琥珀色の戯言

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いますぐ書け、の文章法 ☆☆☆☆☆


いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
文章はサービスである。読んだ人を楽しませるためにのみ文章は存在する。自己表現のために文章は書くものだと考えている人がいるだろうが、大きな間違いである。「自己表現を目的とした文章」は基本的に他人に読んでもらえるものにはならない。独自の視点と実地の調査をもとに人気コラムを書き続け、数年にわたり「編集ライター講座」で教えながらプロとアマチュアの境界線を見続けてきた著者が、自身のコラムの失敗、成功、講座でのとんでもない企画、文章など豊富な実例を挙げ、逆説的真実をこめた文章法の極意を明かす。

僕はけっこう「文章の書き方」についての本が好きで、書店でみかけると購入してしまいます。
この新書、著者が堀井憲一郎さん。ちょっと意外だったんですよね。
美文というよりアイディアや切り口、調査力が売りの人気コラムニストが、どんな文章法を紹介しているのだろう、と。

 うまい文章を書こうと悩んでいる人たちの解決法はただ一つである。
 その解決法を、この1冊で開示していこうというわけだ。


 いきなり答えを書いておきます。


 うまく書きたいとおもっているのに書けない場合、どうすればいいのか。
 うまく書きたいとおもわなければいい。
 ちょっと禅問答みたい。でも、そうなのだ。
 細かくいうと、「”うまく書きたい”とおもっている意識そのものに問題があるので、それをちゃんと取り除けばいい」ということになる。
 結論はそういうことです。
 具体的にどうすればいいのか、このあと述べていこうとおもいます。

 要するに、こういう内容が書いてある新書なわけです。
 

 書き手個人に興味がなく、偶然、ある文章を手にした読者(ネットでいえば、googleで検索して、たどり着いた読者)が、堀井さんにとっての「プロの物書きが想定する基本読者」です。
 堀井さんは、こういう「厳しい読者」に対して、まず、次の2つの点を注意するよう、先輩に教えられた、と書いておられます。


「漢字を減らせ」
「すぐ改行しろ」


 僕は、ネット上ではとくに、もうひとつ「なるべく短く」が必要なのかな、と考えています。
 自分が書いたものには甘くなってしまって、「こんなに頑張って、長文書いたんだぞ!さあ読んで!」とい気分になりがちなのですが、読む側になると、「漢字が多くて、文字が詰まっていて、長い」なんてものは、どんなに内容が面白そうでも、すぐに「戻る」を連打してしまうんですよね。

 
 この新書は、「文章法」を語っているようで、実際は、「いかにして書いている側の『ひとりよがり』から脱却するか」について書かれています。
 「書いている人」というのは、往々にして、「自分が書いた分の苦労を、その文章の価値に上乗せしてしまいがち」なのです。
 他人に読んでもらうためには、それではいけない。

 
 堀井さんは、「他人の悪口を書くこと」について、こう書かれています。

 「悪口でも、こうすればよくなる、という提案がのっけてあれば”良い悪口”なので、大丈夫ではないか」と考える人がいる。
 これは実際にライター講座で質問された。人の悪口をうまく書くにはどうすればいいでしょうか、という質問で、だからおそろしく文章力が必要なので、少なくとも私には一生、うまく書くことができない、と答えたら、ほんとに「だったら最後に改善策をつけた悪口だといいんじゃないでしょうか」と言ってきたのだ。
 そのときの私の答えは、「自分の書いたものを一方的に悪口を言う人はそういう人なのかとおもってスルーできるけれど、でも、そのあとにこうすればよくなる、という意見がついた悪口だったなら、烈火の如く怒りだし、書いた人をまず許さないとおもう」と答えました。改善策のついた悪口とは、つまり対等の立場で悪口を言っていたのが負担になり、相手より上位に立ってその立場を正当化しようというだけだから、悪口の内容よりも、そのポジションチェンジに怒ってしまうのである。改善策を示したいのなら、悪口をまったく切り離して言うべきであるし、感情的に変えて欲しいところがあるのなら、ただ感情的に変えて欲しい変えて欲しいと連呼してくれればいい。少なくとも怒らない。

 「書く側」になると、いろんな「世間」みたいなものを背負ったような気分になって、相手の気持ちを想像することを怠り、失敗してしまいがち。
 堀井さんにとっての「文章法」とは「凝った言い回し」や「難しい言葉」ではなくて、「いかに相手のことを想定して、それに応じて伝えていくか」ということなのです。


