琥珀色の戯言

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【読書感想】嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

嫉妬感情にまつわる物語には事欠かない。古典から現代劇まで、あるいは子どものおとぎ話から落語まで、この感情は人間のおろかさと不合理を演出し、物語に一筋縄ではいかない深みを与えることで、登場人物にとっても思わぬ方向へと彼らを誘う。それにしても、私たちはなぜこうも嫉妬に狂うのだろう。この情念は嫉妬の相手のみならず、嫉妬者自身をも破滅させるというのに――。(「プロローグ」より)政治思想の観点から考察。


僕自身、SNSをみていて、他人の幸運に対して素直に祝福できない気持ちになったり、誰かに「結婚して子どもがいるだけでも勝ち組」とか言及されて、「そんなに簡単なものじゃないんだよ……」と不機嫌になったりしています。

「そうね 世界中が 他人(ひと)事なら傷つかずに 過ごせるけど」という高校時代によく聴いていた曲の歌詞がずっと忘れられないのも、現実では、「他人事だと割り切れずに、ずっと傷ついている」からなのです。
 SNSをみていると、「見せたい人」がこんなに大勢いるのか、と圧倒されるのと同時に、我が身を振り返って、「きっとこの人たちも、SNSには投稿できない鬱屈を抱えてもいるのだろうな」と思います。

 なんで自分はこんなに嫉妬深い、みっともない人間なのか。
 半世紀も生きてきて、煩悩から逃れられない人生なのですが(若い頃は「いまに見てろよ」と反発できたのですが、年齢とともに、無力感がつのるばかりです)、この新書を読むと、さまざまな偉人や思想家が「嫉妬」という感情に振り回され、うまく付き合っていく方法がないかと試行錯誤してきたことがわかります。
 ああ、こんなに自分の「嫉妬心」を持て余しているのは、僕だけじゃなかったんだな、と、なんだか安心もしたのです。


 著者は、この新書の最初にこう述べています。

 私は、多くの自己啓発本に見られるように、本書を単に嫉妬心を戒めるといったありがちな説教にはしたくないと思っている。代わりに強調したいのは、嫉妬感情が単に個人的なものではなく、私たちの政治や社会生活と深く関わっているということだ。これは、永田町の陰謀や、権謀術数を駆使する老政治家の嫉妬のことではない。むしろ、正義や平等、さらには民主主義といった政治的な概念そのものが、嫉妬感情と深く関係している。だとすれば、嫉妬についての考察を抜きにして、政治的な概念や問題を理解することはできないのではないか。嫉妬がいかにしぶといものかを前提に、それが私たちの民主的な社会の必然的な副産物であることを示すことができればと思う。


 嫉妬論の世界では、「良性嫉妬(benign envy」と「悪性嫉妬(malicious envy)」という二つのタイプの嫉妬感情が区別されるそうです。
 前者の「良性」は、隣人への敵対感情を伴わない、優れた隣人への賞賛や憧れ(少年漫画で憧れの存在に近づけるように一生懸命努力する、という感じ)で、社会的にも許容されやすい一方で、後者は、隣人への敵意を伴い、相手の破滅を望み、嫉妬する側もその感情に苦しみ、破滅していくというものです。
 著者は、この区別には曖昧なところもあるものの、一般的には「悪性嫉妬」=「嫉妬」とみなされていることもあり、この本のなかでは、悪性嫉妬を話題の中心とする、としています。

 人は、自分より優れた、恵まれた人にばかり嫉妬するわけではないのです。
 裕福な高齢者は、ほとんど何も持っていない若者の「若さ」に嫉妬するし、自分が苦労して手に入れたものを、他人が簡単に手に入れた、というときにも嫉妬することがある。ほとんどの人間は、他人と自分を比較し、「妬む」ことをやめられない。自分は自分、他人は他人、と割り切れればいいのでしょうけど、それは、本当に難しい。著者は、プラトンからルソー、ニーチェまで、さまざまな時代の思想家、哲学者たちの「嫉妬論」を紹介しています。
 これを読んでいくと、SNSが生まれるよりもずっと前から、少なくとも、人類が「歴史」を書き残すようになってから、人々は嫉妬と無縁ではいられなかったことがわかります。

 2011年に公開されたジェシカ・ハウスナー監督『ルルドの泉で』は、奇跡をめぐる人々の微妙な心理を印象的な仕方で描いている。フランスの南西部にあるルルドの泉は、人々の難病を治癒するとして知られ、カトリック最大の巡礼地となっている。物語の主人公は多発性硬化症を患い車椅子生活を送るクリスティーヌで、彼女もまた奇跡を求める巡礼者の一人である。
 巡礼の最終日の前日にそれは突然訪れた。彼女はベッドからゆっくり起き上がり、自分の足で歩きだしたのである。奇跡を目の当たりにし、他の巡礼者らの心中は複雑である。


──神よ、どうして私ではなく彼女なのか?


