天然パーマでおしゃべりな大学生・久能整は、広島で開催される美術展を訪れるため同地にやってくるが、そこで犬童我路の知人だという女子高生・狩集汐路と出会い、あるバイトを持ちかけられる。それは、狩集家の莫大な遺産相続に関するものだった。当主の孫にあたる汐路ら4人の相続候補者は、遺言書に記されたお題に従って謎を解いていく。やがて彼らは、時に死者さえ出るという狩集家の遺産相続に隠された衝撃の真実にたどり着く。
2023年映画館での鑑賞19作目。 平日の夕方からの回で、観客は僕も含めて10人くらいでした。
正直なところ、『ミステリと言う勿れ』は、マンガもテレビドラマも全く観たことがなくて、ドラマでは菅田将暉さんと伊藤沙莉さんが出演していることくらいしか知らなかったのです。この映画も、伊藤さん、なかなか出てこないなあ、と思いながら観ていました。
それなのに、なぜ映画から、という感じではあるのですが、「映画を観たくてアテもなく映画館に来てみたけれど、どうも、これ!という作品がない」という状況で、検索してみたら「原作、テレビドラマを知らなくても大丈夫」そうだったのでこれにしたのです。
ヒットしていて、興味はあったので。
結論から言うと、けっこう面白かった。
角川映画の横溝正史シリーズを子ども時代に観た僕としては、なんだか懐かしいテイストの旧家の因縁ミステリ、というムードにニヤニヤしているところに、作中で『犬神家の一族!?』とセルフツッコミが入ってきて苦笑いしてしまいました。
この時代、令和にこの世界観かよ!とは思うのですが、それを確信犯としてやっていて、微妙なバランスのなかで、作品として破綻しないくらいにまとめているのはけっこうすごいことだと思います。
展開としては、けっこう強引というか、「それはあまりにも犯行計画が偶然性に頼りすぎているし、杜撰すぎるだろ。戦後すぐの警察ならともかく、さすがに8年前とかにそんな適当な捜査はしないだろうし」と思うところもあります。
登場人物の思考や犯行の動機も、「正気?」って感じでした。
たぶんこれと同じ内容のミステリを、久能整抜きでやると、「昭和レトロ、横溝正史かぶれの時代錯誤ミステリ」として、ネタにしかならないはず。
しかしながら、この『ミステリと言う勿れ』という作品世界で、菅田将暉さんが演じている久能整の思索に触れ続けていると、「世の中にはいろんな人がいるし、そういう人がいてもおかしくないな」と納得してしまうんですよね。
久能整さんのキャラクターや言葉は、ミステリとして、一般的な人間の行動パターンとしての「ありえなさ」を補完し、「こういうことも現実にあるのかもしれないな」と思わせる力がある。
菅田将暉さん、上手いな本当に。
「あなたは子どもの頃、バカでしたか?」
なんていう、刺さる発言や名言の数々も、思わず出典を調べてみたくなるものばかりでした。
むしろ、久能整さんの蘊蓄が見どころ、まであるのではないかと。
とはいえ、1970年代、昭和の角川映画の記憶を照らし合わせながら面白がれる人と、こういう「旧家の怨念」みたいなものにあまり免疫がない若者とでは、別の観方がされている映画なのかもしれないな、とも思います。
個人的には、あんまり感動方面に持って行ってほしくなかったな、とか、さすがに現代の警察の捜査能力舐めすぎだろ、みたいな思いはあったのですが、そんなふうに「犯罪としてのリアリティ」「ミステリとしての整合性や確実性」を求める作品ではなく、「人間がやることだから、こんなことも起こり得る」という気持ちで、久能整の佇まいを見届ける作品なのでしょう。
もともと、いろんな先人の作品からの引用や、(過去の作品という)巨人の肩に乗る、ことを楽しみつつ、ちょっと予想を外されるところもあって苦笑する、それで良いのだろうし、それこそ、これがきっかけで横溝正史の金田一耕助シリーズに興味を持つ人がいれば、言うことなし。
他者からみると、「そんなことに責任を感じる必要がない」ことでも、本人は「あのとき、自分があんなことをしなければ……」と思わずにはいられない、とか、過去の、自分の先祖の「罪」に対して、その被害者の子孫たちに、どういう態度をとればいいのか?とか、さりげなく、多くの宿題を残してくれる映画でもありました。
まったく予備知識なしの状態で観たのですが、けっこう面白かったです。
少なくとも、テレビドラマやマンガを観てみようと思うくらいには。