参考リンク:『ニートの歩き方』というか - Chikirinの日記
この書評(というか紹介文)を読んでいて、すごく気になるところがあったのです。
たとえば今回の本の中に、「僕は映画が観れない」とあるんですが、これってphaさんの性格をよく伝えていると同時に、今の世の中が何を求めているのか、ということもキレイに表現しています。
現代社会における仕事って、「映画を観るのが全く苦にならない人」でないと、続かないようにできてるんだよね。ちきりんもこの文章を読んで、そこに初めて気が付きました。
「映画」が人に求めるものと、「今の社会で成功するために求められるもの」が同じだっていう洞察はけっこう鋭い。「映画が流行らなくなってるのって、ここに本質的な原因があるんじゃないの?」って思うほどです。
「映画」が人に求めるもの=「いまの社会で成功するために求められるもの」か……
なるほどなあ!と一度納得したあとで、僕はちょっと考え込んでしまいました。
わかったようなつもりになってしまったけど、「映画が人に求めるもの」って、いったい何なのだろう?
あんまり気になったので、この『ニートの歩き方』という本を買って読んでみたのです。
本のなかには、こう書いてありました。
たとえば、僕は映画が全く観れない。カルチャー的なものだと小説も好きだしマンガも好きだし音楽も好きなんだけど、映画だけは観れなくて、知り合いと映画の話になると全く入れなくてときどき寂しい思いをする。
なぜ観れないかと言うと、一時間半や二時間の間、じっと座って同じ画面をずっと見続けるということに精神や肉体が耐えられないのだ。大体40分くらいで限界がきて、それがどんなに面白い映画だったとしても集中力がなくなって飽きてしまい、体がムズムズしてそのへんを歩き回ったりインターネットを見たり体をぐにゃぐにゃに動かしながら踊ったりしたくなってしまう。
うーん、なるほど。
映画の内容云々以前に「2時間じっと座って同じ画面をずっと見続ける」ことができない、ということなんですね。
たった2時間くらい、とか考えてしまうのだけれども、実は僕も、家でDVDを観ていると、2時間続けて観ることができるほうが珍しいんですよね。
映画っていうのは、バラエティ番組みたいに「観ながらネットやゲームをやる」ということができないので(もちろん「できない」ことはないんだけれど、内容を理解するのは困難です)、けっこう敷居が高いんですよね。
「伏線」とかを見逃さないために、けっこう集中して観なければならない。
(とか言いつつ、僕はけっこう同行者に「あの伏線、気づかなかったの?」って呆れられます。外国の俳優さんの顔って、見分けがつかないし……)
ですから、家で映画のDVDを観るときは、120分の作品であれば、60分ずつ2日間に分けて観ることがけっこう多いです。
1時間くらいであれば、なんとか集中できることが多いので……
そういうのは、映画の観かたとしては、あまり正しくはないのかな、なんて思いつつ。
そもそも、周りに本もネットもある環境で、映画にだけ2時間集中するのは、かなり難しい。
そういう意味では、飛行機の中ほど映画に集中できる環境というのは無いかもしれません。
(でも、かなり眠くなるんだよね機内で映画観ていると)
僕がなぜ映画館で観ることを好むかというと、映画館の画面の大きさや音の迫力、周囲の反応よりも、「あそこに行くと、映画を観るしかなくなるので、なんとか映画に集中できる」からなのです。
そこまでして観る必要があるのか?と仰るかたも多いと思われますが、そうやって、「無理やり集中して観る」と、けっこう面白いんですよね。
家で観ていると、何度も同じシーンを繰り返して観ても、なんだかよくわからないこともあります。
実は、「2時間、映画に集中する」っていうのは、けっこう大変なことなのかもしれません。
多くの人は、「面白い映画であれば時間を忘れる」のでしょうが、僕はけっこう途中で「あとどのくらいかなあ」なんて腕時計に目をやることが多いです。
正直、最近は2時間をこえる映画は、ちょっとつらくなっています。
20年前は、喜んで「2時間×2本立て」なんていうのを観ていたんですけどね。
あの頃は、よく4時間も続けて映画を観る気力・体力があったものです。
そういえば、先日、3歳の息子を初映画館に連れていきました。
本人が「行きたい!」と言っていた『きかんしゃトーマス』に。
子ども用の映画って、上映時間が60分とか70分しかないものが多いので、「なんか割高だなあ」と思いつつ観ていたのですが、上映時間70分くらいのその映画を熱心に観ていた息子は、60分経過の時点で、突然僕に訴えてきたのです。
