琥珀色の戯言

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【読書感想】晩節の研究 偉人・賢人の「その後」 ☆☆☆☆

晩節の研究 偉人・賢人の「その後」 (幻冬舎新書)

晩節の研究 偉人・賢人の「その後」 (幻冬舎新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
歴史に名を残す偉業を成し遂げた人物も、ほとんどの場合、本当に活躍したのは、ある一時期に限られる。それどころか、リタイヤ後に意外な「その後」の人生を送った人物が少なくない。「祟り」に慄き死んでいった藤原道長。健康に気を使いすぎて逆に死期を早めた徳川家康。老人になってから計画殺人を実行した徳川光圀。勘違いで殺人を犯して獄死した平賀源内……。有能な成功者である彼らはなぜ"晩節を汚す"ことになったのか。その分岐点には何があったのか。30人の偉人たちの知られざる末路を繙き「人生の本質」を追求する、画期的な書。


 著名人の「死に方」を集めた、山田風太郎さんの『人間臨終図鑑』という本があります。

 これを読むと、偉人や有名人も、その多くは「普通の死に方」をしているのだな、と思うのです。
 善人だから安らかな死とは限らないし、多くの人を犠牲にしながらも、畳の上で死んだ人も少なくありません。
 因果応報、とは言うけれど、本当にそうだろうか?
 僕は子どもの頃、広島に住んでいたことがあるのですが、原爆が投下されたときの街の光景を想像しながら、いつも考えていたのです。
 犠牲になった人たちが、みんなこんな目に遭うほど、悪いことをしてきたはずがない、って。

 この本では、偉人や著名人の「死にざま」というより、もう少し長めの「功成り名を遂げたあとの晩年」が紹介されています。
 「この人は、結果的に長生きしすぎてしまったのかもしれないな」とか、「もう少し生きることができていれば、もっと大きな仕事ができただろうに」と思いながら読んだのです。
 それにしても、生まれてから死ぬまで、ずっと順風満帆、みたいな人生は、なかなか無いものではありますよね。


 大きな仕事を成し遂げた偉人には、本人にとっては想定外な「その後」もあるのです。

 後に浄土真宗の開祖とされる親鸞は、朝廷の念仏弾圧によって師の法然とともに配流となった。越後に流された親鸞は、五年後に赦免された後も京都に帰らず、関東地方で約20年間にわたって念仏の教えを広め続けた。
 ところが嘉禎元年(1235)、急に都に戻ってしまう。鎌倉幕府が念仏に警戒の目を向けはじめたからだ。
 じつはこの頃、信者の中に「悪人こそ、阿弥陀様は率先して救ってくださるのだ」と述べる親鸞の教え(悪人正機説)を都合よく解釈する者たちが増えていたのだ。
 親鸞が言う悪人とは、自分の無力さを知って自力での往生をあきらめ、ひたすら阿弥陀の力にすがろうとする人びとのことである。ところがその文字面どおり、悪い人間、ダメな人間と解釈し、わざと悪さや酒飲肉食をしたり、平然と異性とみだらな行為にふける者が現れたのだ。中には領主や名主に反抗して年貢を納めぬケースもあり、さすがの幕府も看過できなくなった。
 親鸞は、こうした信者たちと「獅子身中の虫」「地獄にも落ち、天魔ともなり候」と非難したが、異端的な行為は下火にならなかった。そこで親鸞は、幕府の弾圧を避けるため、仕方なく京都へ拠点を移したのである。63歳のときのことだ。

「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」という有名な親鸞の言葉があります。
 僕はこれを歴史の時間に習って、「これは秀逸なキャッチコピーだな」と思ったのと同時に、「こんなことを公言していたら、どうせ念仏で罪がリセットされるのなら、と悪いことをしまくる連中が出てきてもおかしくないのに、昔の人たちは真面目だったんだなあ」と感心していたのです。
 実際には、やっぱりそういう輩が大勢出現してきて、親鸞自身も悩まされることになった、ということなんですね。
 今も昔も、人間の本質というのは、そんなに変わらないみたいです。
 その後、親鸞は、この事態をなんとか収拾しようとした息子と対立し、泥沼の争いに陥って晩年を過ごすことになったのです。


 『富嶽三十六景』で知られる、葛飾北斎さんの項では、こんなエピソードが紹介されています。

 北斎は、自宅でひたすら朝から深夜まで毎日絵を描き続けた。腕が萎え目が疲れてくるとようやく筆を置くのが常だった。それ以外のことは、本当に何もしなかった。九月下旬から四月上旬までは、炬燵の中に入ったまま仕事をした。夜も炬燵の中で寝たので、夜着も身につけなかったし、掃除をしないので炬燵ぶとんはしらみだらけだった。炊事も一切せず、三度の食事は近くの煮売屋に頼んで自宅に運んでもらって食べた。ただ、食器や箸もないから料理は手づかみで食べ、包む竹の皮や重箱などはそのまま放置したので、すぐに部屋は散らかっていく。
 そんな北斎でも、客が来たときはさすがに茶を出した。でも自分では淹れずに、大声で煮売屋の店員を呼び、その者に給仕させたという。あきれたずぼらさだ。


 北斎さんは、「ずぼら」というより、発達障害ではなかったかと思われます。衛生観念が江戸時代と現代では違うので、こういう人は今よりも、もっと多かったのかもしれませんが。
 葛飾北斎という人は、そういう「社会不適応者」でありながら、絵の実力と、より良い絵を描くことへの情熱で、ずっと生き続けたのです。

 あるとき北斎の弟子・露木為一が(北斎の娘の)阿栄に向かって「筆がうまく運ばない。絵描きになろうと思っているが、ダメかもしれない」とため息をついた。すると阿栄は笑って、「私の父は幼い頃から80歳のいまにいたるまで毎日絵を描き続けていますが、この前、腕を組んで、『私は猫一匹もきちんと描くことができない』と涙を流し、嘆息しておりました。絵の分野だけでなく、己はダメだと自らを棄てようとするときは、じつはこれ、その道に上達する機会なのです」とアドバイスした。すぐ横で阿栄の言葉を聞いていた北斎は、「まさにそのとおりだ」と頷いたという。


 北斎は90歳で亡くなるときに、「天があと10年、いや5年、命を長らえさせてくれたら、私は真正の画工になれたのに」と言い残したそうです。
「自分の好きなことを仕事にした」というのは、葛飾北斎のような人のことなのだろうな、と思うのです。というか、北斎は「絵を描くことしかできなかった」けれど、その道を極めて食べていけた、幸運な人だったのかもしれません。
 
 「晩節を汚す」という言葉がよく使われますが、多くの場合、本人にはそれが「晩節」という意識はあまりないんですよね。華やかな人生をおくってきた人ほど、「自分はまだまだ現役でやれる」と思い、それを見せようとして迷走しやすいのです。
 「晩節を汚した」と言われるほど充実した時期があったのなら、それはそれで幸せな人生だとも言えそうです。
 お笑いの「一発屋」だって、その「一発」さえ無い人がほとんどなのだから。


歎異抄

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はじめての親鸞(新潮新書)

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富嶽三十六景・富嶽百景

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