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【読書感想】ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 ☆☆☆☆


ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)


Kindle版もあります。

ルポ 虐待 ――大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待 ――大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
二〇一〇年夏、三歳の女児と一歳九カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた…。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ

この新書、読んでいて暗澹たる気持ちになりました。
「なぜ、幼い子どもが二人、こんな死に方をしなければならなかったのか?」と思うし、二人が死んでいったときの様子を想像すると、いたたまれない気持ちになります。
「こんな母親、死刑でも当然!」
このニュースをはじめて耳にしたとき、僕はそう思ったのです。

 2010年7月30日未明、大阪ミナミの繁華街のそばの、十五平米ほどのワンルームマンションで、三歳の女の子と一歳八ヵ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。斎藤芽衣さん(仮名)は、その二人の子どもの母親だ。この夏はとびきり暑かった。子どもたちはクーラーのついていない部屋の中の、堆積したゴミの真ん中で、服を脱ぎ、折り重なるように亡くなっていた。内臓の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していた。
 事件後、この部屋からは段ボール箱十個分のゴミが押収されている。コンビニ弁当やカップ麺の容器、スナック菓子やパン等の包装類。生ゴミ、おむつなどだ。芽衣さんは、一月中旬に名古屋から大阪に引っ越して以来、一度もゴミを捨てていなかった。
 部屋と玄関の間の戸口には出られないように、上下二ヵ所水平に粘着テープが外側から貼られた跡があった。冷蔵庫は扉の内側にまで、汚物まみれの幼い手の跡が残されており、食べ物や飲み物を求めたのではないかと推測された。そんな幼い手の跡は、周囲の壁にもたくさん残されていた。
 大阪ミナミの風俗店でマットヘルス嬢だった芽衣さんが、子どもを残して最後に部屋を出たのは、6月9日。その約50日後、ゴミで埋まったベランダから部屋に入ったレスキュー隊に子どもたちは発見された。

この事件に関しては、芽衣さんが、子どもたちを放置している間も遊び回り、その様子を写真入りでSNSに公開していたことも話題になりました。
子どもを餓死させ、自分は遊び回っていた母親に、僕もすごい衝撃を受けたのです。
なんなんだこれは……


著者は、一度だけ、この芽衣さんに短時間面会したそうで、そのときの様子も書かれています。
ただし、著者が芽衣さんと直接コミュニケーションをとったのはそのときだけで、この新書の大部分は、関係者への綿密な取材によって書かれているのです。

 芽衣さんは子どもを連れて名古屋で暮らし始めてから、自分と子どもたちの様子を元夫だけでなく、父親にもメールで送っていた。
 子どもたちは夜は託児所に預けている。昼間は一緒にいる。公園で一緒に遊んでいる。子ども中心に生活していると、折々に写メールを送った。
 中学時代、いつも少し話を「盛って」、自分を大きく見せていたように、元夫や父親にも、自分は子育てをちゃんとしていると伝えてきた。本当に子育てをしているかが重要ではなく、「メディア」を通じてみせること。それが現実となる。
 親や元夫たちは、その芽衣さんの報告を疑わない。

こういう事件が起こってから考えてみると、母親と幼い子どもふたりの生活は、厳しくて、大変なことばかりなのは当たり前なんですよね。
でも、周囲の人たちは、本人がメールやSNSで見せていた「偽りの現実」を疑わなかった。
僕だって、同じような状況にあれば、たぶん、疑おうとしなかったと思います。
だって、「そういうこと」にしておいたほうが、自分もラクだから。
ただ、元夫にしても、芽衣さんに突然浮気され、家を出て行かれたりもしているので、「芽衣さんのような異性に振り回されるのは、つらかっただろうなあ」と考え込まずにはいられません。
ちょっと不安になると、それを埋め合わせるために、夫以外の男を求めてしまう女。
「それは、そういう病気」なのかもしれません。
でも、「そんな都合の良い病気なんて、あってたまるか!」とも思う。


