今ここを生きる勇気: 老・病・死と向き合うための哲学講義 (NHK出版新書)
- 作者:一郎, 岸見
- 発売日: 2020/05/11
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
ベストセラー『嫌われる勇気』の著者が、「老・病・死」にまつわる自らの体験を軸に、「今ここ」に目を向けて、一瞬一瞬を真剣に生き切ることの大切さを説く。NHK文化センター講座「よく生きるための哲学」に“幻の第6回講義”を加え、受講生の質疑応答も付した、著者初の講義型の新書!
大ベストセラーとなった『嫌われる勇気』が上梓されたのは、2013年12月のことでした。
僕も読んだのですが、「言いたいことはよくわかるのだが、ここに書かれていることを実行するのは自分には難しいな」というのが率直な感想でした。
この本があれだけ売れたにもかかわらず、身の回りで「アドラーの(あるいは『嫌われる勇気』の)おかげで幸せになれた」という人は知りませんし。
そういうのは、「ドラッカーが流行っても、日本の経営者が急に優秀になったわけではない」のと同じなのかもしれませんが。
この本は、『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎さんが、NHK文化センター京都教室で行った講義をまとめたものです。「老・病・死」といった苦難に満ちた人生をどう生きていくかを、「哲学」を通じて考えていく、というのが、全体的なテーマとなっています。
著者は、講義の最初に、自らの体験を話しています。
私はずいぶん回り道していたので、大学院に入ったのは25歳の時でした。ところが、その年、母が突然脳梗塞で倒れました。母が病気で倒れた時に父は仕事をしていましたし、妹は結婚して家にいなかったので、学生だった私が母の看病をすることになりました。
当時、私はある大学の先生の自宅で行われていたプラトンの読書会に毎週参加していました。看病のためにしばらく読書会に行けないことを報告しようと思って、先生に電話をしたところ、先生はこんなことをいわれました。
「こんな時にこそ役に立つのが哲学だ」
私はひどく驚きました。「役に立つ」という言葉が哲学についていわれるとは思っていなかったからです。
なぜ先生は、哲学はこういう時にこそ役に立つといわれたのか。母はやがて意識を失って病院のベッドで身動きが取れなくなりました。その時に、もしも私が哲学を学んでいなかったら、ただただ絶望するだけだったかもしれないのに、哲学を学んでいたおかげで、冷静に現実に向き合うことができたのです。 こんなふうに身体が動かせなくなって、さらには意識もなくなった時に、はたして生きる価値があるのかどうか。人生の意味は何か。そのようなことを、母の病床で一生懸命考えました。
いろんなことがうまくいっているときには、哲学というのは、忘れられがちな存在なのかもしれません。
「哲学的な考え方」というのも、本を読めば「なるほど」と思うのだけれど、実際に意識のない母親にずっと付き添っていると「それでも生きていてほしい」というのと「この状態で、生命活動を続けているというのは、本人もつらいのではないか」というのが入り混じってくるし、自分自身の生活のことも頭に浮かんでくると思います。
この講義で、こんな質疑応答がありました。
──最初のほうでは哲学は具体的に考えて想像力を働かせることだという話があり、他方、経験則からだけでは学べないという話があったと思います。人は困難にぶつかった時に、今までやってきたことを基準にしてどう対処しようか決めると思うのですが、そういう時に哲学をどう活かせばいいでしょうか。
岸見一郎:苦しいことから脱却しようと思って本を読んだり人から話を聞いたりすることがあります。その時には自分自身の考えを持っていないので、誰から何をいわれても、なるほどと思ってしまいます。
でも、そんな時こそ、自分が正しいと思った考え方が唯一絶対ではなく、本当なのかと疑うことは大切です。経験則で学んだこともそれが間違っていると認めることはなかなかできません。
人生も同じです。一度やり始めたことを途中でやめて、違うことを始めるのは難しい。それまでにかけた時間、エネルギー、お金を思うと新しい人生を踏み出すことには勇気がいります。自分の人生を生きていないかもしれないと思った時には違う人生に踏み出す勇気が必要です。そのような決断ができるために、自分を客観視できる冷静さが必要です。それを可能にするのが哲学だと私は考えています。
