琥珀色の戯言

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【読書感想】ジョン・ロールズ-社会正義の探究者 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

『正義論』で知られるジョン・ロールズ(一九二一~二〇〇二)。「無知のヴェール」「重なり合うコンセンサス」などの独創的な概念を用いて、リベラル・デモクラシーの正統性を探究した。本書はロールズの生涯をたどりつつ、その思想の要点を紹介する。彼が思想とした社会とはどのようなものだったのか。また、批判にどのように応答し、後世にどのような影響を与えたか。戦争体験や信仰の影響、日本との意外な関係などの歴史的背景もふまえ、「政治哲学の巨人」の全貌を明らかにする。


 ジョン・ロールズの『正義論』という著作のタイトルは知っていても、「どんなことが書かれているのか?」は、ほとんど知らずに生きてきました。

 サンデル教授が、よく名前を出している人か、というのが僕のロールズさんの率直な印象なのです。
 
 そもそも、「正義」とかを語るというのは、なんだか傲慢が気がするし(それをあえてやるのが「哲学」ではあるのですが。そもそも、日本語で「正義」と訳されているだけで、僕が考えている「正義」と同じ意味だと考えてよいのかどうか)。


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 「正義の味方」という表現は、ずっと昔からあったわけではなくて、太平洋戦争が終わってしばらく経った1958年に放送がはじまった『月光仮面』で使われ始めたのです。

『クイック・ジャパン』創刊当初の名物企画から生まれたインタビュー集『篦棒(ベラボー)な人々』のなかで、『月光仮面』の原作者であり、「正義の味方」という表現をつくった川内康範さんが、こんな話をされています。

川内康範月光仮面月光菩薩に由来しているんだけど、月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。脇役で人を助ける。月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。だから「正義の味方」なんだよ。けっして正義そのものではない。この世に真の正義があるとすれば、それは神か仏だよな。月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ。


 ヨーロッパの哲学では「正義とは何か」というのは、昔から議論され続けていたのですが、東洋の思想では、「人間の集団にとっての正義とは何か」について語られる機会は少なかったように思われます。

 アメリカという多人種、さまざまま宗教・背景を持った人たちがつくった国では、それぞれの価値観に基づく争いを抑えるために「政治における正義」が議論されつづけてきたのです。

 ロールズの名は何よりも『正義論』によって知られている。それぞれ異なった仕方で生きている私たちが、互いを自由かつ平等な存在とみなすなら、社会の制度やルールはいかなるものであるべきか。これが『正義論』の問いである。彼は、人種やジェンダーによる差別が存在する社会、家庭の貧富の差が進路を大きく左右する社会、生まれつきの才能の違いが著しい格差につながる社会は、正義にかなったものとはいえないと考えた。
 そこでロールズは次のような提案をする。本人の責任を問えないような偶然性の影響を辿る「無知のヴェール」を被った当事者たちが契約を結ぶとしたら──かぎりなく公正な状況で結ばれる仮説的契約がなされるとしたら──どのようなルールが採用されるかを考えるべきだ、と。
 そうした公正とみなされる条件のもとで得られる正義の構想を、ロールズは「公正としての正義」とよぶ。この構想の特徴を示すのが、有名な「正義の二原則」である。第二章で詳しく述べる通り、それは平等な自由の現地(第一原理)、公正な機会平等の原理(第二原理前半)、格差原理(第二原理後半)という三つのパートからなる。このようにロールズが示した「公正としての正義」は、リベラリズムの伝統を刷新し、平等主義的なリベラリズムの立場を旗幟鮮明に示した正義の構想として広く受容されていく。


 正直、この新書、僕にとってはそんなに簡単な内容ではありませんでした。
 何度も同じところを読み返したり、途中でちょっと眠くなったりしながら、なんとか読了したのです。
 
 そもそも、「無知のヴェール」なんて、非現実的ではないのか?

