最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』 から 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 まで
- 作者: 町山智浩
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2016/10/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)
- 作者: 町山智浩
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2016/12/22
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内容(「BOOK」データベースより)
ハリウッドが封印しつづけた米国の恥部とは?映画史上最高の傑作がKKKを蘇らせた?ディズニーが東京大空襲をけしかけた?トランプは60年前に映画で予言されていた?暴走するアメリカ民主主義―その謎を解く鍵はすべてはハリウッド映画の中にあった!映画評論家町山智浩のライフワーク、ついに結実!
町山智浩さんによる「日本人が知らなかった、アメリカ映画の真実」の数々。
「名画」として知られる作品にも、現在の「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」の観点からみたら大きな問題点があったり、いわゆる「トンデモ映画」だったり、(悪い意味で)社会に影響を与えたり、というものが少なからずあるのです。
この本のサブタイトルは「『國民の創生』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで」なのですが、この『國民の創生』という映画が「問題児」なんですよね。
『國民の創生』は、世界映画史上最大の難物だ。
現在、世界で観られている娯楽映画の基本的技術、文体、興行形態はD・W・グリフィスが『國民の創生』で、まさに「創生」した。それ以前の映画は、「貧乏人向けの見世物」と蔑まれていたが、『國民の創生』で初めて、文学や絵画や演劇と並ぶ芸術形態として認識された。「技術的には」間違いなく偉大な傑作である。
しかし、その内容は、歴史に対する意図的な歪曲、捏造、欺瞞、虚偽、そして悪辣な人種差別に満ちている、『國民の創生』は、その歪められた歴史観を世界に広めてしまっただけでなく、実際に暴力犯罪を煽動することにもなった。レニ・リーフェンシュタールがナチス党大会を記録した『意志の勝利』(1935年)、ウォルト・ディズニーが戦略爆撃をプロパガンダした『空軍力による勝利』(1943、本書第3章)と並んで、優れた芸術によって社会に実害を及ぼした映画のひとつでもある。
また、グリフィスという映画作家は、『國民の創生』以外の映画では、少数者への共感、白人の傲慢さ、人種差別の悲劇を描いてきただけに、グリフィスの最大のヒット作である『國民の創生』は、彼の信奉者にとっても、扱いに困った作品なのだ。
しかし、アメリカの映画と歴史と社会と人種を論じるには、この映画はどうしても避けて通れない。
『國民の創生』は、1915年、第一次世界大戦中に公開されています。
南北戦争から約半世紀経っていますが、アメリカのなかでは、奴隷は解放されたものの、人種差別意識はくすぶりつづけていたのです。
この『國民の創生』の困ったところは、内容は町山さんが仰るところの「歴史に対する意図的な歪曲、捏造、欺瞞、虚偽、そして悪辣な人種差別に満ちている」のですが(もう、酷さのロイヤル・ストレート・フラッシュって感じですね)、映像表現としては、南北戦争シーンの大スペクタクルや資料に忠実なリンカーン暗殺の場面、斬新なカットバックなど、革命的なものであり、当時の娯楽映画を一挙に進化させたともいえるべきものだった、ということなんですよね。
それだけに、当時の観客にも大ウケで、大ヒットしたのです。
だからこそ、社会に与えた影響も大きくなってしまいました。
1915年、『國民の創生』が公開され、国民的に大ヒットすると、消滅していたはずKKK(クー・クラックス・クラン:白人至上主義の秘密結社)が、まずジョージア州アトランタで復活した。それを追って、南部だけでなく北部も含めた全米各地でKKKが次々の旗揚げされた。その数は20年頃には600万人に達した。映画というメディアに寄るプロパガンダの結果だ。
新生KKKは秘密結社ではなく、堂々と昼間から行進し、新聞や雑誌などのメディアで公に発言し、民主党、共和党に続く第三勢力として、政治家を推薦し、投票を動かす力になった。『國民の創生』がKKKを「正義のレジスタンス」として描かなかったら、これほどの人気になっただろうか?」
第二次KKKブームが十年後に突然崩壊した。25年、インディアナ州KKKのリーダーが白人女性を拉致してレイプし、連れ回された被害者が隙を見てマーキュロクロム液(水銀含有の殺菌剤)を飲み干して自殺する事件が起こったからだ。それから五年間でKKKの会員数は60万人から3万人まで激減したが、南部では秘密結社となって続いた。
こういう結果を生んでしまうと、「悪質なプロパガンダ映画」だとしか言いようがなくなってしまいますよね。
この映画をつくったグリフィスさんは、素晴らしい技術で「娯楽映画」をつくったはずなのに。
ちなみに、グリフィスさんは、「この作品がそんな影響をもたらす」とはまったく考えておらず、打ちのめされてしまったのだとか。
