琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「赤の他人には、何もわからない」という傲慢


「人を殺すぐらいなら自殺しろ」という言葉の傲慢さについて - デマこいてんじゃねえ!


僕もこの大阪府知事の発言は、「居酒屋のオッサンレベル」だと思いました。
でも、僕も同じ「居酒屋のオッサン」なので、共感してしまいましたし、僕の周囲にも、同じように「死にたきゃ他人を巻き添えにせずに、自分で死ね!」と言う人ばかりだったんですよね。
いやもちろん、そういう場では、とりあえず「そうだそうだ!」って言っていただけなのかもしれないけれども。

「人を殺すぐらいなら自殺すべき」これは個人の生き方についての話だ。もしも殺人もやむなしというぐらいに追い詰められたら、最悪の選択をする前に自殺したい――特定の条件を満たしたときにヒトはどのような行動をとるべきかを論じている。つまり個人の行動指針にすぎない。
「殺人も自殺も減らすべき」これは世の中のあり方についての話だ。事件はなぜ起きたのか、死ぬべきでない人がなぜ命を落としたのか――。私たちを取り巻く「世の中」から原因を見つけ出そうとする態度だ。
この態度を取ると、どうしても客観的・第三者的なモノの考え方になってしまう。現実の事件をまるで実験か何かのように観察する、冷徹な考え方だ。見る人によっては不遜な態度に見えるだろう。神様にでもなったつもりか、赤の他人に何が分かる……と。
その通りだ。
赤の他人には、何もわからない。

このエントリを読んで、ハッとさせられたんですよ。
ああ、僕は「当事者ぶっていた」のだなあ、って。


でも、なんというか、それはそれで、すごく違和感があって。


僕も「『正義のこぶし』の振り下ろす先を探しているだけ」のような報道にうんざりすることは少なくないのです。

「殺人も自殺も減らすべき」ではないのか。


この議論は「個人の生き方」と「世の中のあり方」をごちゃ混ぜにしているから混乱する。

「殺人も自殺も減らすべき」には大賛成です。
そうすべきだと思う。
でも、さすがに「殺人」を「個人の生き方のスタイルのひとつ」として肯定的に考えられるほど、懐が広くはありません。
率直に言うと、僕は知らない人がウンコ食おうと、パラシュートなしにスカイダイビングしようと、どうでもいいんですよ(後者は、他人のうえに落ちないところでやるべきではありますが)。
しかしながら、「他人の人生を自分の都合で終わらせる権利」なんて、誰にもないはずです。
だから、大阪府知事の言葉も酷いと思う。
その一方で、「他人を殺すくらいなら、自分で決着をつけるほうがマシ」というのは(どちらかを選ばなければならないとすれば)あたりまえの結論だと感じました。
もちろん、「彼は他人も自分も殺すべきではなかった」のだけれども。


僕があの事件に対して、憤りとやるせなさを感じたのは、「もしあの加害者に出くわしたのが、僕自身だったら……」と想像せずにはいられなかったからです。
町を歩いていて、いきなり「そういう人間」に出くわしたら、自分に何ができるだろう?
世の中には、「誰でもいいから殺してみたかった」というような悪意を振りかざす人がいます。
もちろん、そんなにたくさん、ではないんだろうけど。


自分が、そんな人間の「捌け口」として死んでいったら、家族はどうなるのだろう、とか、僕自身の人生は、ずっと「通り魔に殺された、かわいそうな人」として語られることになるのだろうか、とか、そんなことを考えていたら、怖くて、悲しくて。


もちろん、僕のそんな想像は、実際に被害に遭った方々の気持ちの無念さには、及ぶべくもありません。
所詮、「無事だった人間が、同情をしているフリ」なのかもしれません。


でも、「当事者以外は、語る資格はない」というのは、ある種の思考停止だとしか、僕には思えないのです。
アフリカの部族間の抗争で、何十万人という人が亡くなりました。虐殺、としか言いようのない方法で。
ところが、これを「当事者として語る日本人」はほとんどいません。
それは、そういう抗争が僕たちにとってはあまり実感がわかないものであり、そもそも、そういうことが起こっていることそのものを、知らない(あるいは、メディアが大きく採り上げていない)からです。


