんは、ずっと文字が書けなかったのですが、ある目的のために、勉強をはじめるのです。
そして、彼女が書いたものは……


結局のところ、ある文章が人の心を動かすかどうかって、その文章そのものの価値だけではなくて、その文章を書いた人への思い入れとか、「背景」に左右されるところが少なくないんですよね。
もちろん、「伝えるための技術」というのは存在するのだけれど、世の中には、「小手先の技術を超えた圧力を持った文章」というのが存在するのです。
もっとも、それらのなかには「当事者どうしだけでのやりとりで、記録には残らない」ものも多いのではないかと思いますが。


高橋さんは、この本のなかで、「文章のテクニック」ではなく、「どんな人によって、名文は生みだされてきたのか?」を語り続けています。
文章とは、「生きざま」でもあるのです。

 太宰治もまた、小説の中で、女々しい自分のことばかり書くどうしようもない反社会の人であった。文章だってそうだ。太宰治の得意技は、女の人のひとり語り。男の作家なのに、「わたし、そうなのよ」なんて文章を大量に書いた。
 なぜだろう。ぼくの考えでは、太宰治は、「男社会」にうんざりしていたからだ。太宰治の周りにあった世界は、男が支配していた。男が支配していたから、戦争になった。男が支配していたから、つまらぬ争いばかりが生まれた。男が支配していたから、女性的なものは虐げられていた。じゃあ、文章で、男の支配を糾弾すればいいのか?
 太宰は、そうしなかった。
 文章で、この世界を糾弾するなんてやり方そのものが、男っぽいのである。男の考えるやり方である。
 では、どうするか。
 太宰治は、時々、女の子の文章を書いた。女の子になって、男(が支配する世界)を見た。ただ見たのである。それで充分、この男の支配する世界のくだらなさがわかったのだ。とはいえ、男だって気の毒だ、と太宰は考えた。支配しなきゃならないから、威張らなきゃならない。堂々とした文章に、立派な内容を詰め込み、威厳をこめてしゃべらなきゃならない。なんて不自由なんだ、支配するってことは。

僕は、太宰治紀貫之が、女性として文章を書こうとした理由が、よくわかりませんでした。
太宰さんは女学生フェチだったんじゃないか、とか想像してもいましたし。
でも、これを読んで、「女性として文章を書くというスタイルそのものが、ひとつの主張なのだ」ということも理解できたような気がします。


この本の「文章教室」のなかで、いちばん僕にとって考えさせられたのは、この話でした。

「わたしは、想像を絶する経験をしました」
 あなたはそう話しはじめる。あなたの周りにいる人たちは、ちょっと興味深そうにする。きっと、最初の三分間は、うんうんとうなずきながら、あなたの話を聞いてくれるだろう。でも、あなたが、「こんな話もあった」「こんな経験もした」と、息つく間もなく、話つづけたら、それから、その話のあちこちで、「きみたちにはとても理解できないだろうけどね」という様子を見せたら、その人たちは、ひとり去り、ふたり去り、残って聞いている人たちだって、退屈そうにしているだろう。
 でも、あなたが、
「わたしは、想像を絶する経験をしました。でも、そんなことは、どうでもいいんです。そんな時でも、いつもと同じように、朝八時に起きちゃうんですよね。その話をします」といったら、みんなはきっと、「えっ?」と思いながら、話を聞いてくれるだろう。
 なぜなら、みんなが興味を持つのは、金持ちの自慢話ではなく、金持ちなのに、お金の自慢をしないことの方だ。ふつうの金持ちは自慢話をするのに、それをしないなんて、どうしてそんなおかしいことをするんだろう、と思うからだ。
 ちょうど、キリストが、全人類のために、ゴルゴダの丘に登り、十字架につけられた時みたいに。
 あの時、キリストは、誰も頼んでいないのに、勝手に、全人類の罪を背負って死んでいった。
「変な人だ」と、当時の人たちは(というか、ぼくたちだって)思ったに違いない。
「ぜんぜん理解できない」とも思っただろう。
「馬鹿じゃなかろか」と思った人だってたくさんいただろう。
 でも、それであることが起きたのだ。あることとは、キリストに興味を抱く人が出てきたことだ。
 あそこには、あの人には、わたしたちの知らないなにかがある」と思ったのだ。そして、彼らは、キリストという人がやろうとしたことに近づいていったのである。

 当時の人々にとって、キリストは「なぜあんなことをやったのか、わからない人」であり、だからこそ、みんなが彼に興味を持ったのかもしれない。


 僕は、ネットで長年読んだり書いたりしていて、「(おそらく)正しいことを言っている人の話が、あまり拡散されず、『炎上案件』のほうが爆発力がすごいのはなぜなのだろう?」と考えてきました。
 それは、多くの人の「理解力」の問題なのか、それとも、正しそうなことを言っている人のほうが、本当は間違っているのか?

