琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ギャラクシー街道 ☆☆



西暦2265年、木星のそばに位置する人工居住区「うず潮」は、「ギャラクシー街道」と呼ばれるスペース幹線道路で地球と結ばれている。以前はにぎわった街道も開通して150年がたち、老巧化が問題視されてきた。そんな街道の脇で営業している飲食店には、さまざまな星からそれぞれに事情を抱えた異星人たちが集まっており……。


参考リンク:映画『ギャラクシー街道』公式サイト


2015年27作目。
平日の19時からの回を観賞。
観客は僕も含めて4人でした。平日の夕食どきとはいえ、三谷作品の公開初週ですから、もう少しお客さんいるかな、と思っていたのだけれど。


三谷幸喜監督の作品、予告編では、なんかチープな感じのSFコメディということで、どんな作品なんだろう……と、けっこう楽しみにしてはいたんですよね。
ところが、公開後にこの映画のレビューをみてみると、なんだかとんでもないことに。
『Yahoo映画』のレビューでは、1点台を叩き出し、あの実写版『進撃の巨人』をも下回る低評価。
でも、そういう酷評をみても、僕は内心「まあ、三谷さんのコメディの魅力がわかんないお客さんばっかりなんだろうよ、ほんと、日本の観客ってやつは、わかりやすいお涙頂戴の感動作しか受け入れない、狭量な連中なんだよねえ……」などと、思っていたんですよね。
この作品の魅力、自分にはわかるんじゃないか、と調子に乗っていました。


ごめんなさいすみません僕が悪かったので勘弁してください。
この『ギャラクシー街道』、ほんとにつまんないです。
110分の上映時間のなかで、ラストに近いワンシーンだけ、ちょっとクスリと笑いそうになっただけで、あとの109分30秒くらいは、「なんで豪華キャストで三谷幸喜作品なのに、こんなに面白くないんだろう?」とか、「三谷さんは、なんでこんなのを撮って、しかも全国各地で劇場公開してしまったのだろう?」とかいうことばかり考えていました。
「つまらなさ」に浸るにもあまりにも長過ぎて、途中からは、「なぜ、この映画はこんなにつまらないのか?」と思索してしまったのです。
予告編にあった、綾瀬はるかさんが踊るシーンを観ながら、歴史に遺る予告編がいちばん面白かった映画(本編は激烈につまらない)『ワイルド・ワイルド・ウエスト』の再来が、2015年の日本に!しかも三谷作品とは!」と、なんだか不思議な感慨もありました。
三谷さん、自分でこれを観て、これを全国劇場公開することにゴーサインを出したのだろうか?
脚本家というのは、家庭に緊張感がないとダメなのか?


この映画、主人公の宇宙人夫妻ノアとノエを、香取慎吾さんと綾瀬はるかさんが演じているのですが、まあ、冒頭から、笑えないというか、ものすごく感じ悪いんですよ。
西川貴教さんが演じているべっちょり系の宇宙人がやってくるのですが、「席が濡れるから、帰ってもらってくれ!」とノエに言いつけるノア。
「お客さんだよ!」とノエはたしなめ、ビニールシートを敷いて席についてもらうのですが、うーむ、客商売でいきなりこれはいかがなものか。みのもんた出てこい!
この作品、仕込まれている「小ネタ」が僕にとっては、ことごとく「不発」を通り越して、「不快」なんですよ。
なかでも、大竹しのぶさんが演じているハンバーガーショップの店員は、要領が悪い、いわゆる「とろい」キャラクターとして描かれているのですが、周囲は彼女のこなせる仕事量を知りながら、過剰に負荷をかけ、オーバーフローで彼女は放電し、店が停電してしまう。
その状況が何度か繰り返され、その繰り返しを「ギャグ」としてみてくれ、ということだと思うのですが、僕も「とろい」方なので、なんかイジメっぽくて、すごくみていてつらかったんですよね。
優香さんの「ハンバーガーの食べ方が汚い」という話とか、まあたしかにお上品じゃないかもしれないけど、「食べ方が汚い」という描写も「食べ方が汚いから嫌いになった」という設定も、僕にとっては「笑い」にはつながらないんですよ。
ああ、僕の食べ方は、誰かに「汚い」って思われてないかな……とか、気になってしまう。
その「優香さんの食べ方」も、言うほど「汚い」とも思えなかったし、笑えるほどのインパクトもないし。
妊娠・出産の話も「それで笑うのは難しい」としか、言いようがない。


