琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか?
滑走路下にいるのか、それとも……
民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、
日米の機密文書も徹底調査。
新聞記者が執念でたどりついた「真実」。

「僕は、硫黄島発の電報を受けた側にいた父島の兵士の孫だった。
『祖父の戦友とも言える戦没者の遺骨を本土に帰したい』
13年前に一念発起し、政府派遣の遺骨収集団への参加を模索し続け、ようやく参加が認められたのだった。
僕の心には、あの電報があった。
『友軍ハ地下ニ在リ』
硫黄島の兵士たちは今も地下にいて、本土からの迎えを待っているのだ。
電報を信じ、地を這うように玉砕の島の土を掘りまくった。
結果、僕はこれまでにどの記者も挑まなかった謎の解明に、執念を燃やすことになった。
その謎とは――。
戦没者2万人のうち、今なお1万人が見つからないミステリーだ」――「プロローグ」より


 「硫黄島(いおうとう)で戦死し、置き去りにされた日本兵の遺骨を日本に還す」活動に携わり続けている地方新聞記者の著書です。
 2023年で、太平洋戦争が「終戦」してから78年になり、当時の体験を語ることができる人は減り続けています。
 「あの戦争」の記憶は風化しつつあるし、世界各地では、その後も戦争が起こっているのです。


 著者は1976年の生まれで、僕より少し若いかたなのですが、この本を読みながら、僕は考えずにはいられませんでした。
 いま50代前半の僕にとって、「太平洋戦争」というのは、「忘れてはならない日本、あるいは世界にとっての苦い記憶」だという認識はあるし、戦争はイヤだけれど、僕自身は、78年前の硫黄島で亡くなった人たちの遺骨を帰還させるために、時間をつくって現地に赴こうと思うか?と。

 著者は新聞記者ですから、それこそ「ネタ」にするために、硫黄島にこだわり続けているのではないか?

 読んでいくうちに、僕は圧倒されました。
 この人(著者)の「硫黄島で亡くなった人たち」への感情は、「仕事」とか「功名心」とかの域を超えています。
 そもそも、遺骨収集団に参加した時点では、そのことを記事や本にできるかどうかはわからなかったのです。


 硫黄島は、日本に返還された現在でも自衛隊あるいは米軍関係者、あるいは年に4回(時期や状況によって変動あり)、2週間程度滞在する遺骨収集団に参加する以外に、入ることが難しい島なのです。
 報道関係者は、慰霊式典や要人視察の際に取材で入島が認められることがありますが、自由行動はできない「同行取材」です。
 過去に、珍しい場所を見てみよう、と物見遊山気分でSNSに遺骨収集の様子を発信した参加者がいたそうで、遺骨収集団は原則的に遺族かその関係者が選ばれることになっています。
 そして、参加者はどんどん高齢化していっているのです。


 「遺骨収集」の現場が、ここまで過酷なものであるということも、この本を読んではじめて知りました。

 壕の通路は高さ約150センチ。僕の身長は179センチ。立ち上がれる高さではない。前屈みになって慎重に歩く。幅は1メートルほどしかない。そこに太さ50センチほどの冷風装置の管が通っている。すれ違うことはできない。5人は入った順番のまま、30分間、作業をしなくてはならなかった。
 管は数メートルごとに穴があり、そこからマイナス4度の冷風が噴き出した。その穴付近は確かに涼しい。しかし、そこを離れると、たまらない熱さだ。冷風装置のためか砂ぼこりもひどい。肺にも悪そうだ。まるで炭鉱作業員になったようだ。


(中略)