このルポルタージュを読み、芽衣さんの半生をたどっていくと、こういう「自分に都合が悪いことから、目をそむけてしまいたくなる気持ち」は僕にもあるし、実際のところ、いまもそうやって生きているということを認めざるをえないんですよね。
自分の都合の悪いことは、ある程度スルーしていかないと、人生というのはあまりにも難易度が高すぎる。
芽衣さんの場合、「なんでこの人が、子供を産んで、『母親』になってしまったんだろう?」という疑問ばかりが浮かんでくるんですよ。
「でも、こういう事件と『紙一重』の親って少なくないのだろうな」とも思うし、僕自身も、自分の息子に対して、すごく苛立ち、怒りを露にしたことがあります。
本人は「子どもがいれば、幸せになれる」と思うんだよね。
しかしながら、子育てっていうのは、楽しいことばかりじゃない。
「自分が常に目を配っておかないと、あっという間に消えてしまうかもしれない命」の責任を持つというのは、とんでもないストレスです。
それが、24時間、365日。
なんで、自分のことばかり考えていて、自分が大好きで、あまり子育てに向いていなさそうにみえる人のほうが、楽観的に子どもをつくって、産んでしまいがちなのだろう?
もちろん、親になったことで「変わる」人もいるのだけれど……


著者が芽衣さんと面会したときの際のことを振り返って。

「よく眠れていますか?」
「眠れています」
「お子さんのことを思って、祈ったりしているのですか」
「いいえ、できません」
 私も涙が流れて仕方がない。というのも数日前の取材で、元大阪市中央児童相談所所長で、花園大学教授津崎哲郎さんが、語気を強め机を叩いてこう述べたことを思い出したからだ。
「五月の時点で、大阪市児童相談所は介入に失敗した。これは、完全に救えた事例です」
 津崎さんは、大阪市が行ったこの事件について開いた児童虐待事例検証部会の部会長を務めた。
 児相の介入が成功していたら、目の前に芽衣さんはいなかった。育児支援を必要とする母親として、手厚くケアを受けていたはずだ。

ある意味、世の中って、不公平ではあるんですよね。
芽衣さんは「普通ではない」かもしれないけれど、「そんなに突出して異常な人格の持ち主」だとも思えませんでした。
少なくとも、この新書で紹介されている、実際に彼女に接していた人たちの証言からうかがえる範囲では。
「誰でもひとりは心当たりがある程度のメンヘル(という言葉が適切かはわからないのですが、伝わりやすいのでこれを使わせてください)」だった。
そして、もし決定的な事態=子どもたちの死、が起こらなければ、その前に誰かが見つけだしていれば、芽衣さんも「ひとりで子どもを育てていくことに疲れはてた母親」として、あるいは「病人」として、同情を集めていた可能性もあるのです。


ただし、著者は、津崎さんが児童相談所を責めていることに対しては「この事例は事前に情報がほとんどなく、児童相談所としても、どうしようもなかったのではないか」と書いておられます。
僕も、たぶんそうだったのだろうな、と思います。


もちろん、社会の問題というのはあるのでしょう。
「育児において、母親だけが突出して責任を負わされる」ケースは、あまりにも多い。
「会社というのは、いまの時代になっても、子どもは母親が中心になってみるものだ、というスタンスで動いている」のも事実でなんですよね。
とはいえ、「全部社会が悪い」とか「この母親の生育環境に問題があったのだから、本人の責任じゃない」とも思えないんですよ、やっぱり。
これで「無罪」なら、この世に「有罪」なんて、無くなってしまいそうだし。
この母親の生育環境は、たしかに「ふつうではない」かもしれないけれど、「ものすごくひどい環境」でもないように思われます。
一般的な傾向としては、おそらく「良い生育環境は、子どもに好影響をもたらし、悪い生育環境では、逆のことが起こる」のでしょう。
ただし、これは数学の公式のように、計算できるようなものではありません。
恵まれた環境から、ろくでもない人間が育ってくることは少なくないし、荒んだ環境から、すばらしい人が生まれている例もたくさんあります。
そもそも、「良い環境」「悪い環境」とは何なのか?
それすら、僕にはよくわからない。

