琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

作家の生きかた ☆☆☆

作家の生きかた (集英社文庫)

作家の生きかた (集英社文庫)

借金、病気、酒好き、ホラ吹き…。優れた文学者たちは、普通なら非難される人生のマイナス要素をプラスに逆転させ、自己の世界を表現していった。著者は太宰、芥川、井伏など、自身の愛する作家たち20人を「生きかた名人」と呼び、作品をひもときながら、その人生を探る。

 読み始めた時点では、もう少し一般的な「作家の生きかたや性癖を紹介した本」だと思っていたのですが、読んでみると、かなり癖があるというか、筆者の池内紀さんの主観で書かれている印象が強い本でした。太宰治とか芥川龍之介寺山修司といった、僕にとって馴染み深い作家の章は読みやすいし興味深いのですが、「この人、誰?」というような作家の項は、「予備知識なし&いきなり筆者の思い入れがディープに語られる」という状況で、正直「よくわからん……」と読み飛ばしたくなってしまったものもけっこうありました。「この本で紹介されている作家たちへの興味と予備知識はないけど、とりあえず作家という人種の生態を知りたい」という人には、あまり向かない本だと思います。池内さんのファンか、取り上げられている作家たちを半分くらいは知っている人にはオススメできますけど。

 童話作家小川未明と聞くと、すぐさま「赤い蝋燭と人魚」を思い出し、そしてほかには何一つ思い出せない人が多いのではあるまいか。
 実はそれでいいのである。この児童文学者はおそろしくどっさり童話を書いているが、おおかたが「赤い蝋燭と人魚」の反復である。少しばかり道具立てを替えた繰り返し。ちょうど人魚の娘が色づけをした赤い蝋燭が、お宮にズラリと灯されているのと似ている。

 僕は小川未明という童話作家のことは今まで知らなかったのですが、これなんて、「こ、これ、公開処刑か?」という感じです。
 わざわざこんな形で取り上げられるなんて、小川さんがちょっと不憫……

 ただ、この本で寺山修司のこんなエッセイを池内さんが紹介されています。

 寺山修司の競馬エッセイの一つに「ロンググッドバイ」という名の馬が語られている。四歳馬、9頭立ての9番人気が追い込みで勝って単勝の大穴をあけたことがある。前のめりの、跳ぶようなへんな走り方をする。あるとき、ダービー戦線でトップ人気の馬をかわしてゴールに走りこんだ。
「おやじさん、教えてやるよ」
 寺山修司は少年に託して書いている。
「今日のレースに出走したのは、あれはロンググッドバイじゃなくて、他の馬だったんだ」
 誰かが馬をすりかえて出走させた。
 そんなエッセイそのものが、少年同士でヒソヒソ語り合っている口調を思わせないか。ワケ知りが何くわぬ顔で知ったかぶりをする。秘密と称するホラを吹く。とたんに話に花が咲くだろう。もし今日走ったのがロンググッドバイではなくて、ほかの馬だったとしたら、その馬はなぜ自分の名前で走らなかったのか? 大人気の馬を負かす力があれば、ダービーだって出られるはずだ。どうして名をかくして「他人」になりすまし、レースに出なくてはならないのだ?
 ごぞんじのとおり、ホラを吹くのがとびきり上手な人間がいる。子供である。とりわけ少年だ。誰もが幼いころ、壮大なホラを吹いた。ショートケーキ13個をいちどに呑みこんだし、森で電信柱より太い蛇と出くわした。蹴とばしたサッカーボールは空高く舞い上がり、3年経っても落ちてこない――。
 寺山修司はいつも、そんな少年のように初々しかった。少年のホラを忘れず、したり顔した大人の論理や正義とやらを拒否しつづけた。それというのも、ホラが哲学であることを知っていたからだ。それは笑いの効用をおびており、人間の愚かさを滑稽化して、まざまざと見せつける。人間的愚かさに対する、はてしのない戦いの強力な武器なのだ。
 ロンググッドバイが替え馬かどうか、エッセイでは、探索はあっさり打ち切られている。つまるところ、どうでもいいこと。
「馬そのものが、人生の替え馬なのだから」
 ロンググッドバイ、永のお別れ。ついでなから絶筆は「墓場まで何マイル?」。ホラ吹き男のみごとなケリのつけ方だ。

 ああ、これぞ寺山修司!という感じです。ロマン派競馬ファンの皆様にこれを捧げたい。
 人生がフサイチホウオーアドマイヤオーラでいつも決まったら、それはそれで淋しいだろうしね(でも僕は本命党)。

アクセスカウンター