最初のほうで母の看病していた時の話をしましたが、哲学を知らなかったら、不幸の火中でただつらい思いをしていただけかもしれません。少しずつつ死んでいく母の病床で過ごすことはつらかったですが、病床で過ごすというような経験は求めてもなかなかできるものではないと思えたのは哲学を学んでいたからです。「こんな時に役に立つのが哲学だ」という私の先生の言葉の意味がわかりました。
だから、哲学は、自分はただただつらい現実を送っていると感じている人に、自分だけどうしてこんな目に遭わないといけないのだというような不平をいうことを思いとどまらせる力を持っていると思います。
つらい状況でも、考え方を変えれば、違う風景がみえてくる。
先入観や固定観念にとらわれ、視野が狭くなってしまうことって、よくありますよね。
そういうときに、自分の置かれた状況を客観視し、「こういう考え方もあるんじゃない?」と教えてくれるのが「哲学」なのです。
だから、どの哲学が正しいとか間違っている、というのではなくて、「自分が正しいと思った考え方が唯一絶対ではない」ということを意識させてくれるのが「哲学の効用」なのでしょう。
著者は「病気になって学んだこと」として、こんな話をしています。
私が心筋梗塞で倒れる直前に、友人からある大学の教授になったという葉書が届きました。私は在野で研究を続けていて、それを自分で選んだはずでした。にもかかわらず、彼に先を越されたと思い、心が少しざわつきました。
そして入院した時に、その葉書のことを思い出し、ベッドで身を起こせるようになったので、彼に「こんな状態で社会復帰ができるまでどのくらいかかるかわからないけれど、今は仕事のことなど考えないで療養するしかありません。忙しそうですが、くれぐれも身体に無理をされませんように」とメールを送りました。
その日の夜、私は夢を見ました。そこに彼が出てきたのです。私は彼に「よかったね。おめでとう」といいました。すると、彼はこういいました。「本当は、君はそんなことをいうつもりはないのだろうね」
しかし、現実の彼は忙しい中で、遠方にいる私の見舞いにきてくれました。彼の就職を素直に喜べなかった私は恥ずかしくなり、彼の顔を見た途端、号泣してしまいました。私は病気になったことで初めて、その友人が自分を大事に思ってくれていることがわかったのです。
こういうことって、あるよなあ、と思いながら読みました。
実際、病気になったり、苦境に陥ったりしたときに、人間関係って再構築されますよね。
今まで「親しい友だち」だと思っていた人から冷淡な態度をとられることもあるし、著者のように「こちら側からは、そんなに優先順位の高くなかった友人」が親身になって支えてくれることもあるのです。
人を見る目って、案外、たいしたことがない。
世の中には、困った人を助けずにはいられない人がいて、相手との関係性の濃淡に関わらず、助けてくれる場合もあるのですが。
──第3回の講義の中で人には仲間と敵がいるのではなく、すべての人は仲間であるとアドラーが考えていたという話がありましたが、これなどはあまりにも理想主義的ではないでしょうか。
岸見:理想は現実とは違うので、理想なのです。現状をただ追認する、つまり、現実はこうなのだといっているだけでは、この世界をよりよいものにしていくことはできません。現実主義は現実を説明することに終始し、現実を変える力はありません。理想を掲げることで、初めてそれに近づくことができるのです。
僕は、この言葉を読んで、なんだか腑に落ちたような気がしたのです。僕もずっと、アドラーや岸見さんに対して「そんなふうに考えられたら苦労しないよ」と思っていたのです。
岸見さんも、前述の教授になった友人の話を読むと、けっして「悟りきった人」ではない。
だからこそ、「理想」を掲げ、それを追い続けているのです。
僕のような「哲学さえ盲信できない俗物」にこそ、哲学は必要なのかもしれませんね。
少なくとも、自分を客観視する手がかりにはなるだろうし。
- 作者:岸見 一郎
- 発売日: 2019/10/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)