ハリウッド映画が危機に瀕している。
配信プラットフォームの普及、新型コロナウイルスの余波、北米文化の世界的な影響力の低下などが重なって、製作本数も観客動員数も減少が止まらない。
メジャースタジオは、人気シリーズ作品への依存度をますます高めていて、オリジナル脚本や監督主導の作品は足場を失いつつある。
ハリウッド映画は、このまま歴史的役割を終えることになるのか?
ポップカルチャーの最前線を追い続けている著者が、2020年代に入ってから公開された16本の作品を通して、今、映画界で何が起こっているかを詳らかにしていく。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、「ステイホーム」の流れが加速しました。
アメリカよりも普及が遅れていた日本の映像配信サービスも「なるべく外出を控える」なかで大きく利用者数が増え、スマートフォンなどの携帯型デバイスで観る人も多くなりました。
そんななかでも『鬼滅の刃』の映画は大ヒットを記録しましたし、『シン・エヴァンゲリオン』や『呪術廻戦』『SLAM DUNK』など、日本初のアニメ映画は、むしろ勢いを増しているように感じます。
その一方で、新型コロナ以降のハリウッド映画は、たしかに少し元気がないというか、記憶に残る作品が少ないというか。
Netflixなどの配信サービスが好条件で俳優やスタッフを集めているし、新型コロナウイルスで映画の製作コストも増しているので、しばらくは仕方ないのかなあ、とも思っていたのです。
しかし、新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いた(あるいは、それを許容するという社会的コンセンサスができた)2022年になっても、劇場公開されるハリウッド映画の作品数がそれ以前の水準に戻ることはなかった。そして、それは2023年以降も変わらないことが見込まれている。
具体的に数字を挙げていこう。サム・ライミ版の『スパイダーマン』1作目、スター・ウォーズのプリクエル3部作の2作目『スター・ウォーズ/クローンの攻撃』、ハリー・ポッター・シリーズの2作目『ハリー・ポッターと秘密の場所』などが大ヒットを記録した2002年、ハリウッドのメジャースタジオは約140本の新作を劇場公開し、映画界全体では北米だけで約15億7500人の年間観客動員数を記録した。一方、2022年に劇場公開されたメジャースタジオ作品は73本、北米の年間観客動員は約8億1200人だった。つまり、この20年で公開本数も観客動員もほぼ半減しているわけだ。ちなみに2023年に劇場公開されえるメジャースタジオ作品は2022年とほぼ同じ77本となることが見込まれている。
さらに深刻なのは、その中身だ。140本から七十数本へと製作本数が半減することで、真っ先に削減されるのは、シリーズものではない作品、監督の作家性の強い作品、オリジナル脚本の作品といった興収の予測が立ちにくい作品だ。また、これまで若手監督の登竜門となってきた比較的製作予算の低いホラーやコメディなどのジャンルムービーの製作本数も、メジャースタジオ作品は近年減少傾向にある。
それでも、配信サービスがお金を出して作品をつくっているのだから、それはそれで良いのでは、と思っていたのですが、著者によると、配信作品は劇場公開作品に比べると、賞レースなどに絡まない作品は一部の「面白い作品を能動的に探す」視聴者以外には届かず、配信プラットフォームが映画会社から独占配信権を買い取った作品は、配信後はどんなに観られてもクリエイターや役者に利益が分配されることはないそうです。
契約は、個々の監督や俳優によって違いがあるかもしれません。しかしながら、劇場公開された作品が公開中に配信されたことで収入が減ったと提訴した俳優もいましたし、配信サービスは全ての関係者の「受け皿」にはなっていないようです。
