琥珀色の戯言

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浅草芸人 ☆☆☆☆


浅草芸人 ?エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史? (マイナビ新書)

浅草芸人 ?エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史? (マイナビ新書)

内容紹介
2012年春、東京スカイツリーが完成します。それに伴い、注目を浴びているのが、幕末から明治、大正、昭和にかけて、芸能の街として発達を続けた浅草です。


浅草は、観光地として有名なだけではなく、明治以来、多くの喜劇役者や芸人を輩出してきた街です。エノケン、ロッパ、伴淳三郎清川虹子浅香光代東八郎渥美清萩本欽一ビートたけしなど、その数は計り知れません。
また、ビートたけし以降、長らく売れっ子の芸人が出現していませんでしたが、ここ数年、ナイツやWコロンなど、浅草の演芸場や寄席で腕を磨いた芸人たちが、テレビで活躍する機会が増えてきました。お笑い好きだけではなく、一般的にも、今再び、浅草芸人に注目が集まっています。


本書では、明治以来の浅草演芸、浅草芸人たちの足跡を紹介します。本書を通じて、浅草という土地の歴史・面白さを改めて堪能していただければ幸いです。

半年前くらいに、浅草に行きました。
普段、車がないと生活できないような地方都市で生活している僕にとっては、浅草寺前のすごい人には圧倒されました。
そのとき、「浅草演芸ホール」に行って、2時間ほど観ていたのですが、落語や漫才の「ライブ感」はすごく心地よかった。
ああ、これはハマるなあ、って。
噺家さんたちのうち、マクラに2人が立川談志さんの悪口で笑いをとっていたのをみて、「談志さんって、すごいんだなあ」なんて、逆に感心してみたり。
出てくる芸人さんの7〜8割くらいは、「きっとこの人たち、一生テレビで売れっ子になることはないだろうなあ」という哀愁をまとっていましたし。本人たちも「売れないこと」をネタにしていて。

 売れっ子になってから、たけしは浅草を罵倒し続けた。
「ウソばっかりだった新宿出て、浅草へ行った。そしたら、この浅草っていうところが、またバカばっかし。ばかやろうの集まりなんだよ」(ビートたけし『みんなゴミだった』)
「浅草へ来てびっくりしたのは、浅草のやつらって新宿と違い、同じバカでも理屈をいえないバカだってこと」(ビートたけし『たけし!』)
 しかし、その一方で、「新宿は頭と口先ばかりだったけど、浅草は体と実働の街だという感じがした」(ビートたけしビートたけしダカーポ』)と、肯定的に語ることもあった。

たけしさんにとっては、まさに「愛憎入り乱れた故郷」なんでしょうね、浅草は。
いまでも、昔の知り合いに会いに、年に何度かは浅草を訪れるそうですし。


この新書には、「明治以来」の浅草芸能の変遷と、芸人たちの「列伝」が書かれています。
江戸時代から、浅草寺を中心とする門前町として栄え、日本随一の繁華街であった浅草。
そして、明治維新から、関東大震災、太平洋戦争など、時代の洗礼を受けながらも、浅草は「興行の街」としての歴史を積み重ねてきました。
映画館、演劇やレビュー、ストリップ、大きな劇場から小さな小屋まで、さまざまな演目と規模のあらゆる「興行」が、この街で行われてきたのです。


280ページという、新書としてはかなりのボリュームなのですが、取り扱っている期間がかなり長いのと、芸人さんたちの数も多いのとで、「もう少し読みたいなあ」と思うところもありました。
「浅草芸人としての萩本欽一さんの毒」とか、「ビートたけしさんの芸人としての業」なんて話は、これだけで一冊の本が書けそうです。
ただ、あまり「お笑い」の世界に詳しくない僕には、「じゃあ、浅草芸人たちは、大阪の芸人たちと、どう違うのか?」というのがよくわからないところはあったんですよね。
「浅草芸人たちの特徴とは何か?」
もちろん、この新書は「東西のお笑いの比較論」ではないのですけど、あまりにもいろんな要素が詰め込まれすぎていて、やや散漫になっているような気もするのです。


