琥珀色の戯言

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【読書感想】旅人の表現術 ☆☆☆

旅人の表現術 (集英社文庫)

旅人の表現術 (集英社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
2010年『空白の五マイル』で、3つの賞に輝き、鮮烈なデビューを飾った角幡唯介氏。その後も、命の危険を顧みず、“雪男”を追ったり、北極へ行ったりと、数々の冒険をこなし、作品を書き続け、多くの賞を受賞している気鋭の冒険作家だ。そんな彼の、様々な雑誌・書籍に掲載された記事、対談、書評をまとめてみました。ノンフィクション界を牽引する「角幡唯介」を丸ごと体験できる珠玉の一冊!


 僕は「インドア派」なのですが、本に関しては、旅行記や冒険・探検記が大好きなのです。冒険家・作家の角幡唯介さんの本も、ずっと読んでいます。
 角幡さんが『空白の五マイル』で注目されてから、もう10年になるんですね。


fujipon.hatenadiary.com


 この文庫は、雑誌に掲載された角幡さんの対談記事や単行本・文庫本の解説を集めた雑文集で、単行本は2016年に上梓されています。
 単行本が出たときに僕が読んでいなかったのは、気付かなかったからなのか、それとも、「雑文集」だからスルーしてしまったのか。
 角幡さんは、命をかけた冒険をしながら、「冒険・探検とは何か」というような「理論」をつねに構築しようとしている人なのですが、「冒険」抜きで、その「理念」の部分だけを読むのはけっこうめんどくさいな、と思いながら読みました。

 開高健さんの作品への書評や沢木耕太郎さん、増田俊也さんとの対談など、「ノンフィクションとはどういうものなのか」について考察されているところも多々あります。


 沢木耕太郎さんとの対談より。

沢木耕太郎あるとき、登山家の山野井泰史さんと公開対談というようなことをしたことがあって、探検と冒険とはどう違うんだろうという話になったことがあったんです。角幡さんはどう考えていますか?


角幡唯介僕は探検は、冒険の一種だと思っています。冒険というのは、個人的な行為です。これは本多勝一さんが言っていたことですが、主体性があって、生命の危機にかかわる行為であれば、それは冒険だと。基本的にはその通りだと思います。探検はそれに、未知の部分が加わる。自分にとってではなくて社会にとっての未知。やっぱり危険を冒して未知のことを確かめるという要素がないと探検じゃないと思う。探検にも身体的なリスク、つまり冒険であるという要素は必要だと思っています。そうじゃないと、すべてのフィールドワークが探検ということになってしまいますから。建設工事の際に出てきた遺跡の発掘が探検かというと、やはりそれは探検じゃなくて調査です。


沢木:どっちが正しいというわけではないけれど、僕は、探検と冒険を区別するのは、たった一点だと思う。探検はアウトプットを必要とする。冒険はアウトプットを最終的な目的としない。それがたとえスポンサーの王族への口頭による報告でもいいし、自然科学や社会科学の学会への報告書でもいい。プラントハンター(植物採集者)が新種のプラントを持って帰るということを含めて、アウトプットが必要とされるのが探検だと思う。冒険というものは個人的に充足すればいいので、極端なことを言えば、そこで死んでしまってもかまわないけど、探検は帰ってこなくてはならない。


 こういう「冒険・探検とは何か」みたいな話が、この本のなかでは繰り広げられているのです。
 現代では、「地図上の空白地帯」がほとんどなくなってしまっていることもあって、「未知の場所に行く」という探検は難しくなってきました。
 それゆえに、「ある行為を冒険・探検だと定義するための理論武装」が必要となってきているのです。
 写真が誰にでも撮れるようになった時代の「現代アート」みたいなものかもしれません。


 作家の鈴木涼美さんとの対談のなかでのこんな話も印象的でした。

角幡:いやあ、(鈴木さんは)激しい生き方をしてるなあって思います。


鈴木:激しくなんかないですよ。私、山で死にかけたりしてませんし。


角幡:男の悪い癖なのかもしれないけれど、僕なんかも誰かの経験談とか読むと、すぐ「スゴイな、俺にはできないな」って考えるんです。この間、山形県のとある寺にある即身仏についての新聞記事を読んで笑っちゃったんですけど、女の人は即身仏を見て「優しい顔ですね」って言うらしいんです。男はそこで「俺にはできない」って言う。即身仏と比べたら失礼だろうとは思うんですけど、なんとなく分かるんですよね。僕も鈴木さんの本を読んで「俺にはできない」と思いました。


鈴木:そうですかねえ。


角幡:僕の本を読んだ人のレビューにも、「俺にはできない」って結構書いてあるんですけど。ああいうの結構、腹立つんですよね。こっちが命懸けてやっているんだから、お前なんかと比較されたくないよって。


 そうか、どんなすごい経験に対しても、「自分にはできないな」と考えてしまうのは、男の思考パターンなのか……
 僕も、まず、「自分にできるか」派なので、「女性はそういう基準で考えない人が多いのだろうか」と意外に感じたのです。
 
 
 最近の角幡さんは、この本に収められている時代とは、だいぶ考え方、冒険に対するスタンスが変わってきた、と2020年に書かれた「文庫版あとがき」では述べられています。

 無論、私は今も探検家という肩書で活動・執筆しており、今年も1月から北極圏で活動しているわけで、その意味では一見、やっていることは変わらないように見えるかもしれない。しかし探検や冒険にたいする距離感や態度といった内面的な部分が、三十代のころとくらべて全然ちがうのだ。
 とにかく当時は、現代社会の日常生活では死を感じることができず、そこにはリアルな生もない、だから生を感じるには死のある自然のなかで冒険でもするしかない、という論理につらぬかれており、他人の本を読みとくにも、自分の文章を書くにも、同じことの一点張りだ。今よりダイレクトに探検や冒険というものにむきあっており、それがこのような思考を形成していたのだろう。
 だが、今は死という要素をもとめて旅に出ることは、まったくない。年々、活動のスケールは大きくなっており、極地や山岳地で長期間孤絶して活動することは必然的に危険をともなうことでもあるので、死ぬことがあるかもしれないという覚悟はある。だが、死を感じることができなければ活動として不完全だ、という意識は皆無となっている。つまり死への接近をもとめている、もとめていないという点で決定的にちがうわけだ。
 また、今の私のテーマは探検をつうじて人間の原型や生の始原を理解することである。生の追求という意味では変わらないように思えるかもしれないが、死という観点からそれを見つめるのではなく、自然と深い関係をむすぶことでそれを把握したいと思っており、やはりその点も変わっている。
 どうやらどこかの時点で、私は個人的な生の追求から、万人にあてはまる普遍的な生の追求に軸足をうつしたようだ。今は探検を、普遍的生を理解するための研究手段というふうにみなしているフシがある。だから同じようで、やはり全然ちがうのである。


 「生き急いでいる(あるいは、死に急いでいる)」ように思えた、デビュー当時の角幡さんも、年齢や経験を重ねることによって、変わってきたのだなあ、と感慨深いものがありました。
 角幡さん自身も、以前(といっても10年も前ではないのだけれど)の文章を読んで、余裕のなさと、生きることに切実に向き合っていたことに、複雑な気分になったと仰っています。
 僕は、こういうのが、人間が「成熟する」ということなのだろうなあ、と思いながらこの文章を読みました。
 あのヒリヒリする感じが失われてしまうのは、一読者としては寂しいところもあるのですが、角幡さんは、若いうちにしかできないことをやりきった、ということなのだと思います。


極夜行 (文春e-book)

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