琥珀色の戯言

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【読書感想】現代思想入門 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

人生を変える哲学が、ここにある――。
現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした、「入門書」の決定版。

* *

デリダドゥルーズフーコーラカン、メイヤスー……
複雑な世界の現実を高解像度で捉え、人生をハックする、「現代思想」のパースペクティブ

□物事を二項対立で捉えない
□人生のリアリティはグレーゾーンに宿る
□秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておく
□権力は「下」からやってくる
□搾取されている自分の力を、より自律的に用いる方法を考える
□自分の成り立ちを偶然性へと開き、状況を必然的なものと捉えない
□人間は過剰なエネルギーの解放と有限化の二重のドラマを生きている
□無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組む
□大きな謎に悩むよりも、人生の世俗的な深さを生きる

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。」 ――「はじめに 今なぜ現代思想か」より


 そもそも、「現代思想」って何なんだ?
 「いまの学界で流行っている思想大全」みたいなものを紹介している本なの?
 というレベルの理解度+AmazonKindle本(新書)ランキングで上位にランクインしていたので、手にとって(購入し、ダウンロードして)みました。

 ここで言う「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しています。フランスを中心としたものなのですが、日本ではしばしば、それが「現代思想」と呼ばれてきました。
 本書では、その代表者として三人を挙げたいと思います。
 ジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーです。
 他にジャック・ラカンやカンタン・メイヤスーなどにも触れることになりますが、この本ではとにかくデリダドゥルーズフーコーという三つ巴をざっくり押さえます。この三人で現代思想のイメージがつかめる! それが本書の方針です。
 では、今なぜ現代思想を学ぶのか。
 どんなメリットがあるのか?
 現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。


 デリダドゥルーズフーコー……名前は聞いたことがあるけれど、彼らの「思想」については、断片的なイメージしか持っていなかった僕にとっては、まさに「最適な入門書」だったのです。
 
 正直、今の世の中で、「哲学」、それも、少し前の時代に大流行したものについて学ぶ、考えることに、意義があるのだろうか、と僕は思いながら読み始めたのです。
 でも、読んでいくうちに、今の時代、インターネットによる新しい監視社会が成り立ちつつあるからこそ、この「現代思想」をざっくりとても知っておくことは大事ではないか、と思うようになりました。。

 著者は、「今なぜ現代思想なのか」について、冒頭でこう説明しています。

 大きく言って、現代では「きちんとする」方向へといろんな改革が進んでいます。これは僕の意見ですが、それによって生活がより窮屈になっていると感じます。
 きちんとする、ちゃんとしなければならない。すなわち、秩序化です。
 秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。企業では「コンプライアンス」を意識するようになりました。のみならず、我々は個人の生活においても、広い意味でコンプライアンス的な意識を持つようになったというか、何かと文句を言われないようにビクビクする生き方になってきていないでしょうか。今よりも「雑」だった時代の習慣を切り捨てることが必要な面もあるでしょう。しかし改革の刃は、自分たちを傷つけることにもなっていないでしょうか。


(中略)


 物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。
 そこで、現代思想なのです。
 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
 人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。そのなかで、20世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。


 「哲学」というと、難しくて、現実とは乖離したもののように思いがちなのですが、この本を読むと、「効率」とか「生産性」にばかりを目指している「イエスかノーかで答えろ」「代案のない反対は無意味だ」という社会への警鐘は、インターネットが発明され、世に出るよりもずっと前から、哲学者たちによって鳴らされていたのです。

 なるほど、内田樹先生は、「サヨク」だから橋下さんや大阪維新の会のやることなすこと反対していたというよりは、現代思想を学び、教えてきた人間として、なんでも二項対立にして、敵対者を問答無用で切り捨てるような政治に反対していたのだなあ。
(と、ご本人が仰っていたわけではなくて、僕がこの『現代思想入門』を読んで、そう思っただけなのですが)

 有名な「盗んだバイクで走り出す」という歌詞がありますが、あれはかつて、がんじ搦めの社会秩序の「外」に出ていくという解放的なイメージで捉えられていました。ところが今日では、「他人に迷惑をかけるなんてありえない」という捉え方がけっこう本気で言われているようです。そういう解釈は当時は冗談だったのですが。
 今日では、秩序維持、安心・安全の確保が主な関心になっていて、以前のように「外」に向かっていく運動がそう単純には言祝がれなくなっています。
 そういう状況に対して僕は、さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当にユートピアなのかという疑いを持ってもらいたいと思っています。というのも、それは戦時中のファシズムに似ているからです。


 「監視社会化」が進んでいけば、街でヤンキーにからまれたり、煽り運転で命を落としたりしなくても済む社会になるのではないか、と僕自身は「期待」もしているのです。
 その一方で、中国がウイグルでやっているような「国家による民族の監視」には恐怖感しかありません。
 
