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【読書感想】明智光秀 織田政権の司令塔 ☆☆☆☆

明智光秀-織田政権の司令塔 (中公新書)

明智光秀-織田政権の司令塔 (中公新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
織田信長は版図拡大に伴い、柴田勝家羽柴秀吉ら有力部将に大幅な権限を与え、前線に送り出した。だが明智光秀の地位はそれらとは一線を画す。一貫して京都とその周辺を任されて安土城の信長から近く、政権の司令塔ともいえる役割を果たした。検地による領国掌握、軍法の制定などの先進的な施策は、後年の秀吉が発展的に継承している。織田家随一と称されながら、本能寺の変で主君を討ち、山崎合戦で敗れ去った名将の軌跡。

 
 NHK大河ドラマ麒麟がくる』も、最終回を迎えました。
 新型コロナウイルスの影響などで、収録・放送が中断された時期もあった、『麒麟がくる』なのですが、ドラマとしての見せ場はたくさんあった一方で、明智光秀という人の行動や思想については、かなり自由な発想で描かれています。実際のところ、光秀の生涯、とくに織田家で頭角を現すまでの前半生はほとんどわかっていないのです。
 そういう人が織田軍団を支える存在としてのぼりつめたというのも、すごいことですよね。羽柴(豊臣)秀吉の「成りあがり」ほどではないとしても、光秀も異例の出世を遂げた人物であり、そのことについて感謝しているという史料も遺っているのです。

 この本、その明智光秀の生涯の「現時点でわかっていること」を信頼できる史料を手掛かりに、まとめたものなんですよ。
 どうしても『本能寺の変』ばかりがクローズアップされてしまう明智光秀なのですが、実際はどんな人物で、どのような過程を経て、信長軍団で重要な地位を占めていったのか。

 「『本能寺の変』の真相はこうだ!」みたいなセンセーショナルなことは書かれていませんが、だからこそ、この本の記述にはかなり信頼が置けるのではないかと思うのです。

 本能寺の変を光秀が起こした「理由」はわからないけれど、あの時代に、信長を討つことができたのは、たぶん、明智光秀だけだったのです。

 (足利)義昭政権末期の局面を光秀は冷静に見ていた。特に義昭御所の引き渡し、破却が進んでいた頃、光秀は信長に対して、京都吉田山に「御屋敷」を築くよう勧めている。この山は、京都上京と比叡山山系の間にある神楽岡と呼ばれる比高60メートルの独立丘陵である(比高は山頂と山麓の生活域との標高差)。前年の元亀三年(1572)5月にも、信長は京都に御屋敷を構築していたが、基本的に信長は京都における居所を明確に定めていなかった。義昭の「京都御城」(義昭御所、『兼見卿記』)が破却になった今、洛中と山中越えの中間にあたる丘陵を、信長の新しい拠点の候補地として挙げたことになる。今まで戦国時代の将軍の居所は、洛中の御所か、東山と呼ばれる比叡山系の西へ突き出た尾根突端の勝軍山城、中尾城、霊山城(京都市)などに築かれていた。しかし比高差があるため、より洛中に近い中間の丘陵に目がつけられたのである。


 史料によると、光秀は、本能寺の変の10年前くらいから、信長の京都での居所が危険であることを指摘しており、築城を再三勧めているのです。
 このときも、信長は柴田勝家羽柴秀吉滝川一益丹羽長秀などの首脳たちを現地調査に向かわせたそうですが、結果的に「御屋敷には不適」と判断されたのです。

 光秀は、ずっと、京都滞在中の信長の防護・警護が薄くなってしまうことを懸念していたのです。結果的に、その認識が、あのとき、光秀を「今がチャンスだ」と駆り立て、『本能寺の変』を起こすことにつながったのかもしれません。
 あらためて考えてみると、当時の天下一の権力者に対して、あれほどの手際で抹殺することに成功したのですから、光秀はすごい人物だった、ということなのでしょう。
 
 明智光秀という人は、もともと足利将軍家に近い存在で、織田家と将軍家に並行して仕えていたような時期もあったのですが、その人脈もあってか、中国地方に派遣されていた羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家に対して、ずっと畿内で活動していたのです。信長は、光秀を複雑な政治的な配慮を求められる「中央」を任せられる能吏であるのと同時に、自分を裏切るほどの野心がある人物ではない、とみていたように思われます。

