あらすじ
西宮硝子が転校してきたことで、小学生の石田将也は大嫌いな退屈から逃れる。しかし、硝子とのある出来事のために将也は孤立し、心を閉ざす。5年後、高校生になった将也は、硝子のもとを訪れることにし……。
2016年16作目の映画館での観賞。
平日の昼下がりの回で、観客は僕も含めて5人でした。
ちなみに僕は原作を全く読んだことがありません。
ネットでは「さすが、京都アニメーション(京アニ)!」とクオリティの高さが絶賛されているのですが、京アニにもあまり思い入れはないし……
ですので、「そういう人」の感想だということで、読んでいただければ幸いです。
ネットでの感想をあれこれ読んでいたら、「原作を端折りすぎて説明不足」というのがけっこうあったのですが、僕は何か所か(といっても、けっこう重要なシーンではあるのですが)、「どうしてこの人はこんな行動をとったんだ?」と感じたところはあったものの、そんなに説明不足、という印象はありませんでした。
あの頻繁に登場する鯉には何か意味があるのか? カープが25年ぶりに優勝したからなのだろうか……とか、ちょっと考えましたけど。
閑散とした映画館で、この映画を観ながら、頬杖をついて、ずっと考えていました。
僕はこの映画に「感動」する資格があるのだろうか?
僕は子どもの頃から、積極的にいじめや差別の加害側に回った記憶はありません。
ただ、「そんなことやめろよ」と諫止したこともなかった。
僕自身はそんなにいじめられたこともなく、いつもクラスの一番小さな、ちょっとマニアックな人たちの仲間に入って、「同級生を呼び捨てにしたり、渾名で呼んだりするのは苦手だなあ……」なんてことばかり考えていたのです。
周囲からみれば、「なんかよくわからないヤツだし、運動音痴でめんどくさいけど、とりあえず勉強はそこそこできるし、おとなしいから、いじめるほどでもないか」って思われていたのではなかろうか。
それでも、僕のなかには、つねに「次は自分の番なのでは……」という怯えがありました。
こんなふうに「周りはこう思っているはずだ」って、自分で自分を「周囲の冷たい視線」の檻の中に入れてしまうのが、孤立してしまう原因のひとつなのだ、と、この作品でも描かれているのだけれど。
そもそも、直接いじめることだけが「いじめ」なのか?
陰でバカにするくらいなら、罪は軽いのか?
自分では何も言わなくても、周囲のいじめを止めなければ、「同罪」なのか?
止めようとしても、途中で諦めてしまえば、「中途半端な良心」でしかないのか?
この映画を観ながら、僕は自分が「無実」ではないことを思い出し、胃がキリキリしていたんですよね。
「耳が聞こえない」人に、僕は優しくしてきただろうか?
西宮硝子さんのような同級生としてではないけれど、僕も外来などで、「耳が遠い人(高齢者が多い)」と接する機会があるのです。
限られた時間のなかで、「大声でゆっくり話してください」とか、「筆談で」と言われると、苛立つこともあるのです。
自分では、表に出さないようにしているつもりでも、きっと、相手はそれを感じているんじゃないかな。
高齢の患者さんの家族に「本人は耳が遠くてよく聞こえていないのだけれど、『聞こえない』って先生に言うのがつらいから、わかっていなくても『うんうん』って返事をしているんです」という話をされることが少なからずあるのです。
硝子ちゃんも、ちゃんと自己主張すればいいのに、って思う一方で、「聞こえない、とアピールすることによる相手の苛立った反応の積み重ね」は、けっこう「心が折れる」ものなんじゃないかな。
みんなが、「積極的に話を聞こう」という態度でもないし。
僕には、『自分の声は聞き取りづらいのではないか、滑舌が悪いのではないか」というコンプレックスがあって、「はあ?」とか聞き返されると、けっこうつらいのです。
そんなのたいしたことない、って思われるかもしれないけれど。
(詳しい話はこちらに)
fujipon.hatenadiary.com
最近、海外を旅していて、「聞こえなくて、聞き取れなくて置いていかれる感覚」を、味わいました。
僕は、英語が上手くありません。
紙に書いてある英語を読んで理解するくらいなら、そこそこできるつもりだったのですが、そんな小さな自信はさんざんに打ち砕かれました。
現地で、レンタカーを借りて家族単位で旅をし、英語で話をしていると、自分が「言葉の通じない人」として敬遠されているのが、手をとるようにわかるのです。