近年大ヒットしたハリウッド映画も『トップガン・マーヴェリック』や『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』など、「続編」がほとんどなのです。
本書では「#MeTooとキャンセルカルチャーの余波」「スーパーヒーロー映画がもたらした荒廃」「『最後の映画』を撮る監督たち」「映画の向こう側へ」という4つのテーマから、それぞれ4本の重要作品、もしくは象徴的な作品を取り上げて、その作品の内側と外側を検証しながら映画が置かれている現在地を明らかにしていく。
著者は、それぞれの映画を作品として語りつつ、その作品に表れている「いまのハリウッド映画の衰退と限界」の全体像を示しているのです。
『カモン カモン』という作品の紹介の冒頭には、こんな言葉が紹介されています。
「この時代に、自分のようなストレートの裕福な白人の中年男性が主人公の映画を撮っても、誰からも相手にされないからね」
『20センチュリー・ウーマン』(2016年)が日本公開されるタイミングに自分がおこなったインタビューで、マイク・ミルズはそう語った。制作時期としてはちょうどブラック・ライブズ・マターのムーブメントが最初のピークを迎えていた頃で、#MeTooムーブメントが巻き起こる直前、「トキシック・マスキュリニティ」という言葉が映画関連の文脈の中で盛んに語られるようになる数年前のことだったが、ミルズは時代の大きな変化を敏感に、そして正確に感じ取っていた。日本人のジャーナリストが相手ということでガードが緩んでいたのかもしれないが、ため息混じりで発せられたそのミもフタもない実感のこもった言葉の重みを、今も忘れることができない。
白人俳優ばかりがアカデミー賞の俳優賞にノミネートされたことが批判されたこともありました。
そういうハリウッドの長年の差別の蓄積への反動もあって、スーパーヒーロー映画の主役やドラマのヒロインには、さまざまな人種・出自の俳優たちが起用されるようになったのです。
それは「政治的に正しい」なのかもしれないけれど、そうなると、白人の側は「自分たちのほうが排除されるようになってきた」と感じてもいるのです。
バランスをとるというのは、本当に難しい。
ラジオでフリーランスのジャーナリストをしている『カモン カモン』(2021年)の主人公ジョニーは、40代の白人男性。本作で描かれた甥との共同生活には、ミルズが子育てをしてきた過程で体験したことが随所に反映されているという。つまり、5年前に「ストレートの裕福な白人の中年男性が主人公の映画を撮っても、誰からも相手にされない」と語っていたミルズは、本作で初めて「ストレートの白人中年男性」を作品の中心に据えたわけだ。
一周回って、いまや「ストレートの白人男性が主人公の映画」のほうが、インパクトがある時代なのです。
アメリカの社会全体としては、まだまだ白人・男性のほうが受けている恩恵は大きいのかもしれませんが、「自分たちはどんどん見放されてきている」という負の感情、閉塞感は、データや理性で解消するのが難しい。
アメリカはまだ人口が増加しつづけている国なのですが、ヒスパニック系の割合が増え、白人の割合を越えることが確実視されています。
以前、アメリカの学会に行ったときに、ある有名な大学を見学させてもらいました。
そこでスタッフとして外来を担当している医師は、人種や性別が公平になるように、人数が割り当てられているという話を聞いて驚きました。
そうなると、より実力がある人が、「白人、あるいは男性だから」ということで、外されることになるのではないか。それは「より良い医療を提供する」という目的に合っているのか?
そもそも、それが「公正」で「平等」なのか?
