Kindle版もあります。
インドに根付く社会的な身分制=カースト。数千年の歴史のなかで形成され、結婚・食事・職業など生まれから規制し、今なお影響を与え続ける。カースト問題には、「不浄」とされ蔑視が続く最底辺の不可触民=ダリトへの差別がある。政府は2億人に及ぶダリトを支援する施策を打つが、その慣習は消えず、移民した世界各国でも問題化している。本書はインドに重くのしかかるカーストについて、歴史から現状まで、具体的な事例を通し描く。
14億以上の人口を有し、「世界最大の民主主義国」と言われることもあるインド。アメリカと中国の派遣争いが続くなかで、今後の経済成長も予測されており、世界から注目されている国でもあります。
僕はインドを訪れたことはないのですが、イメージとしては、タージ・マハルとガンジス川、カレー、そして旅行者からぼったくる(法外な料金を請求する)というようなイメージを持っていました。日本人にとっては、対立する国ではないけれど、特別親しいとか、よく知っている、という国でもない。日本とは異質の文化を持ち、違う時間が流れている悠久の大国、そんな感じでしょうか。最近は投資など経済関連の話題でも、インドの話はよく耳にします。
人口は中国と同じくらいなのですが、ひとりっ子政策で一気に高齢化が進んでいく中国に比べて、若者が人口に占める割合が高いことも強みとされているのです。
インドは、ヒンドゥー教徒が多く、カースト制度の影響が色濃く残っている国です。
僕は高校時代は世界史選択だったので、「ああ、カースト制って、あのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの4つの階級(+不可触民)のことか」と思ったのですが、最新の研究者である著者は、この新書の冒頭で、インドのカーストについて、このように説明しています。
カースト制とは、各カーストの分業によって保たれる相互依存関係と、ヒンドゥー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度である。
そこには「ジャーティ」(生まれの意)と「ヴァルナ」(色の意)という概念が含まれる。両者が、経(たて)糸と緯(よこ)糸のように組み合わさっているのがカースト全体のイメージだ。
ジャーティとは、分業体制に基づいた相互依存的な人間関係である。貨幣制度がなかった昔、インドでは壺を作る集団が、換わりに米をもらうなど自給自足的な社会だった。職業を代々世襲し、結婚関係は親が取り決めるなど閉鎖的な各集団のあいだで、生産物やサービスのやり取りが行われていた。
ヴァルナとは、バラモン(祭官階層)、クシャトリア(王侯・武人階層)、ヴァイシャ(平民階層)、シュードラ(上位三ヴァルナに奉仕する隷属民階層)の四種姓から成り、バラモンが一番上に位置する序列の枠組みである。日本では歴史教科書に記され、一般に理解されるカースト制はこれだろう。
ヴァルナは、紀元前1500年から紀元前1200年にかけてインド亜大陸に攻め入ったアーリヤ人が、自分たちよりも肌の色の黒い先住民と自集団を区別するために用いた言葉とも言われる。ただし、そもそもヴァルナは、古代インドのサンスクリット古典籍に記された社会階層概念であり、実体的なものではなかった。
紀元後数世紀には、シュードラの下にさらに「不可触民」というカテゴリーが付け加えられる。
今日の私たちは思い描くカーストは、ジャーティとヴァルナが長い歴史のなかで絡み合ってできあがったものだ。同様に不可触民も歴史のなかで位置づけられていった。
なお、不可触民の現地語は主にヒンディー語で「アチュート」、英語で「untouchable」「outcaste」南インドのタミル地方で「パライア」である。現在では差別語として忌避されており、本書では彼らが積極的に用いる「ダリト」(ヒンディー語で「抑圧された者」の意味)を基本的に使う。また、インドでは、行政用語として「指定カースト(Scheduled Caste, SCs)が用いられている。
ダリトの人口はおよそ2億138万人、インド全人口の16.6%を占める(2011年国勢調査)。日本の人口を上回る規模である。さらに言えば、インド人の80%以上を占めるヒンドゥー教徒(9億6626万人)以外の宗教コミュニティ、たとえばイスラーム教徒(1億7225万人)やキリスト教徒(2782万人)のなかにも、実はカースト的慣習がある。したがって、ヒンドゥー教という宗教だけでカーストの存在を説明することはできない。
現在のインド憲法では、「カーストの存在そのものではなく、カーストによる差別を禁止している」ということです。
あまりに長い間、インド社会に根付いているカーストそのものを「無かったこと」にはできない、また、差別意識というのは、そう簡単には消えない、ということが、著者自身が現地で、実際に出会った人たちの事例によって紹介されています。
僕がこれまで「知っている」と思い込んでいた「カースト」は、「ヴァルナ」だけなのですが、この本を読むと、「ジャーティ」の影響がかなり大きいことがわかります。
ジャーティは、職業の世襲、複数の内婚集団、共通の慣習、一定の地域社会を基盤とした集団である。どのジャーティに帰属するのかは出生によって決まり、個人が自由に変更することはできない。子どもは親と同じジャーティに属する。
ジャーティには食事の規制もある。たとえばヴェジタリアン(菜食主義)ノンヴェジタリアン(非菜食主義)か。自分より低いジャーティと一緒に食事(共食)をしない。水や食べ物を受け取らないなどの規制がある。こうしたことによって他集団と自らを区別し、各集団間に身分上の序列関係を認めている。
