琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】目的への抵抗 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスアガンベンアーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。


 うーむ、「哲学講話」か……なんか難しそうだけど、Amazonの新書ランキングでけっこう売れているんだよなあ……他に食指が動く新書も見つからないし……

 みたいな感じで手にとった(実際はKindle版を買った)のですが、大学での講義(講話)がもとになっているだけあって、読みやすくて、面白い本でした。
 なんとなく日常に流されて生きているなかで、あらためて「自分がいま居る場所」について考えるきっかけにもなりました。


 ソクラテスやカントなどの「哲学」を、もっと頭が柔らかくて時間がある若い頃に読んでおけばよかった、と中年になってから、つくづく感じているのです。
 でも、僕自身が「読んでおくべき」だったと思った年齢では、そういう本にはまったく興味が持てず、サブカルチャー関連やSF、マイコン雑誌ばっかり読んでいたんですよね。
 たぶん、読書というのはそういうもので、だからこそ、学校の授業とか大学の講義には存在意義があるのかもしれません。


 著者は、「はじめに」の冒頭で、こう述べています。

 自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。
 本書に描かれているのはこの暫定的な結論へと辿り着く過程である。しかし、このように結論が最初に書いてあっても、読者はそれを読んだだけでは納得できないに違いない。哲学の書物には序文を書くことができない。


 哲学では、この「思考のプロセス」が重視されているのです。というか、結論を聞いただけでは、何が何だか、という感じです。
 なんでも「3行でお願い」とか言われてしまう昨今では流行らないのかもしれないけれど。

「生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?」(ジョルジョ・アガンベン『私たちはどこにいるのか?──政治としてのエピデミック』)

 著者は、このイタリアの哲学者、アガンベンさんの授業を実際に受け、その後、他の受講生たちと一緒に飲みに行ったこともあるそうです。「とても面白くて感じのいい人だった」とのことです。
 そのアガンベンさんが、コロナ危機の渦中の2020年2月にイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に寄稿した文章が、大炎上してしまったのです。

 アガンベンさんは、当時のさまざまな新型コロナウイルスに関するデータを踏まえた上で、死者の埋葬が許されず、移動の自由が制限される社会への危機感を訴えているのです。

 権力は「例外状態」あるいは「緊急事態」というものを巧妙に利用して、民主主義をないがしろにしたり、人々の権利を侵害していくことがある。たとえば、ここ20年ぐらいはずっとテロリズムが緊急事態を宣言するための常套手段だった。我々はテロリズムとの闘いという緊急事態の中にいるのだから、例外的な措置も仕方がないというわけです。言い換えれば、テロリズムが我々の自由を脅かしているのだから、自由を守るために、我々は自分たちの自由が制限される緊急事態を受け入れねばならない、と。
 このような論法に対するアガンベンの問題提起は極めてシンプルです。自由を守るために自由を制限しなければならない──そんな矛盾が受け入れられるだろうか、というものです。

(中略)

 これに更に次のような疑問も付け加わります。そもそもそうやって制限された自由は、結局、元に戻らないのではないか。緊急事態が明けてしばらくすれば元の状態に戻ると言われている。けれども、制限された権利、あるいはその中で強いられた社会のあり方は、緊急事態が撤回されても元には戻らないのではないか。


 この論考で、アガンベンさんは、医療関係者、政治家だけでなく、哲学者たちにも強く批判されたのです。
 「感染拡大を防ぐためには、人々の命を救うためには、ある程度の『制限』はやむをえない」「いまは、他者との接触を極力減らすことが大事、耐える時期だ」と、世界中で多くの人が訴えているなかで、有名な哲学者がこんなことを言えば「ひどい逆張りだ!」と炎上しますよね。


 アガンベンさんが、この次に発表した論考の一節を著者は紹介しています。

死者──我々の死者──が葬儀の権利をもたない。大切な者たちの遺体がどうなるのかも分からない。我々の隣人なるものが抹消されつつあるのであって、このことについて教会が黙ったままであるのは奇妙なことだ。誰もいつまで続くか分からないこのような生き方に慣れきってしまった国で、人間の関係はどうなってしまうのだろうか? そして生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?

 いま、生きている人たちが「生存しつづけるため」に、死者の葬儀や移動の自由という「人間が積み重ねてきた文化や自由」が失われることが許されてもいいのか?
 いや、緊急事態だから仕方がないとしても、それに対して、誰もが疑問を持たず、唯々諾々と従う社会は、これからも「生命を守るため」というような「大義」があれば、自由を制限されることを受け入れてしまうのではないか?