もっとも、医者の臨床の「実力」なんてはっきり数値化できるようなものではないし、そういう仕組みにしないと「富裕層・名門校出身の白人ばかりになってしまう」のかもしれません。
「平等」にも「機会平等」と「結果平等」があって、この二つは、同じ「平等」であっても、両立するのは難しい。
歴史的な差別の負債を清算する、といっても、「俺がやった差別じゃないのに、なんで今、俺がその責任を取らされるんだ……」と言いたくなるのもわかります。
ただ、今の時代は「ポリティカル・コレクトネス」に従わないものは強く非難されるし、商業的な成功をおさめることもできないのも事実です。
この本のなかでは、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)以降の、スーパーヒーロー映画の低調についても書かれています。
僕も、『エンドゲーム』のあまりにも綺麗な「大団円」には満足したのですが、「こんなにうまく締めたのに、続きが必要だろうか?」とも思ったのです。
その後のマーベル・スタジオ作品は『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』が大ヒットし、「メタバース」をテーマにした作品が多くつくられています。
僕は『ノー・ウェイ・ホーム』は大好きなのですが、それは「メタバースだったから」というより、「これまで、作品のデキや興行収入などで比較され、それぞれ作品に対して複雑な感情を抱いていたであろう3人のスパイダーマン俳優たちが、仲良く同じスクリーンに登場してみせてくれたことの祝祭感」が理由だったのです。ああ、こうしてみんな集まれてよかったね、と他人の同窓会を覗いているような。
「メタバース」設定のヒーロー映画をみるたびに、「それならもう、あらゆる時代にターミネーター送り込めばどこかで成功するだろ……」と思った『ターミネーター3』の記憶がよみがえってきます。あれも『2』でやめておけばよかったのに……
「多様性の時代」ではあるけれど、「なんでもあり」は「何も信じられない」。僕が年を取ってしまったからかもしれませんが。
「何もかもが変わってしまった」(マーベルのスーパーヒーロー映画の)フェーズ4の最後の劇場公開作品となった『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』の北米を除いた世界興収は、4年前の『ブラックパンサー』(2018年)の62%という結果に。続いてフェーズ5の幕開けとなった『アントマン&ワプス:クアントマニア』の北米を除いた世界興収は、5年前の『アントマン&ワプス』(2018年)の64%という結果に。いずれも中国での公開が再開されてからの数字だ。
最近は配信サービスでも関連作品が多く製作されており、「もうお腹いっぱい」という感じでもあるんですよね。
関連作品を観ていれば、より細かいところも楽しめるのかもしれないけれど、よっぽど好きじゃないと、配信作品まで追いかけるのは時間がかかりすぎます。
内容的にも、「以前の作品の焼き直しかメタバース+ポリコレ重視映画」になってきているし。
スピルバーグやジョージ・ルーカス、日本でいえば宮崎駿さんといった有名監督は、年齢的に、もう、そんなに多くの作品はつくれない。
とはいえ、無名の監督の作品や社会派ドラマでは観客を呼べないので、若手が経験を積む機会を得るのも難しい。
Netflixやディズニープラスのような配信サービスの成長も、すでに鈍化してきています。
コンテンツが増えても、人間の可処分時間には限界がありますし。
「はじめに」でも述べたように、ハリウッドのメジャースタジオ作品の製作本数は不可逆的に減少し続けているが、それを補って余りありすぎるほど膨大な数の映画やテレビシリーズが、ストリーミングサービスの各プラットフォームで配信されるようになった。観客/視聴者はストリーミングサービスで常に新作を「消化」することに追われていて、映画館でかかる新作の本数が減っていることに気づいていないか、気づいていたとしてもほとんど気にも留めていないかのようだ。一方で、特定の作品のリバイバル上映や特定の映画作家の特集上映のニーズが近年高まっている現象は、頻繁に映画館に足を運ぶ映画ファンの多くが、「新作を追う」ことよりも、過去に観た名作をもう一度スクリーンで観ることや、これまで見逃してきた旧作とスクリーンで初めて出会うことの方が、豊かで充実した映画体験への近道であることに気づき始めたことを示している。これは、自分のようなジャーナリストも含む、新作映画に仕事として携わっている多くの映画関係者にとっては「不都合な真実」だ。長篇の商業映画がコンスタントに製作されるようになってから数えても100年以上。人間が一生の間に観ることができる映画の本数の上限をふまえても、過去の優れた作品だけでとっくに飽和状態となっている。
それでも、「面白い新作映画を観たい!」という人は大勢いるし、「映画という表現に挑戦したいクリエイター」もまだまだたくさんいると思うのです。
ハリウッド以外の場所からも、新しい映画が生まれてくるはず。
とはいえ、映画をつくる人も観る人も語る人も、ずっと固定化されてしまっていて、世代交代が進んでいないことを、この本を読んで思い知らされた気がします。
映像をつくってみんなに伝えたい人なら、いまは映画監督になるより、YouTuberになるほうが「現実的」だろうし。