 僕の頭の中に常にあったのは、2010年8月にチリのコピアポ鉱山で起きた事故だ。楽版によって作業員33人が69日間、閉じ込められた。このニュースを知った時、僕は大きな恐怖を感じた。作業中、考えないようにしても、頭から離れなかった。
 それにしても熱い。そして息苦しい。作業は両膝と片手を塹壕に付けた姿勢で続けた。壕底の地熱を我慢できたのは最初の10分だけだった。次第に手や膝に痛みを感じるようになった。低温やけどでもしているのではないかと思い、膝と手をこまめに壕底から離すようにした。
 そして30分が経過した。一人が、地上に戻ろうという合図をした。そして僕たちは再び滑り台のような角度の坂道を転落しないように慎重に登り、立て坑のはしごを登り、地上に出た。


 硫黄島で落命した日本兵は2万人と言われていますが、現在まで遺骨が見つかっているのは1万人だそうです。
 その「1万人」という数字も、厳密なものではない概数であり、戦後時間が経ち、遺骨から「人数」を割り出すことの難しさについても詳しく書かれています。
 さまざまな理由で、遺体の一部が持ち去られたり、移葬されたりしたのではないか、とも推測されています。
 見つけやすい場所から捜索されていることもあり、発見される遺骨の数は収集開始直後に比べるとかなり減少し、風化による遺骨の損傷は激しくなり、全身の一部の骨しか見つからないことがほとんどです。
 こんな過酷な状況での捜索ですから、収集団員たちの身体も心配になってきます。
 40代後半の著者が「若手」なのだから。


 それでも、遺骨収集を続けている人たちがいて、これからも、その活動の継続を願っているのです。

 遺骨収集団に参加して僕が知ったこと。それは収集団の全員が全力を尽くしていたということだ。なのに、約2週間、捜索に取り組んでも、なぜ4体しか見つからないのか。どうして戦後七十数年たっても、これほど小さな島で戦没者2万人のうち1万体しか収容できないのか。


 太平洋戦争時の日本が「戦争」に対してやっていたように、「国家の総力をあげて捜索する」となれば、もしかしたらもっと多くの遺骨を見つけられる(見つけられた)のかもしれません、
 でも、戦後の時代を生きてきた僕は、「それは現実的ではない、というか、もっと優先順位の高い政策がたくさんあるだろうな」と思ってしまうのです。


 硫黄島の遺骨収集団への参加のために、2週間の休暇を願い出た著者に対して、会社や上司は、これまでの著者の硫黄島への思い入れと取材活動を見てきたこともあり、スムーズに休暇を了解してくれたそうです。

 ただ、一人の同僚からは酒の席でこう言われた。
「お前のやっていることはしょせん骨だろ。いい歳をした記者なんだから、取材の優先順ぐらい分かって仕事しろよ」
 こうしたことを言われるのも無理はないと思った。新聞記者は最新ニュースを追うのが職務だ。多くの国民にとって、70年以上も前の戦没者遺骨は関心の外にあるのだ。
 しかし、だ。今なお硫黄島や沖縄、海外の旧戦地で取り残されたままの戦没者遺骨は「しょせん骨」なんかでは決してない。戦争が生み出すのは悲劇だけであり、その悲劇は代を超えるという後世に伝えるべき教訓そのものなのだ。だからこそこの問題を報じる記者もいなくてはならない。以後、僕は戦争報道の志が弱くなった時に、この「しょせん骨だろ」を思い出す。思い出すと志が蘇る。僕にとって最大のパワーワードの一つだ。


 この本を読んでいる最中には、著者の側への思い入れが強くなっていて、「ひどいことを言う人もいるんだな」と思いました。
 しかしながら、読み終えて著者の熱意から少し離れてみると、「直接本人にこんなことを言うのはデリカシーがないとは感じるけれど、僕自身も『骨』のために使うお金や労力があれば、いま、生きている人のために使ったほうが良いのではないかと考えずにはいられなかった」のです。
 僕自身は、霊魂や死後の世界は信じていないし、医療従事者として新型コロナ禍に直面し、「いまわの際に亡くなる人の側にいること」や「遺体に寄り添うこと」ができない状況を、ほとんどすべての人が受け入れてくれたことに内心驚いてもいたのです。
 「感染してもいいから会わせろ!」って抗議してくる人が少なからずいるのではないか、と最初は思っていました。
 実際は、みんな「こんな状況下だから、感染拡大予防のために仕方ない」と、感染予防対策に協力してくれたのです。


