琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
いま「社会主義」がなぜ注目されるか。行きづまった資本主義はどこへ向かうのか。ジャーナリストとマルクス研究の第一人者による激論!コロナ禍で、セーフティネットの大事さを誰もが知った。格差の極大化と、中間層の貧困への転落は世界的にすすみ、米国のサンダース現象のように「社会主義」に熱狂する若者も多い。経済成長オンリーから、幸福を感じながら暮らせる社会へ。世界の潮目が変わろうとしている。「社会主義」を考えることは、私たちの明日を考えることなのだ。


 新型コロナウイルスの流行で、いままで当たり前のことだと信じてきた「民主主義」が、本当に正しいのかどうか、と僕は感じるようになりました。
 もちろん、皇帝独裁のような専制国家や帝国主義を求めているわけではないけれど、非常事態においては「物事を迅速に進められる『独裁』」のほうが良いのではないか、と考え込んでしまうことも多いのです。
 それも、独裁者が有能であることと、きちんと期限が設定されていること、という条件付きではありますが。

 「社会主義」というと、僕には旧ソ連のイメージが色濃く残っていて、報酬が「平等」であるがゆえに、みんなが働きたがらずに、一部の支配層だけが贅沢三昧、というような国や社会を想像してしまうのです。
 でも、この本を読むと、旧ソ連社会主義は、「社会主義共産主義)が悪い方向に向かってしまった一例」でしかないのかな、という気もするのです。
 人間は「頑張れば報われる」という状況に置かれないと、なかなか努力しないものだし、資本主義による「競争」こそが世の中の発展につながる、とは言うけれど、「社会主義の脅威」が薄れてしまった現代では、資本主義がどんどん先鋭化してきて、格差は拡がっていく一方です。
 資本主義と社会主義が対立していた世界では、「共産化されては困る」ということで、資本主義の国でも、労働者や貧困者に配慮をせざるをえなかった面もあったんですよね。

 この本、池上彰さんが、マルクス経済学の専門家である経済学者・的場昭弘さんとオンラインで対談したものをまとめたものです。

 アメリカの中央銀行であるFRB連邦準備制度理事会)は、空前の金融緩和を選択しました。超低金利が続いているのです。金利が低ければ、投資家にとって金儲けできる分野は限られます。金融機関から低利で資金を借り、株式市場に投資するのです。これによりアメリカの株式市場は、新型コロナウイルスの影響があっても上昇を続けています。FRBによると、所得が上位1%の世帯が株式・投資信託資産の52%を所有しているというのです(2020年4~6月)。恩恵を受けているのは、ここでも富裕層です。
 ウイルスは人間たちに平等に襲いかかってきますが、感染率も致死率も低所得層のほうが高いのです。感染が拡大すると、高額所得層はリモートワークでの働き方にシフトできますが、低所得層の働く現場はリモートワークができません。公共交通機関で毎日出勤せざるを得ず、感染が増えてしまうのです。
 命の重みにまで差が出るアメリカの格差。大統領選挙の民主党予備選挙では「民主社会主義者」を公言するバーニー・サンダースや、同じような政策を訴えるエリザベス・ウォーレンが善戦しました。彼らを支援するアメリカの大学生たちの口からは「社会主義」という言葉がためらいなく出てきます。かつての東西冷戦時代の「社会主義」への恐怖感は薄れ、格差拡大を防ぐ選択肢として「社会主義」に注目する若者が増えているのです。


 人類の歴史において、「負けた」はずの社会主義は、資本主義の総本山ともいえるアメリカで、いま、あらためて見直されています。
 「ソ連」を知らない若者たちが、あまりの格差社会に絶望して、社会主義に惹かれるのも、わかるような気がします。
 これまでの世界では、戦争や伝染病は、ある意味、多くの人を平等に死においやり、格差を一時的にでも小さくしていたのですが、さまざまなテクノロジーの進歩もあって、新型コロナウイルスの流行は、「経済力の差が、感染率・重症化率の差にもつながっている」のです。

的場昭弘資本主義と比較して社会主義に大きな欠点があるとすれば、どうしてもドグマ(教義)というのがあって、そのドグマが権威を生み、それがさまざまな発展を止めてしまう傾向がある。
 資本主義は、私たちの現実の暮らしのなかから出てきて、理論はあとから付けられたものです。社会主義は現実に存在しなかったので、頭の中で考え出されたがゆえに、極めて理論的な側面がある。原理・原則主義があって、それが破られないように政府が規制していく。そして、私たちの自由な発想がそがれていく。問題は、その部分です。
 多くの人が未だに社会主義は嫌だと思っているのは、凝り固まった原理・原則が私たちの自由な思想、発想を束縛するのではないかということですね。そこでは、文句も言えない、議論もできないんじゃないか、と思うわけです。
 こうしたことが社会主義につきまとっている以上は、なかなか民衆はついていかない。自由を担保した社会主義を、どうやってつくっていくかが課題となります。


池上彰それと、やっぱりマーケットメカニズムがないということですね。そもそもソ連は、一握りの官僚エリートが考えた5ヵ年計画というかたちで国家を運営していた。結局、マーケットメカニズムが自律的に働かないことによって、さまざまな問題がやがて起きてくる。最初はうまくいったとしても、だんだんおかしくなってくる。

