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【読書感想】1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 ☆☆☆

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書)

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書)


Kindle版もあります。

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由(新潮新書)

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由(新潮新書)

内容紹介
霞ヶ浦のほとりのレンコン農家に生まれ、民俗学者となった若者が、実家の農家を大変革。目玉は1本5000円と超破格の値段のレンコンだ。マーケティング民俗学の知識を応用した戦略で、そのレンコンはニューヨーク、パリ、フランクフルトなどの高級和食屋で使われるだけでなく、注文を断るほどの「バカ売れ」に。「ブランド力最低の茨城県」から生まれた、痛快な「逆張りの戦略ストーリー」。


 この本を読み終えて、僕はちょっと考え込んでしまいました。
 こういう「ものすごく高額に感じられる商品を、品質と売る側の工夫で大ヒットさせる話」というのは、新書の定番ともいえるものです。

 僕が力を尽くしてきたのは、両親が経営する株式会社野口農園と、野口農園で生産するレンコンの価値を高めることです。中でも大きかったのが、1本5000円という超高級レンコンのプランディングです。レンコンは1本1000円ほどが標準的な価格ですから、単純に5倍の価格で販売しているわけです。
「そんな馬鹿な」「できるわけがない」と思う方が多いかもしれませんが、この常識はずれな超高級レンコンは、今では生産が追い付かないほどの注文を受けるようになりました。また、デパートの外商の商材として使わせて欲しいとか、有名チェーンのカタログギフトに使わせて欲しいといった依頼も頂いていますが、満足できるレンコンが十分に確保できないので、大半はお断りせざるをえないのが現状です。


 レンコン農家と民俗学者という「二刀流」を続けている著者は、すごい熱意と粘り強さで、もともと高品質だった実家のレンコンを「1本5000円」という価格で売れるようにしました。
 もちろん、それは簡単なことではなくて、最初の頃は、展示会などに出しても、物珍しがる人はいるものの、なかなかまとまった受注には結びつかない、という状態だったのです。
 そこで、著者は、「何でもやる」覚悟で、あえてメディアに露出を仕掛けたり、「伝統」をアピールしたりと試行錯誤を続けていきました。

 結果的には、大成功をおさめることができているのですが、途中には家族(とくに、ずっと「美味しいレンコン」をつくることにこだわり続けてきたお父さんとの葛藤が描かれています)の強い反対にもあいました。

 
 でも、読みながら、「なんだか、著者の熱さばかりが伝わってきて、このレンコンを消費する人の顔が見えない話だな」と、ずっと考えずにはいられなかったのです。


 「なぜ、このレンコンが『バカ売れ』するのか?」は、最後までよくわからなかったんですよ。
 メディアなどで名前が売れたからなのか、価格の高さが話題になって、試してみようという人が増えたのか、やっぱり「美味しいから」なのか。


 著者は、その「理由」について、こう述べています。

 結局のところ、1本5000円レンコンがバカ売れするようになった理由は何なのか。その秘密は、実はたった一つ。両親はもちろん、顔も名前も知らない先祖が苦労して育ててきたこのレンコンを、何があっても安売りすることができなかったからです。
 生まれたばかりの娘の身体にさえ残されていたレンコン農家の刻印。家格が低く、農家の中でも蔑まれていた哀しみ。その全てを受け継ぎ、乗り越えていくという信念を抱いた以上、みずから価値を貶めてレンコンを安売りすることなどできなかったのです。
 民俗学者でもある僕は、第二章で述べた「伝統の創造」論によって、軽々に伝統や民俗が「昔から続いてきたものである」などということは言えなくなってしまいました。だからこそ、すでにある伝統に振り回されるのではなく、こちらから伝統を作り出すことで、1本5000円レンコンを構想していったのです。


 ただ、著者はものすごく正直な人だなあ、とも感じました。こういう本って、売る側の「お客様のために!」みたいなアピールをすることが多いのだけれど、著者は徹頭徹尾「売る側の農家目線」で話を進めているのです。

「野口さん、近くにつくば市があるやないですか。この前、つくばで農業用パワードスーツっていうの開発してるってテレビかなんかで見たんですよ。どうやったら買えるか聞いてきてもらえませんか?」
 2013年、徳島県で開催された「れんこん会議」に参加した僕が、徳島県のレンコン農家と話していた時、こんなことを言われました。彼は「パワードスーツ」を導入すれば、今よりたくさんレンコンを収穫できるのではないかと考えたようです。
 最近の農業界では「スマート農業」などという言葉がはやっています。端的に言うと、ICT技術やAIなどの最新の科学技術を導入することによって合理化を図り、生産性を向上させることを目指した農業のことです。僕が徳島でこのような依頼を受けた時は、ICT技術の開発が着々と進んでいた頃でしょうか。
「うーん、やめといた方が良いんじゃないですかね? それを使って、例えば今の3倍収穫できるようになったとするじゃないですか? 最初はいっぱい収穫できて儲かるかもしれませんけど、それが当たり前になると、今度は今の3倍働かないと同じ収入にならなくなりますよ」
 僕はとっさにこう言いました。彼は納得していませんでしたが、僕には確信がありました。このことは稲の価格から明らかなのです。

 
 著者は、「生産性」を上げるために、耕作面積を広げ、高額な機械を導入して大量の作物をつくる、ということに否定的なのです。
 そんなことをやって、3倍の作物をつくっても、一時的には収入があがっても、長い目でみれば3分の1の値段で買いたたかれるだけではないか、と。
 得をするのは機械メーカーと消費者であって、生産者は仕事や負担、負債が増え、何も良いことはない。それよりも、いまのやり方の農業で、搾取されないように世の中に主張していくことが大事なのだと考えているのです。
 僕は農家になったことがないので、最初に読んだときには、「なんて独善的な考え方なんだ」と思いました。でも、これまでの日本の農業は、ほとんどが、そういう「自分たちの見返りがないままに、いつのまにかいろんなことを押し付けられて、負担だけが増えてきた歴史」だったのですよね。生産者側にとっては。
 僕だって、「社会のため」というプレッシャーで、連日当直をさせられたり、仕事ばかりが増えて給料が上がらなかったりしたら、「それはおかしい」と思う。
 実際に農業をやっている人たちは、この著者の主張をどう感じるのだろうか。
 スタンドプレーが嫌われるのは、どの業界でも同じなのかもしれないけれど。


キレイゴトぬきの農業論(新潮新書)

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