 知らないことは書くな。大きすぎることは書くな。
 それは、正しい。でも、正しいけれど、少し悲しい。なぜなら、小さいままでいい、といわれているからだ。おまえは、その程度の人間なのだから、それ以上、望まぬほうがいい、と。
 いったい、ふつうの人間である、ぼくたちは、どうすればいいのだろう。
 自分でもよく知らない歴史的な事件、国とか政治のこと、信仰や宗教のこと、あるいは、テレビの向こうで起こった大災害。そういうものについては、首をつっこまない方がいい、と賢明な人はいう。
 でも、それでは、小さい自分が、さらに小さくなるだけではないか。自分を成長させたい。いまある自分を、いまの時間の、小さな世界から脱出させたい。だから、大きなことも書きたい。どうすればいいのか。
 そのためには、「大きなこと」を書いている「文章」を読んでみればいい。でも、気後れする。「大きなこと」を書いている人の多くは、「壇」の上から(ああ、さっき、そのことはいったばかりだ)書いている。
「わたしは、こんな『大きなこと』に会った。そのことを伝えたい」と書いている。
「わたしの経験の『大きさ』について、ぜひ伝えたい。あなたは、人間として、『大きなこと』について、知るべきなのだ」と書いている。
 でも、そんな風にいわれると、ぼくたち、「大きなこと」に無縁な人間は、ちょっと悲しくなる。それから、馬鹿にされたような気になる。
 そのことは、ずっと、ないがしろにされてきた。放置されてきた、重要な問題だ、とぼくは思う。
「大きなこと」を経験した人生の先輩が、自分の経験した「大きなこと」の重要性を、大きな声でしゃべりつづけたために、後輩たちがすっかりうんざりしてしまっていることに気づかない、という問題だ。
 たとえば、
「前の戦争で、日本は、アジアに対してひどい行ないをした。その罪は償わなければならない」と、「大きなこと」を書くのが得意な人は書く。
 たぶん、その人が言っているのは、「正しい」のだ。でも、その「正しさ」が、ぼくたちには遠い。その「遠さ」が、また悲しい。
 その人たちは、「大きなこと」について語りたい人は、そのことに夢中で、しゃべっているのに、ぼくたちの方を見ていない(それも、さっき書いたことだ)。「大きなこと」についてしゃべっているうちに、だんだん、自分も「大きなこと」に属しているような気がして、気持ちがいいのだ。だから、こちらに気づかないのだ。

 ああ、高橋さんは、こういうことを言葉にするのが、ものすごく上手い人だなあ。
 ネットで「大きすぎることを書く」と、反発も大きくなります。
 とはいえ、書く側の「自分を大きく見せたい」という欲求を抑え込むのも、なかなか難しい。
 多くの場合、そういう人は「(自分にとって)正しいこと」を書いているし、そんな背伸びさえ許されないようでは、あまりに寂しい。


 なぜ、そういう「大きなこと」を言うと反発されやすいかというと、結局「自分に酔って、自分自身も、相手も見えなくなってしまいやすいから」なのです。
 置き去りにされた読み手は、「自分が特別であると思っている書き手」に共感できなくなってしまう。
 相手が「正しそうなことを言っている」だけに、正面から反論はできないけれど、ネガティブなコメントを書いたり、黙って立ち去ってしまったりする人が増えていくのです。
 多少なりとも「上から目線」気質でないと、ブログなんて書けないものではあるのですが、読む人は、書き手の傲慢を見逃さない。
 そして、「じゃあ、そんな大きなことを言う、お前自身はどうなんだ?」と問いかけてきます。


 「正しいこと」は、「面白いこと」や「ツッコミを入れやすいこと」に、なかなか勝てない。
 大部分の人がネットに求めていることは「正しいこと」じゃなくて「面白いこと」だしね。


 タイトルは「文章教室」ですが、これを読んでも「うまい文章」が書けるようには、たぶんならないでしょう。
 でも、「うまい文章、他人に伝わる文章とは、どんなものなのか?」を考えるきっかけになる、とても興味深い一冊でした。

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