琥珀色の戯言

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【読書感想】真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

日本の左翼は何を達成し、なぜ失敗したのか?

ーー忘れられた近現代史をたどり、
未来の分岐点に求められる「左翼の思考」を検証する
壮大なプロジェクト。

深刻化する貧困と格差、
忍び寄る戦争の危機、
アメリカで叫ばれる社会主義(ソーシャリズム)。
これらはすべて、【左翼の論点】そのものである!
激怒の時代を生き抜くために、
今こそ「左の教養」を再検討するべき時が来たーー。

◇◇◇◇◇

戦後復興期に、共産党社会党が国民に支持された時代があったことは、
今や忘れられようとしている。
学生運動や過激化する新左翼内ゲバは、
左翼の危険性を歴史に刻印した。
そしてソ連崩壊後、左翼の思考そのものが歴史の遺物として
葬り去られようとしている。

しかし、これだけ格差が深刻化している今、
必ず左翼が論じてきた問題が再浮上してくる。
今こそ、日本近現代史から忘れられた「左翼史」を
検証しなければならない。

「日本の近現代史を通じて登場した様々な左翼政党やそれに関わった人たちの行い、思想について整理する作業を誰かがやっておかなければ日本の左翼の実像が後世に正確な形で伝わらなくなってしまう。私や池上さんは、その作業を行うことができる最後の世代だと思います。」(佐藤優)


 最近、長男が近現代史に興味を持っていて、YouTubeなどで、「ソビエト連邦」に関する動画を見ているのです。

 僕が子ども時代には、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を軸とする社会(共産)主義陣営が世界を二分しており、両者の核戦争で世界が滅ぶ、なんていう想像にも、かなりリアリティがあったんですよね。
 ところが、ソ連ゴルバチョフ書記長の就任から急激に変わっていき、1989年には、ベルリンの壁も崩壊してしまいました。
 いまや、資本主義の「一人勝ち」の状態です。
 しかしながら、社会主義陣営という恐るべき敵がいなくなった資本主義社会では、どんどん格差が拡がっていっています。
 そこでまた、「社会主義共産主義)」が、資本主義国家のなかでクローズアップされ、若者たちがマルクスに魅力を感じるようになってきているのです。

 この本では、池上彰さんと佐藤優さんが、対談形式で、太平洋戦争後の「日本の左翼」の歴史を語っているのです。
 池上彰さんが1950年生まれ、佐藤優さんが1960年生まれですから、お二人は、日本の左翼が活気に満ちていた時代、ソ連アメリカが冷戦を繰り広げていた時代をリアルタイムで見てこられています。
 そして、記者、あるいは外交官として、政治の場で「日本の左翼は、何をやってきたのか」を目の当たりにしてきたはずです(この巻で語られているのは、お二人にとっても「当事者から昔話として聞いた」時代なのですが)。

 僕の現在のイメージとしての「左翼」は、「ものすごく頭は良さそうなのだけれど、理屈倒れというか、理想ばかりを語って現実を見ずに批判ばかりしているめんどくさい人たち」なんですよね。
 
 僕が子どもの頃は、「日本が社会主義国になる可能性」も感じていましたし、とくに教育の場には、左翼的な人が多かった記憶があります。

 社民党の前身の政党が、自民党と政権を争っていた時代があったのだ、と言われても、いまの若い人たちは信じられないのではないだろうか。
 今の政党って、共産党を除けば、みんな昔の自民党の分派みたいなもので、どこが政権を運営しても劇的な変化は起こりそうにないですよね。少なくとも、いきなり自衛隊が「違憲」だとして解散させられたり、天皇制が廃止されることはないでしょう。
 
 いまや、「左翼」は「サヨク」とカタカナで書かれて小馬鹿にされ、絶滅危惧種のような存在になっているのです。

 池上さんと佐藤さんは、ベルリンの壁が崩れて30年が経ち、社民党が衆参ともに議員1人をなんとか維持しているいまだからこそ、「マルクス主義を知らない(=左翼思想や運動に免疫がない)若者たち」に、太平洋戦争後の日本の左翼史を伝えておくことに意義がある、と考えておられるのです。