的場:マルクス自身、すでにお話したように、『資本論』のなかの「貨幣の資本への転化」で、「二つの自由」について述べています。そこで、人々は二つの自由を得たと言います。封建社会からの自由、そして、生産手段を奪われることで、独りで生きていかざるをえない自由を得た、と。
 この二つの自由は表裏一体の関係にある。自分たちが自由になるには、労働力の商品化を選んだほうがいい。農村では、個人の自由がないですから、都市に出て自分を商品化する。一方で、都会で飢え死にするかもしれない可能性がある。労働力の商品化のプラス面とマイナス面は、簡単に切り離せない。
 労働者が当動力商品にならない方法があるのか。もし労働者がただ労働力を売るのではなく、経営に参加することが可能であれば、つまり自分が経営者でありながら労働すれば、商品化が解消される可能性がある。そのあたりの議論がアソシアアシオンをめぐる議論なんです。
 初期のマルクスも、そのあたりのことは考えていました。しかし、労働力の商品化の問題は、資本の国有化や共産党による計画化だけでは解消できません。ところが、マルクスはその解消策を具体的に書いていない。
 プルードンの場合、経営参加と労働を提唱しています。そういうことを許容する組織体をつくれば、労働力の商品化は解消できるんだ、と言っています。これは社会主義をめぐる積極的な議論です。
 ただ、自主管理は高度な民主主義国でないとできないのです。働くと同時に、自由に自分の意見を言うには、教養の高さと、活動への積極的意志が必要ですね。プルードンは、そういうレベルの活動を求めているわけです。教養もない、発言する意欲もないと、結局、トップの人間が好き勝手やるだけになってしまいます。


 結局のところ、社会主義共産主義)の問題点というのは、システムそのものの問題というより、これをきちんと運用できるような教養や意欲を、ほとんどの人は持っていない、ということなのかもしれません。
 そういう「現実の人間」を見ずにつくられているということそのものが問題である、とも言えそうです。
 地域の狭い人間関係のしがらみから逃れて「自由」になることは、都会で誰にも構われずに野垂れ死にする「自由」と背中合わせでもある。
 実際は、資本主義国のなかにも、さまざまな「社会主義的な政策」は取り込まれてはいるのです。

 この対談のなかで、とくに印象的だったのは、新型コロナウイルスで、「なるべく家にいて、外で消費をしない生活」を経験してしまった人たちの意識の変化が「過少消費の世界」につながるのではないか、という話でした。

池上:しばらく前、ある経営者が「毎日料亭で会食ばかりで、家で食べることがなかった、土曜、日曜は必ず接待ゴルフだった。それが全部なくなって、家で夜食事をするというのは、人間的な生活だと改めて気がついた」と述懐していました。こうなると昔のような接待ゴルフも少なくなるでしょうし、毎晩、高級料亭で接待ということもなくなるでしょうね。少なくとも回数は激減する。
 そういうなかで、経済学を改めて作り直さなくてはいけないのかもしれませんね。

的場:ケインズが言ったように、人間の消費性向はある時代的な制約のなかで決まり、これが変動するということはありえるわけです。変動してしまったらどうなるかというと、すべての生産と消費がいままで通りにはならなくなる。これは大きな問題なんです。
 過剰生産の解決策として、ケインズは、有効需要を喚起するために国が公共事業をやればいい、と考えました。有効需要とは消費や投資、政府支出などによって生み出される現実の需要のことですが、公共事業で仕事をつくり出し、お金を供給すれば、消費を含む需要も増えるはずだと考えたわけです。しかし、いくら国が仕事とお金を供給し、消費を喚起しようとしたところで、一般の人たちが期待通りに買ってくれないということになれば、この対策も成り立たなくなる。
 歴史を振り返れば、過少消費が起こらないようにさまざまな要因が働いてきました。個々人が消費を増やしたくなくても、人口が増えれば消費が増える。たとえこの国で人口が減っても、アジア、アフリカで増えて、そこが買ってくれる。前提にしているのは、人口増なんです。人口増が止まると、消費者がいままで以上に買わないと、消費が増えません。
 しかし、物を買わないという過少消費の傾向は、コロナ禍以前から出ているんですね。従来であれば、消費減の流れを変えるために、3年おきに製品をモデルチェンジするなどして、売り付けるようなことをしていた。しかし、それでも消費が増えないとなれば、今度は買ってくれる宇宙人を探すしかない。でも、それは現実的ではないですね。
 消費の総量が限界に近づきつつあることは、残念ながら地球という限られた環境のなかでは、致し方のない問題です。過少消費という問題は、放っておいても、いずれ人口問題として出てくるはずだったんです。ただ、コロナ禍によって現金をもった元気な人たちが突然買わなくなるとは、予想外でした。


 コロナ禍のなかでも、「巣ごもり需要」として、家でできるテレビゲームや通販などで、伸びている企業もあるのです。しかしながら、全体的には、人々はものを買わなく(買えなく)なってきています。出かけないのであれば、高級ブランドの服や化粧品なども、使う頻度は下がるでしょうし。
 ただ、これは新型コロナ禍によって「早まった」だけで、世界の人口増が頭打ちになり、人口減に転じていくことによって、いずれは起こることではあったのです。
 人類は、ずっと経済発展を続けている、というのは、人口増が前提にあったわけで、一人当たりの生産性を上げていくとしても、人口減をカバーできるのか、そもそも、そんなにみんな「消費すること」を望み続けるのか。
 これからは、人類にとって、経験したことのない「過少消費が持続する時代」がやってくるのかもしれません。
 その時代の人にとっては、どんな状況でも、それなりに適応していくしかないのだろうけど。

 「社会主義」=ソ連毛沢東時代の中国、みたいなイメージを持ち続けている人、あるいは、ソ連って、どこの国?という人にとっては、「社会主義の多様性」に触れることができる対談だと思います。


ソ連史

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いまさらですがソ連邦

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