琥珀色の戯言

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文才がなくても書ける小説講座 ☆☆☆


文才がなくても書ける小説講座 (ソフトバンク新書)

文才がなくても書ける小説講座 (ソフトバンク新書)

内容紹介
書き出せないあなたの背中を押す一冊
小説を書くことは特別な営みなんかじゃない。『800字を書く力』の著者が、「書いたことないけど死ぬ前に一遍くらいは小説を書いてみたい」と願う人、「書きたいけど書けない」と悩む人へ向けて、目からウロコの実践的小説作法を説く。

小説は、文章の才能に恵まれた一部の人の特別な営みではない。
書くことの本質は「情報の不足を埋める行為」であり、こと小説においても、大切なのは「情緒」や「感性」より「論理」である。
文才とは先天的に備わっているものではない。書きたいこと、書くべきことは書きながら発見していくものなのである。

「書き方がわからない」「書くべきことがない」「文才がない」などとあきらめてしまう人は「書けない人」ではなく「書かない人」なのだ。

本書では、現役の高校教師として、国語教育に創作活動を取り入れることを提唱する著者が、
「書く力」を身につける原点としての小説作法をわかりやすく解説する。

僕はこういう「小説の書き方」の本がけっこう好きで、書店でみかけたら必ず手にとってみるのですが、この本は、いままで読んだ類書のなかでは、もっとも「敷居が低い」のではないかと思います。
著者は高校の先生なので、「ごく一般的な高校生にまとまった文章を書かせてみるには」というアプローチがされています。
こういう本でありがちな、「精神論」に頼らない姿勢には好感が持てました。

「書き出し」を指定して、授業の「課題」にするだけで、多くの高校生がそれなりの「作品」を書けるということには、僕もちょっと驚いたんですよね。
みんな、その気にさえなれば、けっこう立派なものが書けるんだな、って。
ただし、逆に考えると、大部分のいわゆる「小説家志望者」にとっての「小説を書こうという意志」は、「けっして国語好きではない高校生が、学校の課題として『作文』を書かされる場合」にも及ばない、ということも言えそうです。
要するに、みんなそこまで切実に「書きたい」「書かなければならない」というわけではない。それこそ、「学校の宿題以下」のモチベーションしかない。
だから、「書けない」。

 小説の広告などには「私はこれを書くために小説家になった!」といった言葉が躍って、そのたびに私たちは打ちのめされた気になります。生涯を懸けてでも書きたいことなどない自分は、小説家になる資質を持たないばかりか、人間としても浅薄なのだ。そんなふうに思ってしまうのです。
 しかし、こうしたもの言いを信じてはいけません。書きたいことなどない。これはプロの作家も同じです。
 では、どうして「私はこれを書くために小説家になった!」という言葉は生まれたのでしょう。本を売る側の方便、文字通り客を掴むためのおキャッチコピーだ、と言ってしまえばそれまでですが、強いて書き手の立場に立つなら、これは歓喜の声にほかなりません。
 <書いたら書けた!>
 <壮大なテーマが発見された!>
 <そうか私はこれを書くために今日までがんばってきたのか!>
 そうやって彼らは事後的に自らを祝福しているのです。

(中略)

 書くことによって、書きたいことが見えてくる。予定しなかった世界が開けていく。これは書くことの第一の喜びだと言いましたが、じつは小説家はそのことをよく知っている人たちなのです。
 書きたいことがあるかないかは、本当はそれほど重要な問いではないのです。

 おそらく、この新書に書いてあるとおりにすれば、誰でも少しまとまった文章を書けるようになるとは思うのです。
 ただ、僕はここで指導されているのは、あくまでも「作文」であって、「小説」」ではないと感じました。
 「作文」と「小説」の辞書的な定義の違いは知りませんが、これを参考にしても、「他人が(お金を払って)読んでくれる文章」にはなりそうもありません。
 「プロの小説」って、ある意味、「私はこれを書くために小説家になった!」っていう大風呂敷に、いかに説得力をもたせるか、っていう「フェイク」が大事なんじゃないかと。

 とてもわかりやすくて実践的な「文章講座」なのですが、これを読み終えて、僕は自分自身に問いかけずにはいられませんでした。
「それでお前は、『小説を書きたい』のか、それとも『小説を書くことによって有名になったり、金を稼いだりしたい』のか?」

 100%前者だったら、もっと書けそうなんだけどなあ……


書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

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「商業小説」を書きたい人は、↑くらいは読んでおいて損はないと思います。

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