- 作者: 鷲田康
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/03
- メディア: 単行本
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内容紹介
1994年10月8日、優勝をかけたシーズン最終戦。
長嶋監督が「もはや国民的行事」と語ったように、この一戦は、平均視聴率48.8%(プロ野球中継史上最高)。2010年に日本プロ野球機構が現役の監督、コーチ、選手を対象にしたアンケートで「最高の試合」部門1位だった。
伝説として語り継がれる「世紀の決戦」を、今中、松井、立浪、桑田、大豊、斎藤……戦った男たちの証言でつづる。
長嶋監督は言う。「野球のすべての面白さを凝縮した試合だった」
もうあれから20年近く経つんですね……
この試合、僕もけっこう記憶に残っています。
ただしそれは、「観られなかった試合」として。
1994年のこの日、僕は大学の部活の合宿で、山小屋に行っていたのです。
ずっとカープファンだった僕は、巨人と中日という「金満対決」なんて、どうでもいいや、と思っていたつもりだったのですが、この試合の舞台設定はあまりにもドラマチックすぎて、「どうなったんだろうなあ」と、ずっと気になっていました。
試合が終わったあとに、ニュースで知ったという後輩が「巨人が勝ったみたいですよ!」と教えてくれたのを、よく憶えています。
なんのかんの言っても、リアルタイムで観てみたかったなあ。
この試合と、1988年10月19日のロッテ対近鉄のダブルヘッダーの2試合目は、まさに「伝説」と呼ぶにふさわしい、日本プロ野球史にのこるドラマチックな試合ですよね。
ナゴヤ球場だし、中日は終盤に追い上げてきて勢いがあるし、巨人キラーの今中先発。
これは中日が有利だろうな、と思っていたので、巨人が勝ったと聞いたとき、アンチ巨人の僕も「ああ、こういうときに勝っちゃうのが巨人、長嶋さんなんだよなあ」と感心しました。
そして、これだけ中日有利の流れで、ここまできていたはずなのに、勝負事っていうのは、わかんないものだなあ、とも。
この本は、両チームの首脳陣、選手たちへのインタビューを交えながら、試合前日から、試合開始後の1回から9回、ゲームセットまでを追っていっています。
当時の中日の監督は、高木守道さん。現中日監督です。
これを読んでいると、いろんなことを思い出すのですが、そういえばあの年、中日は高木監督の後任に星野監督の復帰が規定路線で、監督人事で最後まで混乱していたんですよ。
低迷していたチームが、高木監督の退任内定後に巻き返して。
一昨年、落合監督の退任決定後にも中日が快進撃をみせており、「歴史は繰り返すものだな」なんて感慨深いものがありました。
その落合さんも、この試合、巨人の4番として出場し、ホームラン、タイムリーを打ったあと、ケガで途中交替しています。
この試合、両チームがともに129試合を消化して、ともに69勝60敗。
最後の直接対決で勝ったほうが優勝、という試合のプレッシャーは、当事者にとっては、並大抵のものではなかったようです。
負ければ、これまでの129試合の意味がなくなってしまう。
巨人の先発だった槙原投手は、この試合のことを、こんなふうに語っています。
槙原は「10・8決戦」以前にも、以後にも、日本シリーズなどの大きな試合で何度も先発のマウンドは経験してきた。だが、そのときに感じたプレッシャーと、「10・8決戦」で感じたものは、まったく異質なものだったと言っている。
「勝ちたいというんじゃない。負けたら大変なことになる。そういうプレッシャーだと思います。そういう意味ではこの試合以上のプレッシャーはないだろうなと思いますね」
負けられないプレッシャー。負けたら大変なことになるという恐怖。後の野球界ではワールド・ベースボール・クラシック(WBC)などに先発した投手たちが、槙原と同様のプレッシャーを感じてきたのかもしれない。ただ、このときの槙原にとっては、まさに経験したことのない重圧だったわけである。