さまざまな芸人さんのエピソード抜きでは、この新書の面白さは語れません。
そのなかの「シミキン」こと、清水金一さんのエピソード。

 彼には、変人エピソードが事欠かない。ある芝居で、シミキン扮する若侍が上役に侮辱される場面があった。じっと耐えていなければいけないのに、シミキンは刀を抜いて相手を斬ってしまった。相手の役者も、反射的に死ぬ演技をしてしまった。本来ならラストで若侍が上役を斬ることになっていたから、その後のストーリーはメチャクチャになった。演出家が激怒して楽屋に怒鳴り込むと、シミキンは「今日ばかりは、あんまり憎らしくて我慢できなかったんだ」と言い訳した。
 シミキンは、行きつけの飲み屋に座員を連れて通いつめたが、いつも支払いをツケにしてもらっていた。しかし、やがてそのせいで店がつぶれてしまった。彼がたまたま店に行くと、店主はちょうど家財道具を大八車に乗せて、夜逃げをするところだった。彼は話を聞いて気の毒に思い、車を後ろから押してやったという。しかし、そもそも夜逃げの原因を作ったのは彼自身なのである。

こういうエピソードそのものが「ネタ」みたいですよね。
芸人も、舞台の外では「常識人」であることが求められる時代からみると、「おおらかな時代」でもあり、周囲の人たちは、さぞかし大変だっただろうなあ、とも思うのです。


また、浅草の興行の歴史を読んでいると、「芸能の世界でも、社会情勢の影響を受けざるをえなかったこと」を考えさせられました。

 この年(1945年)の大みそか、NHKラジオで「紅白音楽試合」が放送された。この番組は、当初「紅白歌合戦」として放送されるはずだったが、進駐軍に「合戦」という言葉を咎められ、タイトルを変更された。司会は古川ロッパと、元松竹歌劇団水の江瀧子が務めた。大人気を収めたこの企画はこれでいったん終了するが、この6年後の昭和26年(1951)、進駐軍が撤退する直前のタイミングで、あらためて「紅白歌合戦」としてよみがえるのである。

 東宝の副社長で、かつて日劇ダンシングチームを創設した秦豊吉は、終戦を機に、ストリップ劇場の設立を思いつく。彼の脳裏にあったのは、パリのムーラン・ルージュやフォリー・ベルジュールや、アメリカのバーレスクのステージで見たヌードショーだった。
 そのための第一歩が、昭和22年(1947)1月に、新宿の帝都座五階劇場で行われた「額縁ショー」である。台本を書いたのは、日劇ダンシングチームの演出家の佐谷功で、演出は秦が自ら行った。これは、舞台に大きな額縁が置かれ、その中に名画を模した裸体の女性が立っている、というだけの催し物だった。当時、裸体の女性はステージ上で動いてはならないという指示が進駐軍から発せられているという噂が、警視庁を通じて流れていたため、イギリスのヌードショーをヒントに秦が考案した苦肉の策である。

額縁ショー」って言葉は耳にしたことがあったのですが、実際にどんなものだったのか、僕は全然知らなかったんですよね。
こんな背景があって、生み出された「苦肉の策」であったことももちろん。
「合戦」という言葉はダメ、なんていう話を読むと、いまの時代に生きている僕にとっては「軍国主義から民主主義への解放」のようなイメージがあった太平洋戦争の敗戦も、けっして、何もかもが自由になったわけではないということがわかります。
それに対して、したたかに生き延びようとしていた人たちがいたということも。
しかしこれ、本当に「額縁」が必要だったのだろうか……じっと立っているだけだと、疲れるから寄りかかっていたのかな。


まだまだ御紹介したい話はたくさんあるのですが(とくに、僕にとっては「ぬるい素人いじり」だった萩本欽一さんの芸の「本質」は、すごく興味深かったです)、浅草という街、そして、浅草芸人に興味がある人たちにとっては、最適な入門書だと思います。

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