 僕の息子をみていると、「歴史に興味を持つ」というのは素晴らしいこと感じる一方で、少し怖くもなるのです。

 歴史的な悲劇や失敗や挫折が、後世、ネタとして面白おかしくされたり、逆に理想化されたりすることって、よくあるんですよね。
 僕の記憶の範疇では、オウム真理教も、現在は「恐怖のテロ集団」として語られていますが、オウム報道でワイドショーが高視聴率を叩き出していた頃は、僕の周囲の人たちは、みんな面白がって「オウムシスターズ」とか「麻原ソング」とかをネタにしていたんですよね。正直、僕自身も、地下鉄サリン事件までは、本気で怖いとは思っていませんでした。
 でも、そういう「ネタとして消費していったリアルタイムでの記憶や記録」は、どんどん失われ、まるで最初から「メディアはテロ集団としてマジメに報道していたし、人々も最初から恐怖を抱いていた」ように歴史は改変されているのです。

 あらためて尋ねられてみると、僕自身、「社会主義」と「共産主義」の違いすら、うまく説明できないのです。


gimon-sukkiri.jp


 ここで説明すると長くなるので、まとめられたものへのリンクを入れておきますが、この定義からすると、いまだ歴史には「本物の共産主義国家」は誕生していない、と言えるのかもしれません。

 そして、ソ連という国や社会主義国家をリアルタイムでみてきていない若者たちが、格差ばかりが拡がっていく資本主義社会に絶望し、マルクスに魅力を感じていくのは歴史の必然ではないか、と池上さん、佐藤さんは考えておられるようです。

 逆に「左翼とはどういう存在なのか」を知らずに、ただ「サヨク」とバカにしたり、恐れている人も少なくない。

佐藤優左派の視点から近現代史を捉え直すことが必要と考える第二の理由は、左翼というものを理解していないと、今の日本共産党の思想や動向を正しく解釈できず、彼らの思想に取り込まれる危険があるということです。問題は、最近の若い人たち──私たちからすると、「若い人」というのは40代まで含めた話ですが──は、左翼のことをあまりに知らなすぎるということです。私が最近、一番それを感じてアブナイと思ったのが、数年前から噂されている「枝野革マル説」です。


池上彰立憲民主党枝野幸男代表が、警察白書で「極左暴力集団」と名指しされている革マル派日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派)のシンパであるという説ですね。
 枝野氏が核マルとの関係が指摘されているJR総連から献金を受け取っていたことが根拠になっているようですが。


佐藤:これがありえないということは、枝野氏の出身大学である東北大学が1980年代は中核派の主要拠点のひとつであることを理解してさえいればわかるはずなんですよ。仮に彼の年代で、東北大学革マルのシンパなどやっていたら、リンチに遭って学業を全うできるはずはありませんから。そういうことを含めて愚にもつかない話が、いまネットを中心に山ほど転がっているんです。


池上:立憲民主党革マルのつながりを安易に信じてしまうくらいだと、学生運動や過激派の流れを作った「新左翼」と共産党の区別もついていないんでしょうね。


佐藤:あるいは「左翼」と「リベラル」が全然別の概念だということも理解されていません。本来はリベラル(自由主義者)といえば、むしろ左翼とは対立的な概念です。たとえば、左翼は鉄の規律によって上から下まで厳しく統制され、またそれを受け入れるものであったのに対して、リベラルは個人の自由を尊重する思想ですから、そうした規律を嫌悪します。でも今では、左派とリベラルがほとんど同じもののように考えられています。


 この本を読んでいくと、「枝野さんが1980年代の東北大学革マル派のシンパだったなんてありえない」ことが理解できるのです。
 それは、枝野さんの人格云々、という話ではなくて、同じ組織から分派した革マル派中核派はものすごく仲が悪くて、命のやりとりのような抗争を続けていたから、なんですよね。
 読んでいると、なんでこんなに左翼というのは(まあ、左翼に限った話ではないのですが)、次から次へと仲間だった人たちが分裂していって、内部粛清とか勢力争いをやらずにいられないのか、と思うのです。
 どうせやるんだったら、「資本家たちの味方」に制裁を加えるべきではないか、と言いたくなるくらいです。

