琥珀色の戯言

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【読書感想】大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
子どもが生まれない、父親が家督を譲らない、正室vs.側室のバトル。とかく「家」を守り続けることは難しい。徳川治世260年、将軍家や大名家は、「御家断絶」の危機をいかに乗り越えたか? 現代人にも身につまされるエピソード満載!


 歴史について学んでいると、さまざまな「もしも」を考えてしまいます。
 なかでも、「相続」というのは、さまざまな想像を生むものではありますよね。
 武田信玄が勝頼ではなく、長男・義信を武田家の後継者のままにしていたら、とか、豊臣秀吉が、甥の関白・秀次を粛清しなかったら、とか。
 どんな英雄も不死身ではないので、いつか「代替わり」がやってきます。
 この新書では、主に江戸時代、将軍家や御三家・御三卿、諸国の大名家が、「家」を維持することにいかに苦心惨憺してきたかが、つまびらかに紹介されています。


 どうしても子どもができない、という体質の男女がいることはわかるけれど、そういうケースを除けば、正妻の他にも何人も側室がいて、女性側も「世継ぎをつくること」がいちばん大事だと考えていた時代なら、世継ぎができないのは、よほどの特殊な例ではないのか?
 僕もなんとなく、そんなふうに考えていたんですよ。

(十一代将軍・徳川)家斉には、「徳川幕府家譜」で名前が伝えられている者だけでも男子25人、女子27人、合わせて53人の子どもがいました。そのほか、即日死去した男子が1人、流産で性別不明の者が二人います。側室は、伝えられるだけで17人です。
 この時代の将軍や大名家では、数多くの子どもが生まれますが、成人まで成長する者は多くはありませんでした。乳母の白粉に鉛が含有されていて、それが授乳の際に体内に摂取されて夭逝することになったとも言われます。確かに、この家斉や27人の子を持った十二代将軍家慶の子どもの成長率を見ると、そういうこともあったかもしれません。
 さて、家斉の後は、二男の敏次郎が継ぐことになるのですが、ほかの子どもは、夭逝しなければ、御三家や御三卿、一門などの養子となっていきます。


 この本を読んでいると、「藩祖の血統をつないでいく」というのが、大変難しいことだというのがよくわかります。
 比較的血縁が近いあいだでの婚姻が多かった、とか、白粉の成分が子どもの身体に悪かった、なんていいうような話もあって、なかなか子どもができなかったり、子どもがいても、幼少のうちに亡くなってしまったりすることばかりで、せっかく世継ぎが生まれても、うまく代を重ねていくことは、大変難しかったのです。
 血統が切れそうになるのを、遠縁からの養子であるとか、娘に婿養子をとることによって、なんとか「御家断絶」を避けるため、諸大名は苦労していたのです。
 なかには、20人とか30人とか子どもをつくった将軍もいて、その子どもたちの子孫が、遠回りして本家の断絶を防いだり、諸大名の養子に出された「兄弟」が、幕末の雄藩の指導者として協力したり反目したりしていたことも紹介されています。
 江戸時代も後半になってくると、諸大名のなかには、あえて子だくさんの将軍の子どもを養子にすることによって、家格を上げようとした、という例も紹介されているのです。
 大概においては、そういう「政略的な養子」は、藩の内部ではあまり歓迎されなかったようですが。


 諸大名は17歳になると養子をとることが幕府から認められ、とりあえずいざというときも御家断絶のリスクが少なくなる、ということで、みんなでお祝いをしたそうです。
 江戸時代のような比較的平和な時代でも、主君が幼いというのは、かなりのリスクがあったんですね。
 この新書を読んでいると、当時としては栄養状態も衛生状態もかなり良かったほうであろう大名の子弟でも、けっこうあっさり亡くなってしまっているということに驚かされます。
 多くの候補者がいればいいかというと、それはそれで後継者争いが勃発することもあり、世襲というのは一筋縄ではいかないようです。
 それが「当たり前」だと思われていた時代でさえも。


