琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】訂正する力 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく。

哲学の魅力を支える「時事」「理論」「実存」の三つの視点から、
現代日本で「誤る」こと、「訂正」することの意味を問い、
この国の自画像をアップデートする。

デビュー30周年を飾る集大成『訂正可能性の哲学』を実践する決定版!

聞き手・構成/辻田真佐憲 帯イラスト/ヨシタケシンスケ

保守とリベラルの対話、成熟した国のありかたや
老いの肯定、さらにはビジネスにおける組織論、
日本の思想や歴史理解にも役立つ、隠れた力を解き明かす。
それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、
現実に合わせて変化する力――過去と現在をつなげる力です。
持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、
読み替える力であり、「正しさ」を変えていく力でもあります。
そして、分断とAIの時代にこそ、
ひとが固有の「生」を肯定的に生きるために必要な力でもあるのです。



 僕は20年以上、インターネットで書き続けています。
 10年くらい前、ブログがまだ「主戦場」だった時代には、ネット上で「過去の発言との整合性」を検証されることが多かったのです。
 インターネットのおかげで、過去の発言をスクリーニングすることが簡単になったため、「前はこんなことを言ってたじゃないか!」と、責められることもありました。
 僕レベルでさえそうなのですから、芸能人や文化人枠の人たちは大変だろうな、と思います。

 吉田豪さんのインタビューを読むのが大好きなのですが、プロインタビュアーの技術に乗せられて、はっちゃけて過去のヤンチャな行動を語っていた人たちなんて、時限爆弾をたくさん抱えているようなものでしょう。

 最近はもうみんなが諦めてしまったのか、ブログがもうあまり読まれていないからなのかは分かりませんが、個人ブログレベルでの「ネットバトル」は、ほとんど見かけなくなりました。
 他者に対して言及する「トラックバック文化」的なものも、すっかり廃れてしまいました。
 それが悪いことかと言われれば、ネットの平和のためには、好ましい変化ではあるのでしょうけど。

 この『訂正する力』を読みながら、僕の東浩紀さんへの印象というか人物観、みたいなものもだいぶ変わってきたよなあ、と思ったのです。
 『動物化するポストモダン』が話題になった頃、2000年代初めの「時代の寵児」だった頃の東さんは、なんだかすごくチャラチャラしているというか、流行りものに乗っかっている軽薄な学者っぽい人にみえて、苦手というか嫌いでした。
 東さんは僕と同世代なので、なおさら、そんな「やっかみ」も強かったのです。

 でも、2010年代半ばからの『ゲンロン』での活動や『弱いつながり』(2014年)を読んで、僕は「現実とかお金の荒波に揉まれた哲学者」になった東さんの文章に、とても惹かれるようになったのです。


fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenadiary.com


 それが「成熟」なのか「現実への妥協」なのかはわからないけれど、最近10年間くらいは、東さんの言葉に、親しみを感じるようになってきました。
 読みやすく、わかりやすく書かれるようになってきてもいるのだと思います。

 東さんは、この『訂正する力』のなかで、「人間は、変わっていくものなのだ」と再三述べています。

 訂正するとは、一貫性をもちながら変わっていくことです。難しい話ではありません。ぼくたちはそんな訂正する力を日常的に使っているからです。
 この点でうまいなと思うのは、ヨーロッパの人々です。彼らを観察していると、訂正する力の強さに舌を巻かざるをえません。
 新型コロナウイルス禍を思い出してください。イギリス人の「訂正」にはすさまじいものがありました。大騒ぎしてロックダウンをしたと思いきや、事態があるていど収まると、われ先にマスクを外していく。「自分たちはもともとコロナなんて大したことないと気づいていた」と言わんばかりです。「いや、そうだったかな」と思わずにはいられないですが、彼らはあたかもそれが当然だったかのように振る舞います。
 日本人からすると「ずるい」と感じるかもしれません。スポーツでもしばしばルールチェンジが問題になっています。
 それでもヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。政治でも同じです。例えば気候変動。少し前まではドイツは、「脱原発」や「二酸化炭素排出量の削減」を高らかに掲げていました。ところがウクライナで戦争が勃発しロシアからの天然ガスの輸入が途絶えると、「やはり原発と石炭火力も必要だ」と言い出す。
 これまで観光業で散々稼いできたフランスも、最近はオーバーツーリズムを懸念し、「地元コミュニティと環境保護のために観光客数を抑制する」という新たな方針を打ち出しています。華麗な方向転換です。


 F1やオリンピック種目のウインタースポーツで、「日本のメーカーや選手が優位になるたびに繰り返されるレギュレーション(ルール)の変更」を、僕は何度もみてきました。
「エンジンや選手の能力向上で対抗するのではなく、ルールを変えてしまうというのは卑怯だよなあ」と思っていたのです。
 しかしながら、そういうことができるメンタリティは、彼らの「強さ」でもあります。
 東さんは、日本もたくさんのものを外国から取り入れてきたし、「訂正する力」はあるのだ、と仰っています。
 「訂正する力」は、現状を守りながら、変えていく力のことだ、とも。

