琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】変質する世界 ウィズコロナの経済と社会 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

コロナショックにより、経済や国際関係、人々の価値観はどのように変質したのか。
『シン・ニホン』などの著者である安宅和人氏は、これからのマクロなトレンドを示す キーワードとして「開疎化」を挙げ、解剖学者の養老孟司氏は「ウイルスの心配より、健康で長生きしてもやることがないことのほうが問題」と述べる。経済学者のダロン・アセモグル氏はアメリカで最大の被害が出たことから、かの国の歪みについて解説し、SF小説『三体』の著者である劉慈欣氏は中国人の国民感情を語る。
各界の第一人者がウィズコロナの世界を読み解く、傑出した論考15編。

安宅和人アジャイルな仕組みが国を救う」
長谷川眞理子「野放図な資本主義への警告だ」
養老孟司「日本はすでに『絶滅』状態」
デービッド・アトキンソン「コロナと大震災の二重苦に備えよ」
エドワード・ルトワック「コロナ時代の米中対決」
ダロン・アセモグル「アメリカの歪みが露呈した」
劉慈欣「人類の団結はSFだけの世界? 」
御立尚資「コロナ後の世界を創る意志」
細谷雄一「政治経済の『免疫力』を備えよ」
戸堂康之「コロナ後のグローバル化を見据えよ」
大屋雄裕「自由と幸福の相克を乗り越えられるか」
苅谷剛彦「『自粛の氾濫』は社会に何を残すか」
岡本隆司日中韓の差を生む『歴史の刻印』」
宮沢孝幸「経済活動は『1/100作戦』で守れる」
瀬名秀明「私たちは『人間らしさ』を問われている」


 「コロナ後」あるいは、「コロナとの共生」をテーマにした本が、書店にはたくさん並んでいます。
 しかしながら、日本の感染者数はふたたび増加しつつあり、世界全体でもウイルスの勢いはおさまってきているとは言い難い状態であり、まだまだ総括できる時期ではないとも思うのです。
 そもそも、何を基準に、みんなマスクを外していい、と判断するのだろうか。

 この本は、雑誌『Voice』の特集記事をもとに、各界の識者が「新型コロナウイルスによって変わっていく世界」について、それぞれの知見を述べたものです。
 正直、何が言いたいのかよくわからない人もいましたが、いろんな立場からの見方が一冊の本で読めるというのは有難い。
 同じ事象をみていても、医学的・疫学的なことを考える人もいれば、経済に与える影響を予想する人もいるし、米中のパワーバランスの変化を感じ取る人もいるのです。


 『シン・ニホン』の著者・安宅和人さんの項より。

──新型コロナは、あらゆる業種の企業に大打撃を与えています。この難局を乗り切るために、経営者が持つべき思考は何でしょうか。

安宅和人いま世界で何が起きているのか、マクロなトレンドを押さえることが重要でしょう。どんな天才経営者でも、これを無視しては世界との競争には勝てない。ではそのトレンドが何かといえば、「withコロナ」状況を前提とした密の回避です。
 人類はこれまで、進んで三密の空間をつくり上げてきました。その象徴が都市化であり、人が便利で豊かに生きるために都会の文明を構築してきたわけです。ところが今回のコロナ危機によって「密閉・密接(closed/contact)×密(dense)」から「開放(open)×疎(sparse)」な価値観へと向かう強いベクトルが働き始めている。私はこのことを「開疎化」と呼んでいます。
 ただし、だからといって都市化の流れが完全に止まるわけではなありません。どちらかといえば、従来の都市化に開疎化のトレンドが上乗せされるかたちで、世界が動いていくイメージです。まず進むのは都市空間とインフラそのものの開疎化でしょう。医療機関、商業施設、オフィス、大量輸送機関などの開放性を上げ、疎空間にする。それに伴い生活空間とオフィス空間の融合も進む。
 映画『ブレードランナー』で描かれたような都市集中型の未来を避け、『風の谷のナウシカ』で描かれたような豊かな自然とともに暮らす空間に移る人も増えるでしょう。

──生活に必要な機能を中心部に集約することで効率的な生活・行政をめざす「コンパクトシティ」とは逆の発想ですね。


安宅:コンパクトシティは経済効率の良い「都市」を地方空間に持ち込むもので、コロナ前の時代では、たしかに間違った手法ではありませんでした。しかし、多くの密をつくり出す施策であり、「with コロナ」以降の世界で行き詰まるのは目に見えてきています。ここでも大都市同様の個別空間の開疎化が必要だと考えられます。


 新型コロナウイルスについては、同じ日本でも、東京と地方の温度差をすごく感じるのです。
 僕が住んでいる九州では、ゴールデンウィーク明けには、さまざまな自粛が解除され(「自粛」が「解除」というのも変な言い回しではありますが)、みんなマスクをしながら日常に戻っていったのに、ネットやメディア越しにみる「東京」あるいは「首都圏」は、その後もずっと「自粛」が続いていました。そして、最近また感染者が急激に増えてきています。
 感染症に対しては、人口密度が高く、人が集まってくる「都会」は脆弱なのです。
 これまでは、日本の人口がどんどん減っていくことに対して、都市に人口を集中させて、過疎地域へのインフラの負担を減らしていく「コンパクトシティ化」を推進すべきだ、という論者が多かったのですが、そういう流れも、今回の新型コロナウイルスを契機に変わっていくかもしれません。