 この新書を読んでいると、歴史の主役となった人物たちの多くに、年長の兄や正妻の子である弟がいて、将軍や大名となるはずではなかった、ということに驚かされます。
 八代将軍。徳川吉宗は、御三家のひとつ、紀伊でも「本命の世継ぎ」ではなかったのに、候補者が相次いで亡くなったことにより紀伊藩主となり、八代将軍に指名されました。
 もちろんそれは運だけではなくて、紀伊での吉宗の評判が高かったことも大きく影響していたようです。
 その一方で、御三卿のひとつ、田安家の三兄弟のひとりだった(松平)定信は、1774年に陸奥白河藩に養子として家を出たのですが、その年に田安家の嫡男だった兄が亡くなり、田安家は「明屋形」(当主不在で、家のみが残された状態)になってしまいます。

 もし、定信が田安家を出ずに部屋住みのままでいたならば、治察(田安家の嫡男だった兄)の跡を継ぎ、将軍家を継ぐ可能性もありました。というのも、治察が没してからわずか5年後の安永八(1779)年、十代将軍家治の嫡子家基が没し、徳川宗家に跡取りがいなくなる事態が起こったからです。定信は幼少期から聡明で知られ、将来を嘱望されており、また田安家は一橋家よりも席次が上なので、十分その可能性はありました。しかし、白河藩に出されたことで将軍への道を失ってしまったのでした。


 寛政の改革を行った松平定信には、こんな半生があったんですね。
 これを読んで、「それなら、白河のほうは他の人に任せて、田安家に戻ればよかったのに」と思ったのですが、定信自身も養子の解消を願い出たものの、許されなかったのだとか。
 結果的に、定信は老中として改革に乗り出すことになったのです。
 こういう流れを知ると、松平定信という人が周囲から一目置かれていた理由もわかります。


 また、安政の大獄を起し、桜田門外で暗殺された井伊直弼も、本来の世継ぎだった兄が急死したために、三百石の捨て扶持をもらう庶子の立場から、譜代大名の代表格である36万石の井伊家の後継者となった人なのだそうです。

 江戸に出た直弼は、しばらくは将軍に拝謁したり、老中の屋敷を御礼訪問したりと、一日も休む暇もない生活が続きました。彦根藩世子として、外出する際には乗物に乗り、大勢の供を連れて門を出ます。直弼はあまりの境遇の変化に、「誠に不思議に思うほどのことで、将軍の御高恩、身に余るほどで、乗物の中で思わず落涙に及びました」と感激を書き記しています。
 こうした思いが、直弼に強い忠誠心を与えたようです。それは、正室の子で、三男でありながら兄を退けて嫡子となり、藩主となった養父直亮と違うところです。


(中略)


 若い頃不遇をかこったからこそ、直弼には、他の殿様政治家とは違う決断力や覚悟が備わっていました。ちなみに有名な「一期一会」という言葉は、直弼の茶書『茶湯一会集』に記された心得です。直弼の決断を支えたのは、二度とないこの一瞬にすべてをかけようという「一期一会」の気概だったのではないでしょうか。


 幕末もののドラマでは敵役として描かれることが多い井伊直弼なのですが、こういう話を読むと、人生の運不運というのは、わからないものだよなあ、と考えさせられます。
 井伊直弼には、彼の正義があったからこそ、ああいう強い姿勢を示し、結果的に、命を落とすことになってしまった。
 部屋住みのままだったら、暗殺されずにすんだのに、っていうのも、ちょっと違いますよね……


 「側室あり、血縁の養子あり」でも、こんなに家督をつなげていくのは難しいのだから、いまの時代の天皇家の後継者が「直系男子」限定っていうのは、あまりにもハードルが高すぎます。
 よっぽどの幸運がないと、近い将来、次代に受け継ぐのが難しくなるはず。
 しかしこれ、当事者は、すごいプレッシャーだろうな……


桜田門外ノ変(上)

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花の生涯(上) (祥伝社文庫)

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