 ただし、著者は、こう述べてもいるのです。

 しかし、言うまでもなく、ここには危険があります。「人間が単に生存することよりも価値があるもの」と言った瞬間、我々は危険を感じますし、感じなければなりません。20世紀を経験した我々は、人間が大義とみなされたもののために死ぬことを強制された事実を知っています。それには何としても対抗しなければならない。そんなことがあってはなりません。けれども、だからといって、生存のみを価値として認める社会が当然のこととして受け入れられてしまってよいのか。アガンベンは今指摘した危険のすぐ脇でものを考えています。というか、ものを考えるということはしばしば危険と隣り合わせであり、もしかしたら、何事かを考えていると言えるのは、考えることの危険に向き合った時であるとすら言えるのかもしれません。


 著者はプラトンの『ソクラテスの弁明』のなかから、ソクラテスが語った(とされる)一節を紹介しています。

 わたしは、何のことはない、少し滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに付着させられているものなのだ。それはちょうど、ここに一匹の馬があるとして、これは素性のよい、大きな馬なのだが、大きいために、かえって普通よりにぶいところがあって、目をさましているのには、なにか虻のようなものが必要だという、そういう場合に当たるのです。つまり神は、わたしをちょうどその虻のようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです。


 東ドイツに生まれ、「旅行や移動の自由」の大切さを体験してきたドイツのメルケル首相が、国民に「行動制限」を呼びかけた演説は多くの人の心を揺さぶりました。
 著者は、メルケル首相は政治家としての役割を果たすために国民に訴え、アガンベンさんは哲学者がこの時代にやるべきことをやったのだ、と述べています。

 「行政」は、さまざまな「法の解釈」を行なうことが可能であり、それは、社会生活をスムースに運営していくためにやむを得ない場合も多いのだけれど、その「解釈の暴走」をチェックする機能は必要なのです。


 僕自身、医者として数々のコロナ禍での死を看取ってきました。
 「感染予防のための面会制限で、病棟への外部からの立ち入りができなくなり、家族の心臓が止まっていくときもその場にいることができない」
 そんな状況を、患者さんの家族は受け入れてくれるのだろうか?

 僕のそんな不安は、杞憂に終わりました。
 もちろん、それぞれの家族に不安や不満はあったのでしょうけど、「死に際にも会えないこと」に強く抗議したり、無理矢理病室に入ってきたりする人は、ひとりもいなかったのです。
 僕が幸運だっただけなのかもしれませんし、医療者としては「やむをえないこと」だと理解していますが、心の片隅に「人というのは、それなりの『理由』があれば、ふだんは絶対にありえなかったことでも、案外あっさりと受け入れることができるのかもしれないな」という感情も残ったのです。
 平時には、ひとりの「遺体」を連れて帰るために、多くの人手やお金を使うことを厭わないのに、戦争になれば、何も入っていない骨壺が送られてきて「戦死」を告げられるのが「あたりまえ」になってしまう。

 著者によると、日本の学生にこのアガンベンさんの論考を講義で話すと、反発はほとんどなく、「そういう意見があるのはわかる」と受け入れていたそうです。
 いやまあ、著者の勤務先は東京大学ですし、リベラルなインテリ層だから、そういう反応だったのだ、という可能性はありますが。


 この本のなかで僕の印象に残ったのは、「早稲田大学政治経済学部に入ったのに、自分が興味を持てることをやっていたら、いつのまにか哲学者になっていた」という著者のこんな「若者たちへのメッセージ」でした。

 僕がよく学生に言っているのは、とりあえずまずは目の前にある短期的な課題に一生懸命に取り組みなさいということです。将来のことは不安です。不安ですけれども、だからといって定期試験の勉強をしないのはよくない。明日の学校の授業に真面目に取り組まないのもよくない。
 その上で、自分の人生においてものすごく遠くにあること、将来についてのものすごく漠然としたことを、何となくでいいので考えておいたらいい。曖昧でよいのです。「世の中をよくしたい」とか、「何でもいいから大発見をしたい」とか、「人間とは何かを考えたい」とか、具体的には何を指しているのかがよく分からないことでもいいから、自分の中にあるボンヤリとした関心事、すごく遠くにあることを大切にする。
 つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこんな話をするかというと、その間にある中間的な領域のことはなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういったことはなかなか思い通りにはなりません。ですからそこに目標を置いてしまうととても苦しいことになる。でも、来週の定期試験の勉強はできますよね。また、「何でもいいんだけど、何か世の中をよくすることをしたいな」とかボンヤリ考えることもできます。

 この「中間的な領域のことはなかなか思い通りにならない」っていうのは、確かにそうだなあ、と思いました。

 ものすごくシンプルに言うと「ああ、こういう考え方も『有り』なんだな」と、視野が広がったような気がする新書です。


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