琥珀色の戯言

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【読書感想】もう一度、歩きだすために 大人の流儀11 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

累計220万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズの第11弾、『もう一度、歩きだすために』がいよいよ発売となります。
著者の伊集院静氏はくも膜下出血を患い、一時は生死の境を彷徨いました。
「もしこのまま目が覚めなかったら……」
そんな不安が頭をよぎり、眠れない夜を過ごすこともありました。
それでも、伊集院氏は帰ってきました。再び筆をとった氏が見たのは、コロナ禍に苦しみながらも、懸命に生きる人々の姿でした。
大切な人を失ったあなたへ、生きることに絶望してしまったあなたへ、そしてコロナ禍に苦しむすべての人へ。
「それでも人には、再び立ち上がる力がある」
二十歳で弟、三十五歳で妻・夏目雅子との死別を体験してきた作家は語りかけます。
伊集院氏の言葉がきっと、先行きの見えない世の中を歩んでいく際の道標になるはずです。


 伊集院静さんのエッセイ『大人の流儀』シリーズも11巻め。
 僕にとっては、読むと少しの間背筋が伸びる気がする「大人の男ポルノ」みたいなものではあるのですが、とくにインターネットでは「若者の気持ちファースト」になっているなかで、この『大人の流儀』は、「昭和の人間の気概」みたいなものを語りかけてくれる貴重なエッセイではあるのです。まあ、自分では若者に言えないことを、伊集院さんという強面の先輩が言ってくれてスッキリ!みたいなところもあるのですけど。
 実際は、伊集院静さんも平成の30年間と令和の3年間を生きてここまで辿り着いておられるのです。僕などは「昭和の人間」のつもりなのは自分だけで、人生の6割くらいは「平成」です。

 「あれもいいけど、これもいい」という多様な価値観が重視される世の中で、たとえ嫌われても「自分はこれがいい、これでいい」と言ってくれる人がいると、なんだか安心もするのです。

 伊集院さんの文章を読んでいると、これまで自分が持っていた価値観とか世間の評価みたいなものが揺さぶられるというか、「自分が先入観や噂話に頼って他者を判断している」のを考えさせられることが多いのです。

 『作家と家元』(中公文庫)という本に収録されている、伊集院さんと落語家の故・立川談志さんの対談から、故・石原慎太郎さんについてのこんなエピソードが紹介されています。

 色川(武大)さんと談志さんの仲はよく知っていたが、石原さんと師匠(談志さん)のことは知らなかった。そうか、二人は国会議員の繋がりか。
「伊ー兄ィ」私のことを談志さんはそう呼んだ。たけしさん(北野監督)も、時折、兄さんと私のことを呼ぶ。こちらはカンベンして下さい、とうつむくのだが、談志さんとたけしさんの仲はうらやむほどだった。
「伊ー兄ィ、慎太郎って男の真の姿を教えようか?」
 談志さんが或る時言った。
「お願いします」
 談志さんが体調を崩し、どうもイケナイという時、石原さんから連絡が入った。長びいた高座が終わって約束の目黒の権之助坂にタクシーを停車させた。ドシャ降りの雨で、
──もう居ないだろう……。
 と着いてみると、ずぶ濡れになった石原氏がビニール傘を手に笑って立っていた。あの頃の東京都知事の彼は飛ぶ鳥を落とすい勢い、まさに天下の石原であった。
「天下のあの男が、俺の身体のためにちいさな傘を持ってズブ濡れになって直立不動で、笑って立っていたんだ。コリャ、モウイケネェ。それからずっと野郎に頭が上がらないどころか、真底やさしい男なんだと身に沁みた。彼のお陰で体調も戻り、少し生きながらえた」
 人は逢ってみなければわからない。
 惜しくも逝去されたあとの各テレビ、新聞のニュースを見て、昭和を代表する作家であるんだ、とつくづくこの人の人間の幅の広さに感心した。