三谷さんは観客を不快にさせようという意図があるのではなくて、「伝統的なコントとかコメディには、多少なりとも『とろいヤツを笑いものにする』というネタがあって、それも含めての『笑いの文化』なのだ」という考えなのだとは思うんですよ。
僕は三谷さんが書いたものをたくさん読んできましたが、「政治的に正しいお笑い」みたいなものの胡散臭さをよく知っている人のはず。
でも、僕はこういう「差別っぽいネタ」とか「とろい人を笑いものにする」って、生理的にダメなんです。


三谷さんは『有頂天ホテル』『マジックアワー』と、たくさんの人々が、自分たちの問題と向き合いながら、最終的には大きな目的(前者はホテルの年越しイベント、後者は映画の撮影)のために力を合わせていく「群像劇」を撮ってきました。
ただ、そういう「いかにも三谷幸喜作品らしい(と世間で思われている)フォーマット」に飽きてきたのか、『ステキな金縛り』では法廷劇、『清洲会議』では時代劇に挑戦しています。
個人的には『清洲会議』は良作だと思うのですが、三谷作品としては、あまりにも「キッチリしすぎている」ようにも感じられたんですよね。
慣れない時代劇だから、あんまり無茶苦茶にはできなかったのかもしれません。
三谷さんって、「人情モノ」みたいなのは、脚本家の技術としてはつくれるのだけど、内心では嫌っている人だと思うのです。
もっと渇いたもの、たとえば、以前三谷さんが香取さんとやっていたシチュエーション・コメディ『HR』みたいなものを、ずっと映画でもやりたかったんじゃないかな。
でも、日本の(というか、僕は日本しか知らないので)観客相手に映画をつくるのであれば、最低限の「感動」とか「ストーリー」を織り込まないとウケないことも知っていた。


年齢的にも、これまでのキャリアからしても、そろそろ、「本当にナンセンスなだけのもの」「ドラマではなく、純粋なコメディ」に挑戦してみたい、今なら、自分が撮るのなら、興行的にもイケるのではないか。
そこで冒険してみたのが、この『ギャラクシー街道』。
しかし、結果的には、僕にとっては「意味もオチもなく、三谷さんが『王道の笑い』として見せているものが、愉快ではなく不快だった」という作品になってしまったのです。
小ネタが、ことごとく手垢がつきまくっていてカビ臭い。


この映画、「売れない芸人のショートコントをライブで2時間ぶっ続けで見せられるような感じ」なんですよ。
見ていると「どう、面白いでしょ!」ってことあるごとにアピールしてくるのだけれど、それがまた、観客側にとっては鬱陶しい。
「たぶんここで笑わせようとしているのだろうけど、どうしてこれが面白いと制作側は思ったのだろう?」と、思索の迷宮に誘われるばかり。
前半だけで、5回くらいはウトウトしてしまいました。


まあ、「三谷幸喜の才能も枯れ果てた!」とか言うつもりもなくて、思いっきり自分が好きなものをつくって、ブルーオーシャンだと思ったところに突っ込んでいったら、そこはブルーオーシャンすぎて魚が全然いなかった、という話なのでしょうけどね。


しかしこれは、『ギャラクシー街道』というより、『ラジー街道』を全力疾走だな……
三谷幸喜渾身の自爆映画」を観たい人は、映画館に急げ!
たぶん、「これを劇場公開時に映画館で観た」ことって、自慢にはならないけど、ネタにはなるから。


(われながらひどい感想だ……)

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