このようなジャーティの存在が歴史資料によって確かめられるのは10世紀頃からだ。
現在、2020年代では、必ずしも親と同じ職業に就かなければならない、というわけではありませんし、高い教育を受けてIT産業などの新しくできた仕事に従事する人も少なからずいるのです。
そして、同じ「ダリト」のジャーティのなかでも、著者が研究対象とした「清掃カースト」のように、屎尿や下水などの危険な清掃業務を十分な装備もなしに代々行っている集団もあれば、比較的早い時期から教育に力を入れ、伝統的な仕事に就く若者の割合が少なくなっている集団もあります。
同じ「ダリト」も一枚岩ではなく、政府の優遇政策を推進・利用していこう、という人たちもいれば、政府の「恩恵」に頼るのではなく、積極的に外にアピールして、自助努力で状況を改善していくべきだ、と考えている人たちもいるのです。
政府は「公務員の採用や、高等教育機関の受験において、ダリト優遇枠を設けている」のですが、ダリトのジャーティ間でも格差があり、うまくその優遇政策を利用して富裕層、高等教育を受けた層を増やしているジャーティもあれば、その恩恵を受けられていないジャーティもあります。
親と同じ職業に就くのは嫌だ、というのは、とりあえず職業選択の自由に慣れてきている日本人だからこそ、という面もあり、苦しい生活を強いられている下層カーストの人々にとっては、それが危険で非衛生的なものであっても、とりあえず親の仕事を引き継げて、政府の優遇政策で「公務員」に採用されやすい、というのは「生きていくためには、悪いことばかりではない」とも考えられているのです。
差別はされたくないけれど、生活を豊かにしていくためにはお金と教育が必要で、そのためには、成績が合格ラインより低くても大学に合格できる「優遇枠」を利用したい。その一方で、自分の出身階層を知られたくない、あるいは「下駄を履かせてもらって合格したと思われたくない」ということで、一般枠で受験する人もいるそうです。
「システムによって、差別をなくそうとする」場合、これまでのハンディキャップを埋め合わせるように「優遇」することの是非は、インドのカースト以前に、アメリカでの人種差別解消の動きのなかでも議論されてきました。
「優遇枠」とか「お金による援助」というのは、「逆差別」ではないのか、と考える人たちもいるのです。
僕も、同じ試験を受けていて、自分のほうが成績が良かったのに不合格で、「優遇枠」で合格する人がいたら、「それは不平等ではないのか」と言いたくなる気がします。
著者は、「現在のインド社会におけるカースト意識のありようを的確に表現した文章」を紹介しています。ヒンディー語作家のアジャイ・ナワーリヤーさん(1972〜)が新聞のインタビューに答えたものだそうです。
この国(インド)でカーストがどのように機能しているかについて、短いたとえ話があります。ある裕福な公務員の家でパーティが開かれていました。主催者が子羊のロースト料理を電話で注文しました。配達された肉を会場の全員が食べて、その料理を褒め称えました。その2〜3時間後、主催者に電話がかかってきました。それは、料理を配達した業者からの電話でした。業者は平謝りの後、主催者にこう言いました。
「注文にミスがありました。子羊ではなく、犬肉を配達してしまいました」。
主催者は啞然としました。子羊と思って食べた肉が実は犬の肉だったことをゲストに伝えると、ゲストたちはすぐに嘔吐しました。ゲストのなかにはすでに会場を去った人もいて、主催者は連絡しました。すると、2時間後にそのメッセージを読んだゲストも吐きました。他のゲストは2日後に肉の正体を知らされましたが、同様に吐きました。
この話は、カーストに関する問題と同じなのです。あなたにどれほど高い価値があろうと、人はあなたが不可触民カーストの出身であることを知った途端、あなたを追い出し、拒むのです。だから私たちは留保政策(カーストなどを基準にした優遇措置)が必要なのです。(The Hindu紙 2018年11月4日)
著者は、このたとえ話について、こう述べています。
ナワーリヤーのたとえ話に出てくる犬はダリトを表現している。「すぐに吐き出す」という生理的現象から、インド社会でのダリトへの強い嫌悪感がうかがえよう。教育を受けて、地位の高い職にダリトが就けたとしても、その出自が周囲に知られるや否や、これまでの敬意が一瞬で消え失せてしまう。同様のエピソードは、筆者のインタビュー調査でもたびたび聞く。あからさまな差別は少なくなってきたが、目に見えない、根強いカースト意識は、いまでもたしかに存在するのだ。
理性では差別しないようにしているはずなのに、長年、上の世代から受け継がれてきた差別意識は、そう簡単に消えるものではないのです。
アメリカの黒人差別や、日本のネット上でのアジア人差別をみても、人間は差別をやめられない生き物なのだろうか、と考えずにはいられません。
そして、その解消の方法も、「機会平等」と「結果平等」のどちらが正解なのか、答えは出ていないのです。
差別が続いてきたなかで、「本当の機会平等」なんて可能なのか?とも思いますし、結果平等だと「なぜ、今この時代に生きている我々だけが割を食わされるのだ」と感じる人も多いはず。
高校の世界史レベルの知識で「知っているつもり」だったカースト制の、そして、インドという国の現在について知ることができる本だと思います。
インドと仲良くして中国に対抗しよう、と主張する人もいるけれど、インドも「一筋縄ではいかない国」だよなあ。