- 作者:山本博文
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容紹介
2019年、映画化!
『決算!忠臣蔵』原作
出演:堤真一、岡村隆史 脚本・監督:中村義洋吉良邸討ち入りに費やされた軍資金は「約七百両」―武器購入費から潜伏中の会議費、住居費、飲食費に至るまで、大石内蔵助は、その使途の詳細を記した会計帳簿を遺していた。上野介の首を狙う赤穂浪士の行動を金銭面から裏付ける稀有な記録。それは、浪士たちの揺れる心の動きまでをも、数字によって雄弁に物語っていた。歴史的大事件の深層を一級史料から読み解く。「決算書」=史料『預置候金銀請払帳』を全文載録。
2012年に上梓された新書なのですが、現在公開中の映画『決算!忠臣蔵』の原作というか、元ネタになったことで、ふたたび話題になっています。
「赤穂四十七士」の討ち入りは、これまでも、さまざまな切り口で舞台や小説、映画になっているのですが、この『「忠臣蔵」の決算書』では、大石内蔵助というリーダーが、どのようにして「吉良邸討ち入り」というプロジェクトを成し遂げたか、というのを「お金の動き(支出)」を中心に追っています。
著者は、「江戸市中にある旗本屋敷へ、浪人が大挙して討ち入るというプロジェクトを成功させたものは何であったのか」と最初に問いを発しています。彼らの「忠義」が称賛されることは多いけれど、「忠義だけでは首は取れないはずだ」と。
暗殺のような手段であれば、少人数、成り行き任せでも、ものすごく幸運であればできないことはないのかもしれませんが、大義名分が立つ形での「討ち入り」、しかもそれを成功させるというのは簡単なことではありません。吉良邸でも、それなりの覚悟と準備はしていたようですし。
この経済的側面に関しても、個別的な事柄は、すでにかなりのことが分かっている。
例えば、藩士への年給ともいえる「知行」「切米」「扶持米」などは、藩士それぞれへの給付額(禄高)が分かっているし、藩のお取り潰しが決まってから藩士たちに分配された、いわば退職一時金ともいえる「割賦金」の額も確認できる。また、藩の独自紙幣ともいえる「藩札」の償還処置や、赤穂城の明け渡しに付随する城付き武具や城付き米の返納手続きなどがいかになされていたのかも知ることが出来る。
そして、筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を締めたとき、その手元に残ったお金は七百両足らずだった、ということまでが分かるのである。現代の金銭価値になおすと八千数百万円ほどになるだろうか。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用されるのである。
なぜ、こうした金額が分かるのかと言えば、赤穂事件関係の史料のうちには、金銭面に関わる記録までが相当に遺されているからである。
大石内蔵助らが、赤穂城を出てから、吉良邸討ち入りまで、約1年半。最終的には四十七士になるのですが、当初はもっと多くの同士がいたそうです。
時間が経つにつれ、脱盟する者も出てきて人数が減り(とくに、赤穂藩で高い地位にあった者が、どんどん少なくなっていったのです)、生活に困窮する者も多くなりました。
そんななかで、限られた資金をやりくりしながら、必要なものを購入したり、仲間の旅費や生活費にしたりしている様子が、この『金銀請払帳』には記されているのです。
お金の動きをみていくと、当初は、浅野内匠頭の慰霊のための費用や、内匠頭の弟の浅野大学を擁しての赤穂藩再興運動にかなり多額の資金が費やされており、大石内蔵助は、「復讐」よりも「お家再興」を優先していたことがわかります。
その望みが失われたことで、「討ち入り」の方針が固まるのですが、この史料では、「大石内蔵助が幕府の目をくらますために派手に遊んでいた」という遊興費は記録されておらず、内蔵助は「公費」と「私費」をきちんと分けて、自分の費用は自分で払っていたことがうかがわれます(もちろん、不正会計をしていた可能性もゼロではないのですが)。
「討ち入り」なんていう、成功しても失敗しても命は無いであろう行為をやろうとしているのだから、どんぶり勘定でやっていてもおかしくなさそうなものなのに。
江戸時代に、ここまできちんと「会計報告」をする習慣があった、ということに驚かされます。
不祥事で取り潰された藩に対して「退職金制度」のようなものがあった、ということも意外でした。
大石内蔵助は、「討ち入り」に際して、その是非を世の中に問うために、きちんと証拠を残しておこう、と考えていたのかもしれませんね。
これを読むと、赤穂浪士の討ち入りが、「なぜ、赤穂城引き渡しから1年半後だったのか」という理由がわかるような気がします。
同志の多くは、すでに家賃も払えない状態である。浪人生活も一年半に及び、蓄えは食いつぶし、知り合いからも借金を重ねていた赤穂の浪人は、おそらく着の身着のままで、節約しながら内蔵助から支給された手当で細々と暮らしていたのである。
「宿代」、「飯料」だけでなく、さらに生活の補助が必要だった同志もいる。
『金銀請払帳』の末尾には、「金七両一分不足 自分より払」と記されている。もはや軍資金は尽き、不足分は内蔵助の懐から出すしかなかったのである。
最初から、このくらいの準備期間を想定して、予算を切り崩していったのか、あるいは、もうこれ以上お金もないし、そろそろ行動を起こすしかない状態に追い詰められての「討ち入り」だったのか。
結局、赤穂浪士たちは切腹という処分になったのですが、彼らの名前は歴史に遺り、係累には、のちに他藩に高禄で召し抱えられた者も多かったのです。
「武士の一分」を世に知らしめたこのプロジェクトは、総合的な収支でいえば、「黒字」になったのではないでしょうか。