 僕は、こういうのを読むと「人たらし」だよなあ、とか、「相手が談志さんだったからだろう」とか、思ってしまう人間なのですが、少なくとも、こういう一面が石原慎太郎さんにはあったのです。東京都知事として当選を続けていた時代であれば、もっと地位や権力を利用した対応だってできたはず。女性蔑視発言や、タカ派の好戦的にみえる言動で語られることも多い人だけれど、それだけで語り尽くせるような人ではなかった。


fujipon.hatenadiary.com

 この本のなかで、石原さんは、子どもの頃の体験を語っておられます。

石原:(戦時中)警戒警報が鳴ると学校が生徒達を帰すんです。湘南中学が丘の上にあって、帰ろうと思ったら駅まで四十分くらい歩く。下駄履いてね。丘の下に烏森っていう森があってその向こうに東海道線が走っていて、見たら列車が止まっているんだよ。満員列車が。で、駅に行くよりそっちのほうが近いから、歩いたの。そうしたら途中でアメリカの飛行機が来て機銃掃射しやがった。それで僕は慌てて芋畑の中に伏せた。こわごわと上を見たらアメリカの飛行機の胴体に漫画が書いてあった。あれがアメリカの文化に初めて触れた瞬間だな。それから烏森に逃げ込もうとしたら、また爆音が聞こえた。まずいなと思って、芋畑の畝の中に伏せたんですよ。そうしたら今度は機銃掃射がない。見上げたら厚木の友軍の飛行機なんですよ。褐色の胴体に日ノ丸に白縁してあった。それで、なんというのかな。感動したね、あの時は。すがりつきたいくらい、感動した。国家と民族の初めての体験ですね。得難い体験だった。


坂本:それは本当に貴重な体験でしたね。


石原:ああいうものを得た後でね、みんな立場は違ったけど、もはや戦後ではないって時代になった時に、群雄割拠っていうか、色んな新人が出てきましたよ。小説家だけじゃなく、芸術世界でね。寺山修司もそうだし、それから有吉佐和子とか、曽野綾子とか。映画の世界なら篠田(正浩)とかさ。大島渚とか。みんな同世代ですよ。百花繚乱って感じだったね。みんな同じような体験を持っているから。色んな鬱屈したものを持っていてね。みんな強いメッセージを持っていましたよ。


 この話を読んで、僕は石原さんが特攻隊の映画をライフワークとしてつくっていたのを思い出しました。
 「特攻」という作戦そのものは、それをはじめた指揮官ですら「邪道」だと言うような残酷なものではありましたが、日本軍の飛行機に命を救われた石原さんは、そのときの感謝を終生持ち続けた人だとも言えるのです。多くの日本人は、太平洋戦争が終わったらすぐに「転向」してしまったのですが、石原さんは、自身が受けた「恩」をなかったことにはできなかったのかもしれません。

 

 このエッセイ集は戦後(古い言い方だが)、昭和20年(1945年)以降、週刊誌の連載として最も売れているという。これも信じられない。
──何が、どこがいいのか?
 こういうことは考えないほうがイイ。なぜなら売れる商品には、なぜその商品が売れるのか、はっきりとした理由がないのである。逆に売れない商品には、売れない理由がちゃんとあるそうだ。これは売れない原因を調べて、工夫していけばよい。


 「売れた」だけで言えば、さくらももこさんのエッセイ集は、爆発的に売れたよなあ、面白かったものなあ(いま、すぐに思い出せるのは「飲尿療法」の話だけど)、と思い浮かぶのですが、あれは週刊誌の連載ではありませんでした。

 「なんでもあり」「稼いだもの勝ち」の風潮のなかで、「格好良く、自分にも他者にも厳しく、でも弱っている人には温かく生きている」伊集院さん。こういう存在って、いつのまにか他にはほとんどいなくなってしまったよなあ。


fujipon.hatenablog.com

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