「ザ・ニューヨーカー」誌の批評家リチャード・ブロディは「『國民の創生』の最悪な点は、これが映画として最高であることだ」と書いている。
優れた表現だからこそ、「何が描かれているか」が問題になってしまったのです。
ただ、これが「人々の潜在的な差別意識に訴えるような内容」だったからこそ、大ヒットした、という可能性もあります。
また『摩天楼』(1949年)の項では、この映画の原作者アイン・ランドという作家のことが紹介されているのです。
1957年、アイン・ランドは『水源』とほとんど同じテーマで、邦訳が二段組み1200ページを超える大作『肩をすくめるアトラス』を発表する。
舞台は、社会正義的な福祉国家になった未来のアメリカ、「反競争法」なる法律で、市場経済が自由に行なわれなくなっている。公共の福祉に反する財産の独占は禁止され、雇用者は自由に労働者を解雇できない。経済的な発展は停滞している。
主人公のジョン・ゴールドは、この平等社会でやる気を失くした知的エリートたちをコロラドの山中に集め、テレビをハイジャックして、知的エリートたちのストライキを宣言する。ここから邦訳で65ページも演説が続くが、内容は『水源』とだいたい同じ。
——我々、知的エリートは諸君らに奉仕するのをもうやめる。我々、優れた者たちの恩恵を受けて暮らす「寄生虫」どもは生存競争という自然の法則に反している。世間の道徳は、他人のために自分を犠牲にすることを善としているが、それは怠惰な「たかり屋」たちが知的強者を搾取し利用するために作ったカルトである。本当の道徳、本当の善とは、自分の幸福を追求すること、すなわち「利己主義」である。だから、自尊心のある者は、この社会に協力することをやめて、我々の必要さを奴らに思い知らせるのだ——(町山さんの抄訳)
ジョン・ゴールドの演説は『公共の福祉』の全否定だ。しかし、この本がアメリカで聖書に次ぐロングセラーになっているという事実は重要だ。先進国で唯一公的医療保険制度がないアメリカで、オバマが国民皆医療保険制度を実現しようとしたとき、ティー・・パーティという保守系運動が起こって、「貧乏人の保険料をどうして金持ちが負担しなければならないんだ」と反対したが、彼らの心にはジョン・ゴールドがいる。
途中まで、「なんだか『と学会』で紹介される自費出版本みたいな内容だな」と思いながら読んでいたのですが、こんな狂った選民思想本が「聖書に次ぐロングセラー」になっているのか、アメリカって……
自分たちが、「知的エリート側」にいると考えている人が、こんなに多いなんて。
ちなみにこの『肩をすくめるアトラス』は2011年に映画化されたそうですが、日本では未公開です。まあ、そりゃそうか、と。
『フォレスト・ガンプ』は僕にとっても思い出がある映画なのですが、この映画のなかの「ある人々」の描写について、こんなふうに書かれています。
ガンプとジェニーについてゼメキスはこうも言っている。「ふたりは、当時、ふたつに引き裂かれたアメリカも象徴している。ベトナム戦争に参加した人々と、反対した人々だ」
貧しく、大学に行けなかった若者たちは政府に言われるまま徴兵され、ガンプもヴェトナムの戦場に行った。その一方、ジェニーのように、大学に行けた若者たちは反戦運動に参加した。
ヴェトナム戦争は、アメリカ政府のデッチ上げによって始まり、6万人近いアメリカ兵と200万人近いヴェトナム人の命を犠牲にした挙句、アメリカの敗北に終わった。戦争を始めた国防長官だったロバート・マクナマラ自身も後に認めたように、まったく無益で間違った戦争だった。
だが、当時、一般の大人たちは皆、反戦運動に参加した若者たちを「アカ」「売国奴」「与太者」と考えた。『フォレスト・ガンプ』も反戦運動をまったくそのように扱っている。
ヴェトナム戦争から帰還したガンプは首都ワシントンで、偶然、反戦集会に引っ張り出され、ヒッピーになったジェニーと再会する。ジェニーはUCLAの反戦学生委員会のリーダーと同棲している。この委員長は平和を訴えながらジェニーに暴力をふるう。たしかに女性を殴る反戦運動家もいたには違いない。でも、どんな運動家でもそうだが、殴らない男のほうが多いだろう。それをわざわざ暴力男として描写するのは、観客に反戦運動家を憎ませようとする意図以外に考えられない。
反戦集会のシーンには反戦運動のリーダーだったアビー・ホフマンも登場するが、汚い言葉を連発する下劣な男として描かれる。また、この集会でガンプはスピーチするが、マイクの電源が入っていなくて聴こえない。シナリオではこう言っている。「ヴェトナムに行った人には、両脚を失くした人もいます。故郷に帰れなかった人もいます。悲しいことです。僕に言えるのはそれだけです」
このセリフをカットすることで、『フォレスト・ガンプ』の反戦側には良い人間がひとりもいなくなってしまう。
そうか、ちゃんと分析してみると、そういう「制作側の偏見」みたいなものが、反映されている、ということなんですね。
僕は何度かこの映画を観ているのですが、正直、そんなことを考えたことはありませんでした。
でも、そんなふうに「無意識のうちに、反戦運動家たちへのネガティブなイメージを植えつけられてしまう」というのは、あからさまなプロパガンダ映画よりも怖いような気もします。
『フォレスト・ガンプ』全体としては、けっして「好戦的な映画」ではないと思うのだけれど。
こんなふうに「アメリカ映画を深く観るための知識」が詰まっていますし、映画に興味がなくても、ひとつのアメリカ史として面白く読める本だと思いますよ。