「それまでの僕にとっては日本シリーズが最高の舞台だったけど、日本シリーズは負けてもリーグ優勝が残る。でも、『10・8決戦』の場合は、ここで負けたらすべて何もかもがなくなる。1年間のすべてを百にするかゼロにするかという戦いだった。日本のプロ野球ではこれ以上の試合なんて、あれ以前も以後も、もう二度とないんじゃないかと思いますね」
槙原の言葉は静かだった。しかし、この重圧を経験したものにしかわからない実感がこもったものだった。
また、この本のなかでは、この「たった一試合」にかけた両陣営の舞台裏も明かされています。
中日の先発・今中投手を苦手としていた巨人打線なのですが、この試合の前日、巨人のスコアラーは、とっておきのビデオを活用することになるのです。
この頃の今中は、基本は真っすぐとカーブが軸で、そこにフォークボールを織り交ぜるというシンプルな組み立てで打者を牛耳る投手だった。
わずか3種類の球種しかないのだから、その球種が絞れれば、攻略できる可能性は飛躍的に高まることになる。
三井はビデオを見ながら説明した。
ポイントはモーションに入って、グラブを顔の前にセットするときの左手首の角度だった。
「セットしたグラブから左手首が真っすぐ見えるときはストレートで、内側に曲がって見えるときはカーブです。そして手首が見えなかったらフォークになります」
中畑の目が輝いた。
「これならばいけるぞ!」
現役時代から投手のクセ盗みがうまかった打撃コーチの淡口憲治も大きくうなづいた。
試合前日の10月7日、練習後にホテルで行われた野手ミーティングで、”打ち込みビデオ”を鑑賞したあと、もう1本のビデオの存在が選手にも明かされた。
「よく確認して、違いが判ったものから部屋に帰っていいぞ」
中畑がこう言ってビデオを流すと、選手たちの視線は食い入るように、今中の手首に集中した。
「オレはいいや」
だが、落合博満だけは、こう言い残してすっと部屋から出て行った。
実は、今中投手のクセの解析は、もう少し早い時期にできていたそうです。
このシーズンは巨人が途中まで独走していたため、「来シーズンにとっておこう」ということで、秘蔵されていたのですが、この決戦のために急遽公開されたのだとか。
あの日、今中投手が打たれたのは、大試合のプレッシャーもあったのでしょうが、こういう理由もあったのです。
この試合、巨人は、槙原ー斎藤ー桑田の「三本柱による黄金リレー」で勝ちました。
それに対して、中日は、今中と心中、という気持ちもあったのかもしれませんが、今中ー山田ー佐藤ー野中という、今中以降は「ふだんのシーズンに近い継投」をしています。
これを読んでいると、20年前は、まだ先発投手が中2日でリリーフをやるのが当然の時代だったのだな、なんて、ちょっと驚いてしまうんですけどね。
当時も、けっこうリアルタイムで野球中継を観ていたはずなんだけど。
巨人の継投が、総決算にふさわしい豪華リレーでした。
それに対して中日は、直前の試合で投げていたとはいえ、山本昌、郭源治といった当時のエース級のピッチャーがベンチ入りしていたにもかかわらず、彼らがマウンドに上がることはありませんでした。
高木監督は、「ここまで追いついてきたのだし、普段通りの野球をやる」ことを意識していたというのと、巨人を追い上げるために主力投手をかなり酷使してきたため、彼らの疲労も目立ち、「この大事な試合とはいえ、負けている状況で投入することにためらいがあった」ようです。
そのことに関して、「士気を上げるという意味でも、負けていても山本昌を投入するべきだったのではないか」と言う選手・関係者も少なからずいました。
僕は今回のWBCを観ていて、「先発型のエースばかりで継投するより、リリーフはリリーフの専門家に任せたほうが良いのではないか」と考えていたのです。
でも、この『10・8決戦』に関しては、「普段の野球をする」ことを意識した高木監督に、「特別な試合なのだから、特別な采配をした」長嶋茂雄監督が勝ちました。
何が正しいのか、というのは結果しだいだし、もっと点差が小さければ、高木監督の継投も変わっていたのでしょうけど……
いやむしろ、途中でちょっと点差がついてしまったからこそ(5回表の巨人の攻撃終了時、6対2で巨人リード、最終的な結果は、巨人が6対3で勝利)、山本昌を投入すべきだったのか?
