琥珀色の戯言

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【読書感想】評伝 石牟礼道子 :渚に立つひと ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
苦海浄土 わが水俣病』の発表以来、文学界でも闘争の場でも神話的な存在であり続けた、詩人にして作家・石牟礼道子。しかし、水俣病に対する告発という面にとらわれすぎると、その豊饒な世界を見失いかねない。不知火海を前に育った幼年期から、文学的彷徨、盟友・渡辺京二との交流、苦闘の日々、暮らしと命を見つめてやまなかった晩年まで、創造の源泉と90年の軌跡を綴った初の本格評伝。読売文学賞評論・伝記賞受賞作品。


 石牟礼道子さんといえば、『苦海浄土』を書いた人、というイメージがあるのです。この文庫の「解説」を書かれている池澤夏樹さんは、『個人編集 世界文学全集』の全30巻で、唯一、日本人作家の作品として、この『苦海浄土』を選んでいます。
 この評伝では、石牟礼道子という作家が辿ってきた道のりが描かれているのですが、読みながら僕が考えていたのは、「石牟礼さんの家族、とくに夫は大変だっただろうなあ」ということでした。
 石牟礼さんは1927年に、現在の熊本県天草市に生まれ、地元の文化に根ざした活動を続けてきました。
 その一方で、水俣病患者の訴えを世の中にアピールするために家族とは別居してずっと活動をしていたり、文学仲間と親密な関係になって家出したりもしています。
 あの時代の熊本で、そういう生き方をするのは、とても大変なことだったと思いますし、それを認めてきた家族も、周りからいろいろ言われていたはずです。
 水俣病という未曽有の公害を引き起こした会社や政治に対して、敢然と声をあげた石牟礼さんなのですが、そのために放り出された家族は、どんな気持ちで過ごしてきたのだろうか、と僕は考えずにはいられないのです。
 一人の人間が「自由に生きる」というのは善いことだとされているけれど、本当に自由に生きようとする人の傍にいるというのは、「ふつうの人」にとっては、とても居心地が悪いのではなかろうか。
 石牟礼さんは、地方で自立した女性として生き、その土地の文化や料理をこよなく愛していた人でもありました。
 なんというか、シャーマンみたいな人だったのだなあ。
 『苦海浄土』という特別な作品は、石牟礼さんのような人だからこそ書けたのだろうと思います。


 著者は、「序章」で、こんなふうに述べています。

 石牟礼道子を読みながら、もう一つ思うことは、水俣病にとらわれすぎると石牟礼道子の正体(正体なんてあるのだろうか)を見誤るということである。水俣病はむろん道子の生の核心であり、「正体を見誤る」というのは言い過ぎとしても、常に水俣病に収斂する読み方をしていれば、石牟礼文学の豊かな可能性の芽を摘むことになりかねない。ではどんな読み方ができるのか。たとえば、普通に生きることができない人に石牟礼文学は向いている。
「普通に生きることができない人」というのは私自身のことを言ってみたのである。以下のような文章に出合うと、自分のことが書かれていると思わないだろうか。

 たとえば私は、無理矢理自分を洞穴にとじこめ、愛に隔絶された囚人のように思っている。歯が生え髪が生えた闇とまとわりつく羊水、岩に耳をあてながら、三十年も人間の声をききたいと希ってきた(中略)ひとりはこわい。ぼとぼととのぼる気泡のような、ひとりの言葉はつながらない。ひとりの言葉を無理してつむぐ。見たことのない岩壁の向うの囚人たちに語りかける。私の言葉は言葉になっているのだろうか》(「愛情論初稿」)

 何にも結びついたことのない魂の一方の極、そしてまたしても母たちの埋没しつづけた愛、ふたつの極の間で私はうろうろし、子であり兄弟であるということは、わたしはあなたであり、あなたはわたしであるというわたしたち。こんなたくさんのわたしを、ひとり残らずひっとらえて串ざしすれば、どんな悲鳴をあげるのかきいてみたいもんだ!(同)