 対談形式で、かなり読みやすい本なのですが、社会党共産党(とくに共産党)の内部抗争の激しさと複雑さに関しては、読んでもすぐに忘れてしまいそうでした。

 佐藤さんは、「左翼はきわめて近代的な概念」だと仰っています。「人間が理性にもとづいて社会を人工的に改造すれば、理想的な社会に限りなく近づける」と信じているのが左翼で、彼らは、その改造のためには、武器を取って戦うことも辞さないのです。

佐藤:一方で右翼(保守派)の特徴はなにかといえば、彼らも理性を認めないわけではありません。しかし人間の理性は不完全なものだ、と考えているのです。
 人間は誤謬性から逃れられない存在なので、歴史に学ぶ謙虚な姿勢が必要です。左翼のように無理にラディカルな改革を推し進めるのではなく、漸進的に社会を変えていこうと考えるのが本来の右翼です。
 たとえば、王や貴族、教会などの存在は、どうして必要なのかを問われて合理的な説明ができる人はいません。しかし長年のあいだこの世に存在してきた以上は、その背後には何らかの英知は働いているはずであり尊重しなければいけない、という考え方を右翼はします。これが左翼と右翼の根本的な違いです。


 いまの日本で生きている僕がイメージする「サヨク」「ウヨク」と、「本来の立場」は、かなり違うものなのだな、と、この本を読んでいると思い知らされるのです。

 「護憲」「戦争絶対反対」という人たちだと思われがちな「左翼」なのですが、戦後間もない時期の共産党は「侵略戦争は否定するが、自衛のための戦争は否定していなかった」のです。

佐藤:こうした戦後間もない時期の共産党が唱えていた、「日本は軍隊を持ち、中立自衛の道をゆくのだ」という主張にはある種の乾いたリアリズムがありますね。国家がある以上戦争は必然であるし、戦争にはいい戦争と悪い戦争がある、というわけです。
 この、「どんなものにも良いものと悪いものがある」というロジックは、共産党弁証法の特徴です。「良い戦争」と「悪い戦争」があるように、「良い核兵器」と「悪い核兵器」もあって、ソ連や中国などが持つ核兵器帝国主義者による核戦争を阻止するものとして正当化される。
 そしてこの延長で、「良いスキャンダリズム」と「悪いスキャンダリズム」という理屈も当然ありえるわけです。権力者のスキャンダルを暴くのはいいことだけど、共産党員のスキャンダルは党内部で処理すべきことであり、これを外部に漏らす行為は反階級的であり反革命的だ、などというダブルスタンダードな言辞を悪びれることなく言えてしまう。
 これこそがスターリン主義弁証法で、「弁証法」という言葉を使うとどんなことでも正当化できるのです。だから彼らは絶対に謝らないし、そもそも自分が悪いと思ってさえいない。共産党歴が長い人ほど、そういう思考回路ができあがってしまっているから怖いんですよ。


池上:だから共産党のそういう部分についていけない人は多かったのでしょうし、私の高校時代の国語の教師などはまさにそうでしたね。彼は戦争中は絵に描いたような軍国青年だったのですが敗戦で価値観がひっくり返り、戦後すぐに共産党に入党したんです。しかし、それからしばらくして共産党にも絶望して離党した。その後はすっかり虚無的になっていました。


 東京帝大哲学科在学中に陸軍に徴兵され、敗戦後に共産党に入党した「ナベツネ」こと渡辺恒雄さんの話も出てきます。
 渡辺さんは、「マルクスレーニンの本のどこを読んでも、人格的価値、道徳的価値が出てこない。マルクス・レーニン主義には、倫理的価値が位置づけされていないんだよ。それはおかしいんじゃないか、ということだね」と佐藤優さんとの対談で仰っていたそうです。

 左翼の「合理性」というのは、ひたすら自分を正当化するためのものになってしまっていて、そこに倫理や人間としての「スジ」みたいなものが通っていないのではないか、だから、「正しいことを言っているみたいなのに、心に響かない」のかもしれないな、と僕はこれを読んでいて感じたのです。
 倫理観とか過去へのこだわりというのは、人間にとって「しがらみ」なのかもしれません。でも、それが人間を人間たらしめているような気がします。

 お二人の対談で読んでいても、けっこう頭がこんがらがってくる「日本の左翼史」なのですが、「ひとことで言い表せない、ややこしい経緯」を辿ることそのものが、「日本の左翼」を知るということなのでしょうね。続き(1960年以降)が楽しみです。


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