 宅配システムとかも含めて考えると、都会のほうが「人と会いたくなければ、会わなくても生きていける」面もあるんですけどね。


 デービット・アトキンソンさんは、新型コロナに対する企業支援策の対象が、生産性の低い小規模事業者に偏っていることを批判しています。

デービット・アトキンソン「中小企業が宝」という日本特有の価値観からいますぐにでも脱却すべきです。日本には小規模事業者が約305万社もありますが、その平均社員数は3.4人にすぎません。企業の規模が小さいほど生産性は低くなり、イノベーションが生まれず、所得水準は低く、女性が活躍しにくい。昨今導入が推進されているテレワークも、規模の大きな企業ほど導入比率が高く、小さな企業ほど進んでいない。
 日本が世界5位の国際競争力をもつ(世界経済フォーラム、2018年)にもかかわらず、生産性で28位に甘んじているのは、小規模事業者が多すぎるからにほかなりません。大半の小規模事業者は「日本の宝」ではないです。要するに、中小企業は数ばかりを重視するものではなくて、中身をもっと見るべきです。
 私がこう指摘すると、「そうした小さな会社のなかにこそイノベーションを生み出す宝がある」という人もいるかもしれません。もちろん個々の事例でいえば、優秀な企業は存在するでしょう。それは否定しません。しかし全体の付加価値から判断すると、そうした小規模事業者はほんの一部で、ほとんど生産性を高められていない。例外を一般化してはいけません。
 さらに、スペインやイタリアのように、小さな企業の数が多い国ほど財政基盤が脆弱な傾向にあります。深刻な人口減少に直面する日本が本当に生まれ変わりたいのならば、小規模事業者に偏った産業構造そのものを見直さなければなりません。


 これも、個々の小規模事業者にとっては「たまったものじゃない」意見だと思うのです。
 ネットでは、大企業の苦境よりも、小規模事業者の生々しい声のほうが目につきやすいですし。
 ただ、大局的に考えると、こういう発想を「残酷」だと切り捨てることが、日本の停滞を長引かせているような気もします。

 外食に行く店が、みんな大手チェーン店ばかりになってしまうのは味気ないけれども。


 作家の瀬名秀明さんは、こう仰っています。

 いま、私たちが「どうしたらより『人間らしく』生きられるだろうか」を考えるべき時代を迎えています。二十世紀初頭、スペイン・インフルエンザで数千万人単位の人が命を失いました。いわば大量死の時代ですが、いまは一人ひとりの命がそれぞれ重く、意味があるという倫理観が浸透しています。あえて極端なことをいえば、スペイン・インフルエンザでさえ三年後には終息したのだから、新型コロナも「死ぬ人もいるけれど、生き残る人もいる」未来を受け入れれば、放っておいて終息するのを待つ選択もできる。
 しかしいま、そうした意見を唱える人は稀です。なぜ世界が協力してウイルスを抑え込もうとしているかといえば、一人ひとりの命の重さが昔に比べて重くなっているからです。一人でも多くの命を救うということが私たち人類の目標であり、だから必死になっている。
 ここでクローズアップされるのが、現在の世界の倫理観をかたちづくる「人間らしさ」です。命は等しく尊いという合意があればこそ、私たちはいかに協力し合えるか議論しています。そのとき、先ほどの「真理へと至る対話」「合意へと至る対話」「終わらない対話」で考えると、両者二つは情報のグローバル化もあり、共通認識を得られるでしょう。しかし「終わらない対話」に関しては非常に揺れている。たとえば、個人主義の考え方と公衆衛生の考え方は、そもそも相容れません。自分の家族が感染しないようにすることと、人類全体の健康を考えること、どちらがより「人間らしい」のか。
 ならば、私はこう思います。どちらか一つを選ぶのではなく、メリハリをつけながら、その時々で「いま求められる人間らしさは何か」を思考すべきではないか、と。私たち人間は一律的ではない判断をできるはずで、それが本当の意味での想像力のはずです。さらにいえば、それは洞察力であり、その場での判断力であり、それを行動に移す実行力であり、最終的にどういう社会貢献に結びつくのか自分の信念と結びつける力です。
 ある会議を開くか否か考える際、科学的根拠に基づき、このスペースならば参加者が咳エチケットを守れば大丈夫と都度考えることは、一つの人間らしさでしょう。これが子供であれ大人であれ、学生であれ大手企業の役員であれ、求められる姿勢ではないでしょうか。


 「個人主義の考え方と公衆衛生の考え方は、そもそも相容れない」
 まさにその通りで、民主主義、個人の自由が尊重されている日本では、この両者の衝突が目立った印象があります。
 もっとも、海外では「新型コロナウイルスの怖さを信じない人々」がコロナパーティーとかを開いていたので、いくら個人の自由とか言っても、あなたが社会にウイルスを蔓延させるのを黙認はできない、と思い、「自粛警察」になる人の気持ちもわかるのです。
 
 専制的な政治体制のほうが、こういうときに迅速かつ強制的に感染予防対策をとれるのではないか、という「問いかけ」も、多くの識者からなされています。
 
 結局は、ケースバイケースで対応していくしかない、というのが現実だと僕も思うのです。
 もう、新型コロナ以前のような「参加しないと気まずい会社の飲み会」みたいなものは、復活しないのではないか、というのと、とはいえ、スペイン風邪SARS以来、ずっとみんながマスクをしてきたわけじゃないしなあ、というのと。

 本当に、世界は新型コロナで変わるのだろうか。
 それでも東京で生活したい、って人は、けっこう多いような気もするんですよね。


パラサイト・イヴ (新潮文庫)

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