 この映画を印象深いものにしているのは、物語の終盤、ダンスをするクリスティーヌが突然倒れるシーンである。人々は当惑しながらも、奇跡が一時的なものに過ぎず、彼女がまた動けなくなったものと思いささやきあう。ここに嫉妬とその裏返しであるシャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ気持ち)があるのは明らかである、人々の嫉妬感情は、巡礼地という神に近い場所であっても関係なく生じる。
 クリスティーヌに奇跡が起きたことに合理的な理由(たとえば信仰心が人一倍強いといった納得しやすい理由)はない。クリスティーヌが奇跡に与ったのは単なる偶然でしかない。奇跡に必然性がないこと、そのまったきの偶然性が、嫉妬感情をますます刺激するのだ。


 その人が不正をしたわけではなくても、自分には訪れなかった幸運を目の当たりにすると、人は「嫉妬」してしまう。
 「奇跡」は、めったに起きないから「奇跡」なわけですが、「自分以外の人に高確率で奇跡が起こる」よりも、「そういう伝承があるけれど、実際に目の前で起こることはない」ほうが、人の心は平静を保てるし、多くの人の信仰も維持されやすいのかもしれません。


 著者は、社会主義共産主義のもとで、経済的な平等が実現されれば、人はお互いに比較しなくなり、嫉妬の感情もなくなるのだろうか、という疑問に対して、「ある種の平等が達せられたシチュエーション」として、「収容所」での事例を紹介しています。

 シベリア抑留を経験した詩人の石原吉郎によれば、収容所の囚人の間では煙草や日本製の針が一種の通貨として流通していたが、それに対し密告が繰り返し起きたという。密告者のほとんどは煙草にも針にも縁のない老人か病弱者であったというが、石原はその「なんの利益にもならぬ、反射的、衝動的ともみえる」行為の動機が「嫉妬」であったと語っている。「強者の知恵が平然と弱者を生存圏外へ置き去ろうとする時、弱者にとって、強者を弱者の線にひきもどすには、さしあたり権力に頼るしかない」、石原は密告者の心性にかんしてこう言っている。そして収容所という極限状況にあって、このいっけんささいな嫉妬が致命的なのである。


(中略)


 だが、奇妙なことに、ラーゲリの囚人にとって生存条件の悪化は、他人が同じ境遇にある限りでは一種の安堵感が伴った。「おれも苦しいが、あいつだっておんなじだ」というわけだ。しかし、あるいはだからこそ囚人間の平等への希求は極限にまで高まり、煙草一本、針一本の不平等が耐えがたいものとして現れる。


 著者の専門は、現代政治理論、民主主義論だそうですが、このような「告発」は、当事者にとっては、自分が持っていないものを持っている人たちへの「嫉妬」ではなく、「正義や平等を守るため」のものとして、正当化されやすい、と指摘しています。
 自分と同じ場所にいた人だからこそ、その人だけが「上昇」していくことに耐えられない。極限状態になるほど、些細な「不平等」に耐えられなくなり、どうせなら、一緒に不幸になったほうがマシ、という心境になってしまう。

 ああ、なんてロクでもない話なんだ……でも、僕にはこの気持ち、わかりたくないけどわかります。
「嫉妬」なんて理不尽なものがなければ、もっと人々は安らかに暮らせるのに。

……僕はそう思っていたのですが、著者は、「民主主義」を標榜する社会と「嫉妬」について、こう書いています。

 すでに指摘したように、嫉妬は等しい者同士のあいだに生じるものだが、同時にそこには最小限の違いが求められることに注意しよう。つまり、嫉妬は平等と差異の絶妙なバランスのうえに成立する感情なのである。そしてほかならぬ平等と差異こそ、私たちの民主主義に不可欠な構成要素であるとすれば、嫉妬が民主的な社会において不可避であることが理解できる。
 ひっくり返して言えば、嫉妬のない社会とは、人々のあいだに差異のない完全に同質的な社会であるか、絶対的な差異のもとでいっさいの比較を許さない前近代的な社会であるかのいずれかであろう。そうすると、嫉妬は私たちのデモクラシーの条件かつ帰結ということになる。それゆえ、嫉妬を民主社会から切り離せばよいという単純な話にはならないのだ。


「みんなちがって、みんないい」というのが民主的な社会であり、人間は「ちがい」から生まれる「嫉妬」という感情から逃れられない。
それならば、民主主義社会は「嫉妬」とうまく付き合っていくしかない、ということになるのです。
全く同じ能力の人間と同質の環境を作り出すか、生まれつき、貴族は貴族、奴隷は奴隷、という「あきらめるしかない身分制社会」にならなければ、「嫉妬」は超越できない。
むしろ、民主的であろうとするほど、個人の権利・意思を尊重するほど、「嫉妬」は生まれ、育ちやすいのです。
「嫌いなものは嫌い」だし、「妬ましい、ムカつく、なんでアイツばっかり」という気持ちは、そう簡単に消えるものではない。
僕からすれば、『X』のいい話のポストの「いいね!」をノータイムで押せる人のほうが、違和感があるのです。


 これほど多くの人たちが「嫉妬」について考え、語ってきたのか、と驚きました。
 そして、それでも、嫉妬は克服どころか、ネット社会でさらに増幅されていく一方なのか、と嘆息し、その反面、安心もしたのです。
 ああ、僕だけじゃなかった、現代だけじゃなかった、と。


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