そういえば、甲子園で、横浜高校が負けている場面で松坂投手を投入したことにより流れが劇的に代わり、大逆転勝ちした試合もありましたね……
「野中は今シーズン、本当に良くがんばりましたよ。でも3点、負けています。(チームを)奮い立たすんだったら、僕は山本か郭を出して欲しいですね」
野中の登板に、解説の鈴木はこう切り出した。それを受けて達川も山本に投げさせる意味をこう中継で解説した。
「山本を出せば中1日ですよね。そういうことでお客が、ベストを尽くしてくれているなという感じがして、また盛り上がるんですよ。そうするとチームもまた盛り上がると思うんです。野中が決して悪いということではないんです」
これに吉村(アナウンサー)も賛同した。
「ただチームの士気ということでね。山本を投げさせて欲しいですね」
テレビから流れたこの三人の叫びは、中日ファンすべての叫びでもあった。
この前日の10月7日の夜中、優勝用の手記の取材をしたいとやってきた中日スポーツのドラゴンズ番キャップ・館林誠に、高木はこんな話をしたという。
「今年は主力に故障者が続出して、ガタガタになった時期があった。そのときに助けてくれたのが、小森(哲也)や北村(俊介)といったほとんど実績のない選手たちだった。私は潜在意識でこの選手はこういう選手だ、と見限っていた部分があった。しかし、本当に困ったときに助けてくれたのが、一度は自分がダメだと烙印を押した選手たちだった。私は今年一年戦って、チームとはこういうものだ、ということを選手たちにあらためて教えられたと思っている」
頑固で負けず嫌いな高木は、だから最後まで地味ながら陰でチームを支え続けた脇役たちを使い続けたのである。決して巨人のように派手ではない。しかしそれが今年の中日のスタイルであり、そのスタイルを貫き通そうとした。今中にかけ、今中が打ち込まれたときには、シーズン中に追いかける展開でチームを支えてくれた中継ぎ陣に固執し、いつも通りに起用した。
「後になって長嶋さんが三本柱を次々に投入するのに対して、あの継投はダメだろうとずいぶんとお叱りを受けました。ただ、あの年の中日はあの連中でつないできたシーズンだったんです。自分の中ではそうやってあの最終戦に漕ぎ着けたという気持ちもあった。だからそれでいこう、と……」
だが、結果的にはそんな高木の采配は敗北した。
チームを支えてくれた選手たちを思う気持ち、その優しさだけでは、勝負には勝てなかった。目の前にある優勝という果実を手にしない限り、どんな思いで選手を起用しても、それは失敗としてしか評価されないのだ。
「私の未熟さだった。いまはそのことを痛切に感じています」
「10・8決戦」から20年近くが経ったいま、高木はこのときの起用をこう総括する。
僕はこの話を読んだとき、高木監督の「思い」に心を打たれましたし、高木監督を勝たせてあげたかったなあ、とも感じました。
もちろん、だからといって試合の結果が変わるわけではないのだけれども。
実際は今中をリリーフした中日の「地味な投手」たちは、山田投手が松井秀喜選手にソロホームランを1本打たれただけで、5〜9回をわずか1失点で凌いでいるのに、結果的に「残念な継投」として語り継がれてしまっているんですよね、この試合での高木監督の采配は。
あらためて、勝負の非情さと傍観者がつくる「イメージ」の怖さを痛感せずにはいられません。
こんな舞台が整った大きな要因には、当時「時間無制限、延長15回まで」という、ほとんど引き分けがないルールが採用されていたことが挙げられます。
2011年シーズンからは節電のための時間制限があり、今年(2013年)は時間制限は撤廃されたものの延長は12回まで。
「ほとんど引き分けなし」というルールだったからこそ、この「決戦」が実現したのです。
日本プロ野球の歴史のなかでも、「特別な試合」だった、「10・8決戦」。
この本を読んでいると、なんだか当時の、あの日の自分のことも、いろいろ思い出してしまいました。
あれは確かに、「歴史的な試合」だったのだよなあ。