 この新書には「多くの人に読んでもらうための文章を書くためのノウハウ」と同時に、「良い文章を書きたいと思う人が、陥りやすいトラップ」の数々が紹介されています。
 優れた「データマン」は、ある店の数値や外観の描写だけではなく、「個人的な趣味趣向」を数多く記録している(そのほうが、そのデータを整理する「アンカーマン」が具体的にイメージし、文章にしやすくなる)、「結果を予想せずに(仮説を立てずに)調査するほど無謀なことはない」など、本当に役に立つ知識が満載です。
 ここで紹介されている、「やってはいけないこと」を、やらないようにするだけでも、かなり「読んでもらえるようになる」のではないかなあ。


 堀井さんは、「文章や小説を書くにはどうすればいいのか」という問いに対して、こう答えておられます。

 文章は文章そのものに運動性がある。
 書き手が制御できるものではない。その「文章が暴走して手に負えない感じ」は、これは実際に体験するしかないのだ。そういう意味で「文章を書くこと」は運動であり、「身体」である。頭脳ではなく、カラダ全体の動きなのだ。頭は司令塔ではあるが、それが制御しきれるわけではない。いくら私がここで言葉を尽くしてその感覚を説明しても、読んでるあなたが実体験できるわけではない。
 だから、書くしかないのだ。
 つまり、私の説明してることを、あなたも実際に体験してみるしか、文章をうまく書ける方法はない、ということだ。だから、とにかく書け、なのだ。理屈を学んでる手間で書け、ということ。 サッカーがうまくなりたいときに、あなたはどうすればいいのか。
 サッカーボールをまず蹴ること、実際にカラダでトラップすること(ボールをカラダに当てて蹴りやすいように前に落とすこと)、ヘディングで狙いをつけること、それを繰り返していくしかない、そして何人かでサッカーをやること。実際にゲームで起こることに近い状況を繰り返し体験すること。それに尽きる。そうしないとサッカーはうまくなれない。ただ頭で考えていてもだめだ。身体で覚えろ。グラウンドではそういう教えが常に有効である。
 文章はこれとまったく同じなのだ。

 なるほどなあ、と思いました。
 それと同時に、「文章法」の本がこれだけたくさん出ているのに、なぜ満足できる文章が書ける人がそんなに増えないのか、という理由もわかるような気がします。


 僕は運動オンチなのですが、最近流行のマラソンの入門記事などを読むたびに、「ああ、自分もやってみようかな。年齢的にも、運動して体力を維持していかないと、この先とんでもないことになりそうだし……」と切実に考えます。
 でも、そう思ったからといって、実際に外に駆け出していくことはありません。
「マラソンシューズがないし……」「もう夜遅いし……」「近所の人に見られたら恥ずかしいし……」
 

 もし、「本当にやりたい」か、「やらなければならないという強迫観念に駆られている」のであれば、たぶん、そこらへんにある運動靴を引っ張り出してきて、すぐに外に出ているはずなんですよ。
 靴と道さえあれば、走ることはできる。
 でも、そうしないのは、僕にとって、「やりたくないこと」だから、あるいは「優先順位が低いこと」だからなのです。


 「文章が書けない人」にとっての「文書を書くこと」って、僕にとっての「マラソン」と同じことではないでしょうか。
 何のためらいもなくそれができる人からみれば、「そんな簡単なこと、いつだってできるのに、なんでやらないの? やればできるはず」でも、「できない人(あるいは、心の底からは、やろうと思っていない人)」にとっては、すごくそのハードルは高いのです。
 「いつかやろうと思ってはいるんだけど……」と言っているうちに、いつのまにか年をとり、死んでしまう。

 
 そう考えてみると、こういうのは「向き不向き」とか「才能」に属することなのかもしれません。
 やる人、できる人は、「文章法」なんて読まなくてもやるし、できる。
 その一方で、やらない人、できない人には、「文章法」も効果がない。

 
 たぶん、その「できる人」と「できない人」の境界上にいる、ごく一部の人たちにとっては、すごく役に立つ本だと思います。

 足が遅くても大人の日常生活ではそんなに困りませんが、「まともに伝わる文章も書けない」というのは、かなりのハンディキャップではありますから、「他人に読んでもらうための文章を書く必要がある人」は、一度読んでみて損はしないはず。
 これを読んで「自分の文章を書く」のは、なかなか難しそうですが、「陥りやすいトラップ」を避けるだけでも、けっこう違うと思いますよ。

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