 人は何年、何十年も生きて、さまざまな経験をすることによって、考えが変わることはあるはずだし、それが当たり前だと僕も思います。

 死刑廃止を強く望んでいた人が、自分の家族が快楽殺人犯の被害に遭っても、その「もともとの信念」を貫けるかどうか?
 僕は、「転向」して、「やっぱりアイツは死刑にしてくれ!」と、変わってしまう人のほうに共感せずにはいられません。

 まあ、これは極端な事例ではあるのですが。

 論破力といえば、2ちゃんねる創設者のひろゆきさんです。彼は日本でいまもっとも影響力のある言論人のひとりですが、相手の矛盾を突くのがうまく、メディアで「論破王」として盛んにもてはやされています。
 論破ブームにより、どんな議論でも「勝敗」で判断することが一般的になってしまいました。みな絶対に謝れなくなっているし、意見を譲って妥協することもできなくなっている。これは2010年代後半からSNSで顕著に見られるようになっていた傾向ですが、コロナ禍でのひろゆきさんの活躍によりネット外にも一気に広まりました。
 論破力が基準の世界では、訂正する力は負けてしまいます。訂正した瞬間、相手から論破したと言われてしまうのですから。では、どうしたらよいでしょうか。
 ひろゆきさん自身の言葉にもヒントがあります。彼はベストセラーとなった『論破力』のなかで、討論には必ずジャッジをつけろと述べています。勝ち負けを判断する観客がいないとディベートが成立しないというわけです。
 ぼくはひろゆきさんほど観客はもっていませんが、似たことを考えていました。ただしぼくが想定する観客は、勝ち負けを判断するというより、話の本題とは別の感想を抱いてしまう「いい加減な観客」です。
 たとえば、「このひとの主張は弱い、議論には負けてる」と判断を下しつつも、「でも悪いやつじゃないな、話の続きを聞きたいな」と思ってしまうような観客です。そういう観客が多くいると、訂正する力が機能することがあります。話し手が意見を訂正したり、負けを認めたりしても、「それはそれ」で真意をつかんでくれるようになるからです。
 そういう価値転倒は、Twitterだと情報が少なすぎてあまり起きません。けれども動画では生じることがあります。ひろゆきさんも人気があるのは、じつは論理が強いからだけではなく、彼のしゃべりかたに特徴があって魅力的だからだと思います。人間はそういうところで動かされるものです。言葉だけを取り出して「このひとがこのひとを論破した」などと騒いでも、対話の本質をつかまえることはできません。


 「論破」するよりも、「人間性に興味を持たれる」「魅力的な人だと思われる」ほうが大事なのではないか、というのは、僕にもわかるような気がします。突き詰めれば、近い将来、人間は、AI(人工知能)を「論破」することはできなくなるでしょうし。

 コンピュータ将棋が人間の名人より強くなったら、僕は将棋というのは娯楽としても競技としても終わるのではないかと思っていました。
 しかしながら、藤井聡太八冠という大スターの登場もあって、自分が指すことはほとんどないけれど、棋士の人間ドラマを楽しむ「見る将」が増えてきているのです。

 SNSの観客たちは、白黒付けたがりすぎる傾向があって、第三者の夫婦の諍いへの愚痴のポストに「離婚!」みたいなコメントがつきまくることに、「無責任だなあ」と感じることが多いのです。
 
 その一方で、「動画にはSNSにはない魅力がある」のはわかるのですが、最近は動画も「ショート動画」がどんどん主流化してきて、みんな、自分のことは知ってほしい、考えてほしいけれど、他人のことに深入りする余裕はないんだよな、とも感じます。

 2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家のカズオ・イシグロ氏は、2021年のインタビューで、リベラルなインテリは世界中を飛び回って国際的なふりをしているけど、じつはどこへ行っても似た階層のひととしか会わず、同じような話題しか話していない、もっと身近な人を深く知ったほうがいいと話しています。ネットでかなり話題になったので、ご存じの読者もいるかもしれません。
 ぼくも数は少ないながら、国際会議に出席したり、海外の大学に呼ばれて講演をしたりしたことがあるのですが、この意見には完全に賛成です。インテリがインテリと会って話内容は、国境を越えても驚くほど同じです。開かれた社会を要求しているはずのリベラルが、じつはもっとも閉じている。

 ぼくは、人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親は子を理解できないし、子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえないし、友人もわかりあえない。人間は結局のところだれのことも理解できず、だれにも理解されずに孤独に死ぬしかない。できるのは「理解の訂正」だけ。「じつはこういうひとだったのか」という気づきを連鎖させることだけ。それがぼくの世界観です。
 だから、「組織をつくるのが大事」と言っているのは、そういう空間をつくれば周りのひとに分かってもらえるよ、孤独がなくなるよ、という意味ではないのです。そういう意味では、ゲンロンをやっていてもぼくは孤独なままです。
 そうではなくて、大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくることなのです。


 東さんの言葉が「気になる」と感じた人は、この本をぜひ読んでみてください。
 あらためて考えてみると、X(Twitter)というのは、まさに「『おまえはおれを理解していない』と永遠に言いあう空間」のような気もしますね。
 いや、Xでは、「言いあう」のではなくて、ただ、虚空にポストするだけなのかな。
 だからこそ、救われる面もあるのかもしれないけれど。


fujipon.hatenablog.com

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