 1958~59年ごろの文章だ。石牟礼さんは30代前半である。『苦海浄土 わが水俣病』はまだ書かれていない。


 石牟礼さんは「社会正義を実現しようとした活動家」というよりも、自身の生きづらさ、身の置き所のなさが水俣病の被害者たちと共鳴していて、だからこそ、上から目線ではない支援を続けてこられたのかもしれません。
 そして、『苦海浄土』は、石牟礼さんの一面でしかない。

 1966年晩秋、森の家から熊本に帰った道子は、(夫の)弘に別れ話を切り出した。息子の道生は「お父さんがかわいそう」と母をなじった。父は母の仕事のよき理解・協力者であり、母不在の家をしっかり守っている。それなのになぜ別れなければならないのか。
 道子は森の家で高群逸枝の深甚な影響を受け、「女性史を書きたい」と痛切に思った。「勉強したい、家を出たい」と考えた。熊本市で就職したかった。バーかキャバレーに行こうと思った。キャバレーの求人ポスターには「麗人募集」と書いてある。「私は麗人じゃないからだめだ」とキャバレー勤務を断念した、という笑い話のようなエピソードがある。別れ話は立ち消えになった。


 ちなみに、『苦海浄土』は、「記録文学」と分類されることが多いけれど、実際は患者の声そのままを記録したものではないのだそうです。

 盟友の渡辺京二が書く。1972年12月刊行の『苦海浄土 わが水俣病』文庫版解説である。「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」という道子の言葉を紹介するなどして道子の「方法論」の一端を明かし、「『苦海浄土』は石牟礼道子私小説である」と断じた渡辺の解説は、読書界の見方を一変させた。
 苦海浄土誕生に立ち会った渡辺の文章は道子になり代わって弁じたかのような勁(つよ)い説得力があったのだ。しかし、読者を全員納得させることは至難の業である。患者の語りがそのまま記されたかのような迫真性に満ちた『苦海浄土 わが水俣病』は、現在でも、「聞き書き」「ノンフィクション」と括られてしまうことがままあるのだ。
「世の中の大多数の人は、裁判の過程に関する報告のようなルポルタージュ的なところだけしか読まずに、ノンフィクションだと言ってきた。そうではありません。ノンフィクション的なところと、創作の部分と、データと、いくつかの要素を合わせて『苦海浄土』はつくってある。その肝心なところを多くの読者は読み切れなかった」
 作家の池澤夏樹は明快に語る。


 僕も、『苦海浄土』を「ノンフィクション」だと思って読んでいたので、「そうだったのか……」と驚いたのです。
 その「いくつかの要素が入り混じったところ」が、『苦海浄土』を池澤さんが「世界文学」として評価している理由のひとつでもあるのでしょう。

 道子は2004年、新作能「不知火」についてインタビューに応じている。「石牟礼さんにとって『渚』とはどんな意味を持つのでしょうか」と問われ、「私にとって、たまたま渚で、ということではないんです。渚でないといけない」と述べている。
「浜辺に立ちますと、目に見えるものもですが、目に見えないものたちの気配もいっぱいみちみちています。それらが混ざり合って浜辺は『生命たちの揺籠』というか、生まれたものもですが、未だ生まれない『未生のものたちの世界』でもあるように思います。子供でもそういう気がするんですよ。そしてそういう気配の中に自分が、その真ん中にではないですが、そのどこかに気配の一つとなって呼吸している自分もいる。そういう気配たちとの魂の交歓のような中で育ったというか、育ててもらったような気がします」(「地上的な一切の、極相の中で」)


 この本を読むと、石牟礼さんという人を『苦海浄土』だけで語るべきではないと思えてくるのです。
 では、どう言えばいいのか、と考えてみるのですが、なかなか簡単には言葉にできない。この世界と異界のあいだにいる人、とか……

 石牟礼道子という人、あるいは「作家という人間というもの」について興味があれば、読んでみて損はしない評伝だと思います。僕の率直な感想は「石牟礼道子の夫であるのは苦しかっただろうな」なのですけど。


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