あからさまに差別されるとか、いうわけじゃないのだけれど、めんどくさそうな顔をされたり、要求していることも簡略化して「処理」されたりしてしまう。
こちらも、「頼んだものと違うけど、とりあえず飲みものが出てきたからいいや、めんどくさいし」と自分に言い聞かせるようになってくるのです。
ツアー旅行で、添乗員さんがいて、観光客を相手にすることに慣れている人たちと接するのとは違う世界が、そこにはありました。
子ども連れでもあり、お金もそれなりに使って、そこそこ良いホテルにも泊まり、ところどころで日本語ガイドさんにも入ってもらいながら旅をしたにもかかわらず、僕は旅の間、かなり煮詰まっていたのです。
「言葉が通じない人」になるのは、予想以上にキツかった。
自分が「相手にとってめんどくさい存在」になっていることが、僕をすごく落ち込ませました。
1週間くらいなら、どうってことはなかったのかもしれませんが。
ああ、なんかこの映画とは関係ない話を、長々としてしまった……すみません。
この映画を観ていると、そういう「自分のこれまでの人生やふるまい」を思い返さずにはいられなくなるんですよね、きっと。
「いじめ」「差別」という行為に対して、人生で全く無関係だった人は、たぶん、存在しない。
その一方で、「差別とかいじめというのは、一度関わってしまったら、『一生消えない罪』なのか?」とも考え込んでしまいます。
以前上記エントリで書いたように「後でちゃんとフォローしたから、昔やったことは『ナシ』ね」っていうのは、あまりにムシのいい話だとも思うのです。
あのネットでのやりとりが「いじめ」だったかと問われると、そうも言いきれないし、僕の被害妄想っぽいところもあります。
ただ、そう思えるようになったのも、時間が経ったから、ではあるんですよね。
この映画だって、あの小学校の頃、すぐに「ごめん」って言っても、受け入れられなかっただろうと思う。
そして、硝子が何をされてもひたすら謝り、「いいひと」でいようとしたのも「障がいを持って生きていくための処世術」だとも言える。
「障がいを持つ人に優しくしなくては」と「障がいがあるからって、自分を特別扱いしてもらおうなんて図々しい」の間の「みんなが許してくれるセーフティゾーン」は、けっこう狭い。
この映画は、最後に「ドラマチックな転機」を見せることによって、「まあ、そこまでやったなら、お互い様ってことで」みたいな感じで納得させられた気分になるのだけれど、僕のなかでは、ものすごく消化不良な感触でした。
あのまま、だったら、「そんなに簡単に許すのかよ!」って言いたくなったはずです。
「ただしイケメン(美少女)に限る!」とか。
ある登場人物が言った、「あんたさえいなければ、私たちはうまくいっていたのに!」っていう言葉を、僕は否定しきれませんでした。
偶然、「あんた」に出会うことのなかった人びとが、平穏を「あんた」によってかき乱された人びとを断罪できるのか?
「あんた」に悪気はないのはわかっていても、「なんで?」って言いたくなるのもわかるよ。
それを、実際に口にするかどうかは別として。
でもさ、世の中に、そういう「理想」とか「綺麗事」がなくなってしまったら、それはそれで生きづらいのではないか、とも思うしね。
僕は、この映画を観終えて、エンドロールのaikoさんの歌を聴きながら、涙を流していました。
悲しかったからでも、感動したからでもなくて、「僕は今までずっと、聞こえているつもりで、他人の声をまともに聴いていなかったんだな」って、気づいたから。
自分が傷つくのがイヤで、他人に興味が無いフリをしていたことを、見抜かれてしまったから。
でも、ちょうどいま上映されている映画『怒り』には「信じようとしたことで、世界の悪意にさらされて、致命的に傷つけられてしまう女の子」が出てきます。
『聲の形』を観れば、「人と繋がってみよう」と思うし、『怒り』を観れば、人間を信じることのリスクを考えずにはいられない。
生きていくって、案外、大変だよね。
でも、大変なのは、たぶん、僕だけじゃないんだ。
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映画 聲の形 オリジナル・サウンドトラック a shape of light[形態A]
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