 ただ、この本を読むと、「現代思想」は、無秩序や混沌をひたすら肯定しているわけではなくて、「正しすぎる、秩序が個人を押しつぶそうとする社会」と「安全・安心」、そして「人間がムダなことやバカバカしいことをするのが許される世界」の均衡をとろうとしているのではないか、と感じるのです。

 では、現代思想の代表的三人、デリダドゥルーズ、、フーコーをどう扱うか。
 三者には共通の問題があったと捉えることにします。異論もあるかもしれませんが、デリダに主導権を持たせると話の見通しが良くなると思うので、そうしてみます。
 とくにデリダのテーマなのですが、三人に共通することとして言えるのは「二項対立の脱構築」だと思います。本書を通して、読者の皆さんには「脱構築的」な考え方を身につけてもらうことになります。脱構築は、英語ではディコンストラクション(deconstruction)という単語です。フランス語では、アクセント記号がついて、デコンストルクシオンと発音します。これはデリダの用語であり、ドゥルーズフーコーはこの言葉を使っていませんが、本書ではドゥルーズフーコーにも「脱構築的な考え方がある」というふうに解釈することにします。
 脱構築とはどういうものかは第一章で説明しますが、ここで簡単に言っておくなら、物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということです。
 とにかく我々は物事を対立で捉えざるをえません。善と悪、安心と不安、健康と不健康、本質的なものと非本質的なもの(どうでもいいもの)……などなど、私たちが何かを決めるときは、何か二項対立を当てはめ、その「良い」ほうを選ぼうとするものです。
 とはいえ、善と悪という対立で善を選ぶ、健康と不健康の対立で健康を選ぶのは当たり前だと思うかもしれません。これらはプラス/マイナスが常識的に明らかな対立ですが、もっと曖昧なものもあります。自然と文化、身体と精神のような二項対立は、どちらがプラスとも決められないでしょう。ですが、しばしば、どちらかに優位性を与える価値観が主張されます。どちらをとるかで主義が分かれるのです。


 医療を仕事にしている立場としては、健康のためにはタバコはやめるべきだし、カロリーのとりすぎには注意したほうがいい、と説明するのです。
 それでも、高齢者が畑仕事の合間に、タバコをおいしそうにくゆらせているのをみると、「食べたいもの、やりたいことをひたすら我慢しても、人間、200年とか300年生きられるわけでもないんだよなあ」なんて、僕は考えてしまうのです。
 現実には、簡単に正誤を判断できないものばかりだし、一見、単純な選択のようにみえることでも、その選択をする人の背景で答えは変わってきます。


 けっして「読みやすくて簡単な内容」ではないんですよ。
 でも、耳慣れない言葉には、最初だけでなく、久しぶりに出てきた際にも説明が加えられているし、読む側に寄り添って書かれているのを感じるところが多かったのです。
 「このくらい知っているはず」「この専門用語は最初の方で一度出てきて説明したから繰り返すと鬱陶しいよね」と専門家である著者は思いがちなのでしょう。

 読む側は、基礎的なことをほとんど知らないし、読んでいる途中で本を遡って専門用語の意味を確認するのが面倒なんだよ……

 そういう「痒いところに手が届いている入門書」だと思います。
 まあ、それでもやっぱり、難しいし、内容をちゃんと理解している自信もないのだけれど。

 「付録」の「現代思想の読み方」の最初に、著者はこう書いています。

 専門家の立場としては、現代思想の細やかなレトリック(文章の技法)を楽しみ、深く読めるようになってほしいのですが、でもそれより、徹底的にハードルを下げることが最優先だと思います。
 細かいところは飛ばす。一冊を最後まで通読しなくてもいい。読書というのは、必ずしも通読ではありません。哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を熱くしています。プロもそうやって読んできました。 
 そもそも、一冊の本を完璧に読むなどということはありません。改めて考えてみると「本を読んだ」という経験は、実に不完全なものであると気づきます。たとえ最後まで通読しても、細部に至るまで覚えている人はいません。強く言えば、大部分を忘れてしまっていると言っても過言ではない。どんな本でしたかと言われて、思い出して言えるのは大きな「骨組み」であり、あるいは印象に残った細部です。これはプロでも同じことです。不完全な読書であっても読書である、というか、読書はすべてふかんぜんなのです。こうしたことが、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)で真面目に論じられているので、ぜひ読んでみてください。


 単に「知識を得られる」だけでなく、「知らなかったことを知ろうとする愉しみ」を思い出させてくれる、そんな新書だと思います。


fujipon.hatenadiary.com

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