僕の感覚では、アフリカの部族抗争を語ることは、「当事者じゃないから」「事情がよくわからないから」ためらいがあります。
しかしながら、今回の通り魔事件については、「自分も被害者になっていたかもしれないから」感情移入してしまうのです。
乗客に日本人はいませんでした」は「知らない他者への冷淡さ」の象徴として語られます。しかしながら、その便に乗っていた可能性がある人にとっては、「もっとも知りたい情報」ではあります。


僕は「主観的」と「客観的」について、子供の頃から考えていました。
公正中立な人間は「客観的」に物事を判断するべきだ、主観に流されてはならない、と思っていたのです。
いってみれば「青臭い子供」だったんです。


いまは、「客観的」なんて、この世には存在しないと思っています。
自分の言い分を「客観的」だと言う人、すぐに「日本人は」「男性は」などと主語が大きくなってしまう人は、信用しないことにしています。


本当に「客観的」であろうとするならば、この通り魔事件の犯人にも、それなりの「理由」があったはずです。それが他人からみて納得できるものであるかはさておき、本人にとっては、「やむにやまれる理由と精神状態であった」はず。
人が人を殺すというのは、まず、「正常な精神状態」では難しいはず。


でも、いまの僕はやっぱり、自分がこういう事件の被害者になったかもしれない、という現実のほうが怖いのです。
「本人にもそれなりの理由があったんだから、許してやったら」とは思えない。
「人を殺すくらいなら、自分で始末をつけろ」と言いたくなります。


「客観」って、僕はAmazonのレビューみたいなものだと思うのです。
いろんな人の「主観」がたくさん集まることによって、そこに生まれてくる「全体としての流れというか評価みたいなもの」。
客観というのは、主観という細い糸をよりあわせたケーブルみたいなものではないでしょうか。
みんなの「主観」が噛み合ないからこそ、落としどころとしての「客観」が生まれてきたけれども、それは少なくとも「神が決めた絶対的な正義」ではありません。
誰でも、いま自分が置かれている立場っていうのがあって、それによって、物の見え方は変わってくるものだしね。


まずは「いまの自分の立ち位置からみえる景色」について語ることこそれが、いちばん大事だと思います。
僕にとってそれは「なぜ、こんな形で、誰かが無差別に殺されなければならないのか?」という疑問であり、憤りです。
それと同時に、「自分がそんなことになったら、妻や息子は、自分の責任ではないことなのに、世間から異端視されて生きなければならないだろう」という恐怖もあります。
多くの人が「被害者ともうまくつきあっていけない」から。


そもそも、「この事件に対して、自分が自分の立場から主観として感じたこと」を語るのは、これからどうしていくべきか、考えていくことと、けっして相反するわけではないのです。
人は、「個人」であり、「社会の一員」です。
でも、ネットの中などでは、ついつい自分を大きく見せようとして、「主観なき客観」を振りかざしてしまいがちです。
それこそ「神」や「支配者」になったかのごとく。
自分が徴兵される可能性もあるのに「日本に徴兵制を復活させるべき」だと言う人や、もし病気になったら、生活保護の対象になるかもしれないのに「保護を受けている人をバカにし、基準を厳しくすること」を強く訴える人。


こうして、ブログで書き続けている僕自身にも、そういう「自分を大きく見せたがる気持ち」はあります。
日常生活での僕は、「人を殺すくらいなら、自分で死ねよ」と知人に言われたら、「そうだよねえ」って頷いてしまう人間です。


人と「世の中」との関わり方は、ひとつではありません。
「こんな事件に対する憤り」と「こういう事件を少なくするために、どうすればいいのか考えること」は、同時にできるはず。


「主観を大事にすること」は「客観的であること」と両立できるはずです。
むしろ、「主観のない人間が語る客観は、机上の空論でしかない」。
まあ、そもそもいないんですけどね、主観のない人間なんて。


「赤の他人が主観を語るなんておこがましい」
いや、「赤の他人の主観を知ることができるからこその、インターネット」なんですよ。
それはときに呆れるほどバカバカしかったり、理不尽だったり、耳に痛かったりもするのだけれども。
個人を押しつぶすような集団からの圧力は、だいたい、「客観」とか「正義」のコスプレをしてやってくるものだから。


最後になりますが、考えるきっかけを与えていただいた、id:Rootportさんには感謝しています。ありがとうございました。