Kindle版もあります。
2023年ミステリーランキング3冠達成!
(「このミステリーがすごい!」第1位、「ミステリが読みたい!」第1位、「週刊文春ミステリーベスト10」第1位)余計なことは喋らない。上司から疎まれる。部下にもよい上司とは思われていない。しかし、捜査能力は卓越している。葛警部だけに見えている世界がある。
群馬県警を舞台にした新たなミステリーシリーズ始動。群馬県警利根警察署に入った遭難の一報。現場となったスキー場に捜査員が赴くと、そこには頸動脈を刺され失血死した男性の遺体があった。犯人は一緒に遭難していた男とほぼ特定できるが、凶器が見つからない。その場所は崖の下で、しかも二人の周りの雪は踏み荒らされておらず、凶器を処分することは不可能だった。犯人は何を使って〝刺殺〟したのか?(「崖の下」)
米澤穂信さん初の警察小説。
僕は『このミステリーがすごい!』経由で『春期限定いちごタルト事件』を読み、『古典部シリーズ』で「人が死なないミステリ」を書く異端(であり新しい)ミステリ作家として、米澤穂信さんの作品を読んできました。
『インシテミル』などの、海外ミステリへの愛情が詰まった作品も好きだし、ミステリというか、楽しく読めて、複雑な後味を残す『さよなら妖精』や、直木賞候補にもなった『満願』、そして、直木賞を受賞した『黒牢城』と、書店で米澤作品の新作を見かけるたびに手にしてきたのです。
『黒牢城』を読んでいたおかげで、北野武監督の『首』を観たとき、荒木村重という人物のそれまでの既歴が予備知識として頭に入っているのを実感しました。
米澤さんは、インターネット時代のミステリ作家の白眉だと思いますし、ミステリ関係の賞を獲り、鳴り物入りでデビューした新しいミステリ作家たちの多くが、いつの間にか名前も作品も聞かなくなってしまったことを考えると、活躍の長さも驚異的ではあります。
個人的には、『古典部シリーズ』を完結させてほしいな、という思いと、でもあの話、二人が大人になったら、一緒にいられるとは思えないよな、という観賞が入り乱れてしまうのです。
米澤さんの人気シリーズ作品は数多くあるけれど、なかなか「完結」に至らず、「人気王」などと呼ばれていた田中芳樹先生と同じような道を辿っているのではないかという気もしてきますし、もしかしたら、米澤先生も、その「瞬間」を描くことにとどめておいたほうが、自身も読者も幸せだと考えておられるのではないか、と。
ミステリの連作は、一作ずつ完結はしているわけですし、ストーリー漫画のように「未完」という扱いにはならないはず。
エルキュール・ポアロに『カーテン』があることが、読者を幸福にしているのかどうか?
存在しないほうが、ずっとポアロは生き続けられたのではないか?
とはいえ、あれは異質で問題作ではあるけれど、間違いなく「記憶には残る作品(面白いかどうかはさておき)ではあるのですが。
さて、前置きばかり長くなってしまいましたが、この『可燃物』米澤さんと警察小説というのは、何となく噛み合わないような気がして、これまで読まずにいたのですが、年末のミステリ関係の各賞で軒並み高評価で、慌てて読んでみました。
うん、面白い。群馬県警の捜査第一課長・葛警部(とにかく捜査上やるべきことを隙間なく埋めていくような、そんな人物)が探偵役として、警察という組織がどのように捜査を行なっていくのか?経験や勘に頼るだけではなく、客観的な証拠を積み上げて犯罪と犯人を立証していくのかが描かれています。
警察といえば、ニュースでは不祥事がとりあげられることが多いし、道を歩いていて警察官やパトカーを見かけるだけで、悪いことをしているわけではない(はずでも)緊張してしまうのです。
しかし、事件を解決するために、彼らはさまざまな角度から物事を検証し、チラシ一枚の出所を探り、あまり事件とは関係がなさそうな目撃者の証言を慎重に裏取りしていきます。
おそらく、この『可燃物』で書かれているようなことは、極端な例、あるいは創造されたものであり、シンプルに最も疑わしい犯人がやっぱりそうだった、みたいな事件が多いとは思うのです。
でも、現代の警察という組織は、そういう「見込み捜査」に陥りにくいようにもなっている。むしろ、事件を外からみている一般市民のほうが、ネットで「犯人(らしき人)叩き」に夢中になっている。
警察のスタッフは、この作品のなかでは、あくまでも、葛警部の駒として忠実に動いており、そこには組織内の人事の軋轢や人間関係のもつれなどは深くは描かれていない。5つの物語の意外な展開は、よくできた詰将棋をみているようで、読み終えて「なるほどなあ」と感心するばかりです。
その一方で、その「事件」が起こる前の「お膳立て」みたいなものが、あまりにも上手くできすぎているのではないか、とも感じました。
もちろん、世の中には「そういうこと」ってあるし、それこそ、あの『本能寺の変』も、信長がわずかの手勢で本能寺に宿泊し、京都でまとまった兵力を動かせるのが明智光秀しかいなかった、という「お膳立て」があったわけです。信長の京都逗留中の危険性については、それまで何度も指摘されていたらしく、当の光秀も、それを懸念し、信長に進言していたそうです。
人は、後から、あるいは外からみると「なんでそんなことを?」ということを、「いままでだいじょうぶだったから」と、続けてしまう。
それぞれの事件が、解決に向けて「うまくいきすぎていること」に引っかかりを感じてしまうのが、葛警部なのです。
「うまくいかないこと」に悩むのは当たり前なのだけれど、「うまくいきすぎていること」に一時停止して考え直してみるのは、本当に難しい。
でも、実際に起こる「事件」としては、「そのために、犯人や目撃者はこんなことまでするかなあ」と「推理パズルを成立させるために、登場人物が都合よく配置され、動かされている感じ」もあって、そこを「ノンフィクションじゃないんだし、ミステリとして、パズルとしてよくできているんだから、それでいいじゃないか」と割り切れるかどうか。
エラリー・クイーンとかアガサ・クリスティのような、あるいは古典部の日常の謎であれば、そんなに気にならないのに、「警察小説」だと、組織のあり方や捜査方法がリアルなだけに、かえってその印象が僕には強かった。
ふだん捜査に際して、葛は動機を重視しない。動機とは、ひっくるめて言ってしまえば「欲望」に尽きる。ふつう人間の欲望はありきたりで、そのほとんどが金銭欲と性欲と憂さ晴らしに集約される。だが、その三つでは説明のつかない欲望というのも確かに存在していて、それらは人智を尽くしても予測することができない。予測できないものを頼りに操作をすれば迷路に迷い込む。だから葛はふだん、動機を重んじない。
なんでそんなことをするのか?とか、「犯罪者は反省させ、罪を償わせるべき」「反省もしていないのに死刑にするのはよくない」とか。
他人の心のうちなんてわからない、いや、自分の内心でさえ確信は持てないくらいなのだから、「動機」というのは、確かに曖昧なものだし、他者の「動機に納得できない」ほうが当たり前のことなのかもしれませんね。
面白いし、よくできたミステリだと思うのだけれど、米澤穂信さんの作品ばかりがここまでミステリの年間ベストで強い状況が続いていると、もっと新しい人が出てきてくれないかなあ、とも思ってしまいます。
「新しい人」は、ミステリじゃなくて「なろう小説」ばかり書いているのかもしれませんが(そして、その「なろう小説」も、どんどんニッチな方向にしか進めなくなっている……)