「この映画、まだ終わらないの?」
他の子どもたちも1時間くらいで、急速に飽きるというか、観ていることに疲れてしまうみたいです。
子ども向けの映画が短いのには、それなりの「理由」が、ちゃんとあるんですね。
別にぼったくりなわけじゃなくて。
「2時間、椅子に座って、おとなしくしている」だけでも、それなりの「従順さ」や「社会性」が必要なのです。
とくに日本の映画館は、マナーが厳しい。
「映画観ながらおしゃべりするな!でも、笑ったり泣いたりは、おおいにしてください!」
って、余計なお世話だよ……
とはいえ、僕だって、ずっと画面にツッコミを入れているようなオバちゃんたちや、客席でラブシーンを演じているカップルの近くに座ると、いろんなものを呪いたくなるんですけど。
ただ、ここで、ちきりんさんが仰っている「映画が人に求めるもの」っていうのは、「時間的な拘束」だけではないと思います。
「映画を最初から最後まで観て理解する」っていうのは、ネットなどで「物事の要点だけをまとめたものを、次から次に取り込んでいく」ということに慣れてしまった現代人にとっては、けっこう難しいことなのかもしれません。
先日読んだ『ベスト・オブ・映画欠席裁判』という本のなかで、映画評論家の町山智浩さんと柳下毅一郎さんが、こんな話をされていました。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の回より。
ガース(柳下):いや、どうも監督は「全部セリフでわかりやすく説明してやらなきゃ観客にはわからないんだ」と信じてるみたい。だって、子供が自動車に乗せられて去った後、吉岡は少年が書き残した手紙を見つけるんですが、そこには「おじさんといたときがいちばん幸せでした」って書いてあって、それが子供の声で画面にかぶさるんですよ!
ウェイン(町山):そんなもん、金持ちの息子になるのに憂鬱そうな子供の顔を見せるだけで充分だろうが! どうしてセリフで観客の心を無理やり誘導するんだ?
ガース:誘導どころか無理やり手を引っ張って、「ハイ、ここが泣くところです!」って引きずりまわしているみたいなもんです。観客に自主的に考えさせる隙をいっさい与えないんですよ。
ウェイン:最近の小説やマンガもみんな同じだけどね。「悲しい」とか書き手の感情がそのまま書いてある。それこそ夕日や風景に託して言外に語るという和歌や俳句の伝統はどこへ行っちゃったんだ?
いやほんと、『三丁目の夕日』って、こういう映画なんですよね。
最新作も、「なんだこのベタすぎる説明過剰の映画は……」という感じでしたし。
制作側が「観客の予想を裏切ってやろう」としているところが、「あまりにありきたりな裏切りかた」なんだよなあ。
もちろん、「わかってやっている」のだろうけど。
それは、「昭和感」を出すためなのか、観客のレベルに合わせているのか……
最近のヒット映画が「テレビドラマの延長ばかり」になるのは「映画であらためて世界設定を理解しなければならないような作品よりも、テレビでおなじみの設定から入れる映画のほうがラクでいいから」なのかな、とも思うんですよ。
こうしていろいろ考えてみると、「映画が人に求めるもの」というのは、「映画館に行く、あるいはDVDを借りるということができるくらいのマメさ」「2時間黙って座っていられる忍耐力」と、「巻き戻せないなかで、話の概略をつかみ、追いかけていく瞬発力と理解力」「どんな話だったかを観終えてまとめ、他人に説明する力」なわけです。
最近は「こちらの心を無理やり誘導するような内容に、うまく乗っていけるような適応力(あるいは受け流す力)」
それに、映画って、ある程度数を観ていないと、なんとなく語りにくいじゃないですか。
そういう「語れるようになるまで、基礎体力をつける努力」も必要です。
いまから30年くらい前の「映画とテレビが娯楽の王様だった時代」に比べると、いまは選択肢があまりに多すぎるのです。
そんななかで、「映画をちゃんと2時間観ることができる」という人は、たしかに、いろんなミッションに適応できそうな気がします。
まあでも、「映画を2時間観ることができるくらいの力」って、「最低限」みたいなもので、社会では体育会系の「人脈と理不尽に耐える力」には全くかなわないんですけどね。
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