 この本は、ロールズの生涯を辿りながら、それぞれの時代の著作や思想、そして、周囲の学者たちとの交流や、『正義論』への学界での反応・反論などについても紹介されているのです。

 ジョン・ロールズの『正義論』は有名であり、第二次世界大戦後の政治哲学、社会正義を学ぶ上での「基礎知識」となっているのですが、さまざまな反論がなされているし、ロールズ自身も、「無知のヴェール」から、「それぞれ異なる性格を持った集団が存在していることを受け入れたうえで、その伝統を受け継ぎながら、お互いを尊重してうまく社会を運営していくには、どうすればいいのか?」を考えるようになっていったのです。

 僕はロールズの理論を十全に理解できたとは思えないのですが(新書を1冊読んだだけで、わかるようなものでもないでしょう)、ロールズが高名な学者でありながら、他者の意見にも耳を傾け、対話を重ねながら自らの理論をアップデートしつづけたことには、すごいな、と思わずにはいられませんでした。
 
 学問の世界でも、偉大な存在になってしまうと、自分の考えに固執する人は多いのです。

 ロールズは、学者としても「公正としての正義」を実践していたのかもしれません。
 
 ネットでは、「昔と言っていることが違う」と批判される人も多いのですが、数ヵ月、数年くらいならともかく、5年、10年すれば、人間の考え方は変わっていくほうが自然なのに。

 さて、ロールズが提示する正義の構想の内容は「正義の二原理」(two principle of justice)として定式化される(ここでは最終版と考えられる定式を挙げる)。

第一原理:各人は、平等な基本的な諸自由からなる十分に適切な枠組みへの同一の侵すことのできない請求権をもっており、しかも、その枠組みは、諸自由からなる全員にとって同一の体系と両立するものである。。


第二原理:社会的・経済的不平等は、次の二つの条件を満たさなければならない。第一に、社会的・経済的不平等は、公正な機会の平等という条件のもとで全員にひらかれた職務と地位にともなうものであるということ。第二に、社会的・経済的不平等は、社会のなかでもっとも不利な立場におかれる成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)。


 第一原理が「平等な自由の原理」、第二原理の前段が「公正な機会平等の原理」、そして第二原理の後段が「格差原理」とよばれる。これら都合三つの原理のあいだには、(1)平等な自由の原理、(2)公正な機会平等の原理、(3)格差原理という明確な優先順位が設定される(順序がけっして覆らないという意味で、それは辞書的な優先性」ともよばれる)。したがって、もっとも不利な立場にある人びとの経済的状況を改善するような制度がかりに平等な自由を損なうものであるとすれば、そうした制度の編成は正当とはみなされない。
 ロールズは、複数の諸原理のあいだに明確な優先順位を設定しない正義の構想を「直観主義」とよぶ。正・不正をめぐる事態の複雑さは功利主義のような一元的な原理にはなじまない。それゆえ、過度の単純化を避けるためには複数の諸原理が併存せざるをえず、それらを事態に応じて使い分けるほかはない、と直観主義は考える。ロールズは諸原理の明確な優先順位を示すことによってこの立場を退けるわけである。


 「結果平等」よりも「機会平等」を優先する、というのが「正義」だというのは、アメリカ的であり、格差社会の助長につながるのではないか、とも思うのです。
 ただし、ロールズ自身は、2002年に81歳で亡くなっていますから、いまの「格差がさらに拡がっていく社会」を見たわけではありません。
 2021年の9月11日に起きた『同時多発テロ』と、その後のイスラム教世界との軋轢を、晩年のロールズはどう見ていたのだろうか。

 この本のなかでは、太平洋戦争に従軍したロールズが、原爆投下直後の広島の街を視ていたことや、原爆投下や多くの民間人が亡くなった空襲について、「戦争をしていたとはいえ、もう(日本の敗戦で)大勢は決しており、間違った行為だった」と、後年、アメリカ軍を批判していたことも紹介されています。

 大統領選挙での大騒ぎや人種差別の歴史をみると、「アメリカの民主主義って、本当に大丈夫なのか?」と思うのですが、こういう「批判」をする権利が認められ、つねに自浄作用が働こうとしている国でもあるんですよね。

 サンデル教授の講義に興味を持ち、著作を面白いと感じた人ならば、この新書もおすすめできます。
 あらためて考えてみると、サンデル教授の本とか授業は、政治哲学や「社会正義」を扱うものとしては、かなりエンターテインメント性が高いし、「わかりやすく感じる」ようになっているのだなあ。


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