幸福な家族はみな似たようなものだが、不幸な家族はそれぞれ独自に不幸である。

トルストイは、うまく言いあらわしたものですね。


芽衣さんは、子どもたちの遺体を発見した際、知りあいの男性に、こんなメールを送ったそうです。

「本当に大切だった。命よりも大切だった。それなのに亡くしてしまった」

嘘つけ!その「大切なもの」を見殺しにしたのは、誰だ!
おかしいよ、本当に。
でも、こういう「自分の人生へを客観的にしかみられない感覚」は、わからなくもないんですよ。
ネットとかで「自分を飾る」ことを繰り返していくと、そういう気持ちになってしまうことって、あるような気がする。
SNSとかでは、誰でも「自分が主役」になりやすいし。


正直、この芽衣さんという人は、「どうしようもない人」だったのではないかと、僕は考えずにはいられません。
たぶん、彼女は、そう簡単に自分で自分を変えることはできなかった。
そうなると、「誰か他の人」が、子どもたちを助けてあげるしかなかった。
でも、芽衣さんの「恋人」も元夫も、父親や母親も、そして、行政も、近所の人たちも、子どもたちを助けることができなかった。


著者が事件現場となったマンションを訪ねたときのこと。

 一階まで降りると、玄関ホールにはビラが張り出され、定期的に住民同士の懇親会を開くことが告知されていた。芽衣さんの事件は、住民同士の孤立が招いたと、お互いが親しくなる必要を訴える。

僕にも、わかっているんですよ。
こういう悲しい事件を食い止める、もっとも手っ取り早くて有効な方法は、この母親や他の親族を責めて「自分や周りはそんな人間ではない」ことに安心したり、行政の不備をあげつらうことではなく(そもそも、行政側もいまの時点でもう手一杯だし、個人情報保護が叫ばれているし、疑わしいからといって、強制的に「捜査」することもできないのです)、「みんながもっと隣人に興味を持ち、繋がり合うこと」だと。
でも、ネットにそう書きながら、自分が住んでいるマンションのエントランスに貼ってある「地域の懇親会」の張り紙をみると、「めんどくさいなあ、こういうのは、好きな人だけでやってればいいのに」と思いつつ、僕はその場を立ち去るのです。


三丁目の夕日』のような「隣近所と調味料の貸し借りをするのが当たり前の世の中」は、確実に、セーフティネットになるでしょう。
この母親だって、誰か本当に親身になって相談できる、あるいは、おせっかいなくらいに子どもたちのことを気にかけてくれる人がいれば、そして、その人が行政のサポートに橋渡しをしてくれれば……


しかし、こうやって「忘れかけた頃に起こる、許せない悲劇」を予防するために、いまの「なるべく周囲の人と干渉しあわないようにするライフスタイル」を変えることができるか?と問われたら、僕は「それは無理だよ、というか、そんな煩わしいことは勘弁してほしい」と答えるでしょう。
だって、それはあまりにも「割に合わない」ような気がするから。
そして、「めんどくさい」から。


なんのかんの言っても、日本は、たぶん、豊かになった。
みんなが貧しければ、助け合いのコミュニティを形成せざるをえないのだから。


僕は正直、どうすればいいのか、よくわからない。
いや、本当は、どうすればいいのかはわかるような気がするけれど、それは「気が重い、やりたくないこと」なのです。


ぜひ、多くの人に、この本を読んでみていただきたいと思います。
誰かが気付いてあげて、その一本の糸を「サポートできる人」に繋ぐことができれば、救える命があるかもしれないから。
僕も、少しずつでも、気をつけてみます。



お題:秋の夜長は読書とブログ

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