 人というのは、それが「非常事態」だと自分自身、そして世間が認めている状況であれば、これまでの慣習からすれば「非常識」なことにも適応してしまう。
 戦時下では、「からっぽの(骨の欠片さえ入っていない)骨壷」が戦地から還ってくるのが「当たり前のこと」になったように。
 平時の人間が抱えている「当たり前の弔い」は、揺るぎないものではない。
 宗教や文化、それぞれの人の背景、亡くなった人との関係によって、千差万別なのです。

 著者は、硫黄島で戦死した人々に惹きつけられたきっかけを、祖父が硫黄島からの最後の電報を受けた父島の兵士だったこと、そして、お父さんが小学生の時に急逝してしまったことだと述べています。
 家族を遺して、硫黄島で、少しでも米軍の侵攻を遅らせ、本土の人々を守るために死んでいった兵士たちとその家族に、自分自身と突然逝ってしまった父親を重ねずにはいられなかったそうです。

 僕が「著者の気持ちはわかる」というのは、嘘でしかありません。
 僕は硫黄島での日本兵の闘いを映画や本で知り、涙したこともあります。
 でも、今の僕は「遺骨収集に使うお金があれば、ひとり親の貧困家庭のサポートに使ったほうが良いのではないか」と思うのです。


 人の心には、それぞれ生きてきた背景があり、他人に触れられると感情が大きく揺さぶられる「逆鱗」みたいなものがある。
 もちろん、僕にもそれはあって、他者からみれば「たかがそれくらいのこと」「乗り越えるべきこと」なのかもしれなくても、僕はそこに触れられると、正気ではいられない。


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 少し前に、この西原理恵子さんに関するエントリを書いたとき、僕はブックマークコメントなどでの反応に驚きました。


b.hatena.ne.jp

 僕自身は、「西原さんについて、これまで見聞きしたことを紹介し、世の中にはこういう人もいる、ということを伝えるだけ」のつもりだったのです。
 ところが、「お前は、あんな『毒親』の味方をするのか?」「これを書いたのは、親に虐待された子どもの気持ちがわからないひどい人間だ」と言われ、「そんなつもりじゃないのに、なんでそんなふうに解釈されてしまうのか……」と絶句しました。
 結果的に、「当事者」にとっては「傍観者として誰かに語られること」そのものが「踏みにじられること」だったのだと思います。


 インターネットで、評論家のように語ること、いや、ネットに限らず、見知らぬ人々の目に触れるところで、「第三者として」何かを発言するということそのものが、誰かを傷つけてしまうことは、多々あるのです。


 戦没者の遺骨収集は、大事なことだけれど、僕は著者と同じ熱量で、それに向き合うことはできない。
 僕は戦争は嫌だし、自分の子供たちが戦争に行ってほしくはないけれど(そもそも、「戦地に赴く」ような戦争は、近い未来に無くなっている可能性もあります)、僕の祖父世代、親たち、僕自身、そして子どもたちの「戦争」に対する感じかた、考えかたを統一することなんてできない。

 ウクライナ戦争の時代を生きていると、戦争をしたい市民はほとんどいないはずなのに、「戦うか殺されるしか選択肢がない状況」は生じてくるし、だからこそ、人類の歴史から戦争は無くなっていないのではないか、と考え込まずにはいられません。

 8月15日に、こんなことをクーラーが効いた部屋で描いていられるのは、単に僕が生まれたタイミングがこの時代だったからに過ぎません。歴史的には、ものすごく幸運なはずなのに、それでも、僕の日常は、満たされないことばかりです。


 すみません、なんだか脱線しまくってしまいました。
 それでも、この本を読んで考えていたこと、感じたことを、そのまま書きました。


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