 著者は、天正九年(1581)6月2日に制定された、明智光秀の家中軍法を紹介しています。

 後段では、光秀の同法に対する姿勢が記されている。すなわち、こうした戦時について「相嗜(あいたしなむ)者」も「其分際に叶わぬ者」も関係なく「相構えて思慮を加えるべし」と述べ、「愚案条々」を発表したとする。ここでは、前述したような規律ある軍事行動がとれる者がいる半面、そうした経験がない者がいることを前提としており、やはり軍が寄せ集めの体をなしていた雰囲気が伝わる。その上で、「瓦礫沈倫之輩(がれきちんりんのともがら:つまらぬ身分のままで落ちぶれていた光秀)」が、(信長)に召し出され、現在は莫大な「御人数」を預けられている以上は、守られていない法度の状態、さらに「武勇無功之族」がはびこる状況は「国家之費」であり「公務」を掠め取るに等しいと評している。
 光秀が自らを「瓦礫沈倫之輩」と呼び、落ちぶれた存在だったところを信長に見出されたと強調している。少なくともこの段階では、光秀に信長に対する離反の意識は見られないと言われている(高柳光寿『明智光秀』)。実際、光秀は軍法の対象となる与力、家臣たちに対して、活躍すれば速やかに信長の「上聞」に達すると述べており、信長を上位に立てて奮起を促している。しかし一方で、信長への私的な忠誠とは別個に、「国家」「公務」といった公儀概念を上位に置こうとする姿勢も注目される。換言すれば、こうした公儀の方向性は、上級権力者たる信長が提示し得なかった点であり、光秀は自らを卑下し、へりくだった姿勢を示しながらも、こうした公儀性を積極的に押し出そうとしていた。


 光秀が、「瓦礫沈倫之輩」から引き立ててもらった信長に恩義を感じていたのは事実なのでしょう。でも、目の前に「信長を排除する絶好の機会」がめぐってきた際に、光秀はそれを実行せずにはいられなかったのです。
 それは、己の「野心」だったのか、知識人であった光秀が、信長が天下を統一した際に、過去の中国の皇帝がそうしたように、「功臣が粛清される」のを恐れて先手を打ったのか、それとも「信長よりも『公儀』を重視する政治をやりたかった」のか……

 うーむ、「本能寺の変のことばかり語ろうとしていない」のが特長である新書なのに、僕はやっぱり、「なぜ明智光秀は『本能寺の変』を起こしたのか?」ばかり、考えてしまっているようです。

 ちなみに、本能寺の変のあと、光秀がもっとも気にしていたのは、四国攻めを進めていた信長の三男・信孝と、大坂にいた丹羽長秀の動向だったのです。
 光秀は本能寺の変のあと、自分の勢力を固めるためにさまざまな手を打ってもいます。
 中国地方にいて、難敵・毛利氏と対峙していた羽柴秀吉の「中国大返し」は、光秀が知者なだけに、予想外だったはず。

 一般に戦国期の前線では、流言飛語や敵失を狙ったデマが飛び交っており、迂闊に怪しい情報に乗せられず、冷静に分析、対処することが求められた。ところが、秀吉は確信を持って変の情報を受け止め、独自の判断で素早く毛利氏と和睦したことになる。京都や畿内・近国との間によほど信頼し得る情報網を持っていたと考えられる。前述したように、信長の西国出陣がかねて予定されており、こうした準備が情報伝達に好都合に働いたのかもしれない。


 織田家中きっての知識人であり、司令塔でもあった光秀の謀反は、必ずしも無謀な試みではなかったのだと思われます。秀吉の早すぎる帰還がなければ、天下は光秀のものになっていた可能性は十分にあったのです。そして、この時代に「(後世の時代からは)理由がよくわからない謀反」は、珍しいものではなかった。
 むしろ、秀吉のこの的確すぎる対応のほうが「異常」なんだよなあ。結局、その後の秀吉は、織田家への忠誠を貫いたわけではなく、自らの天下取りに邁進していきました。
 だからといって、「秀吉の陰謀説」みたいなものに与するわけではないけれど、人の心の内は、本当にわからないものだなあ、と考え込まずにはいられないのです。


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明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)

明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)

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