琥珀色の戯言

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らも―中島らもとの三十五年 ☆☆☆☆

らも―中島らもとの三十五年

らも―中島らもとの三十五年

[日販MARCより]
没後3年、初めて明かされる真実の中島らも。泥酔し階段から転落、52歳にして急逝した鬼才・中島らも。半生を共に生き、1番の理解者で、妻である著者が、出会いから死に到るまでの35年を語る。

藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 - 恋ニ酔ヒ、愛ニ死ス ―「らも 中島らもとの35年」―

↑の書評をあらかじめ読んでいたためか、この本に書かれている内容について、僕はほとんど「衝撃」を受けることはありませんでした。らもさんは、著書のなかでも「セックスに関しては、大概のことはやりつくした」というようなことを仰っていましたし、「ふっこ」ことわかぎゑふさんとの関係については、エッセイを読みながら、「この2人、どういう関係なのかな?」と薄々感じていたことに「事実」が提示された、つまり、「腑に落ちた」という気分でした。
そして、この本を読んだからといって、中島らもの作品への印象は変わりません。
いやむしろ、セックスとドラッグ以外に関しては、「こんなに真面目で几帳面で神経質なところがある人だったのか」と意外にすら感じます。

 つきあいはじめたとき、らもはこんなことを言った。
「僕が遅くに家に帰ると、母親の眠るのが遅くなる」
 私はその意味がよくわからなかったけれど、結婚して、主婦をするようになってから気づいた。それは、お母さんが夜に息子の着ていたものを洗って、乾かさなければならなかったからだ。
 あの頃、らもが持っていたジーパンは1本きりで、破れない限り新しい物は買ってもらえなかった。

 その頃のらもは、マリファナだけは絶対家に持ち込ませなかった。一度不良外国人が持ってきたら、エラい剣幕で怒っていたのを覚えている。
マリファナはやめてくれ。ここは普通の家で、子供もいるし、妻もいる。二階は子供の部屋だから、行かないでくれ」
 合法のものはいいけど、非合法はいけない、というらもなりの境界線があったのだ。らもは、エッセイを書きはじめた当初、家族のことは書かないようにしていたが、それもらもが私たちを守ってくれようとしたんだと思う。

 この本では、中島らもが、美代子さんに行った、さまざまな「酷いこと」や「女性関係」もかなり赤裸々に語られています。その一方で、美代子さん自身の「男性関係」も語られていて、僕もある種の「異様さ」を感じずにはいられませんでした。「バンド・オブ・ザ・ナイト」時代の中島家では、「乱交」「スワッピング」なんてことも珍しくなかったようです。
 しかしながら、そんな「セックスにこだわらない」はずのらもさんについて、長年の親友の鈴木創士さんのこんな話も語られています。

 あるとき、創が、らもの後輩のコピーライター、ミキ君を諭していた。
「おまえ、中島と仲良くしたかったらな、いくら中島に勧められても、絶対ミー(美代子さん)と寝たらダメだよ」
 私は、創ともミキ君とも、寝たことがない。

 自分の妻さえも「供物」に差し出したにもかかわらず、満たされることがなかった中島らもの「欠落」は、なんて深く、そして残酷なんだろう……と僕は考えずにはいられませんでした。
中島らもは、自由な人間だった」「幸せだった」と思う一方で、僕はこの本を読みながら、「必死で、そんな『中島らも』を演じ続けようとし続けていた中島裕之という人間の心の闇」を意識せずにはいられなかったのです。らもさんにとっては、酒も、ドラッグも、セックスも、みんな「中島らもがやるべきこと」だからやっていたのではないだろうか、と。

 この本の感想には、「この奥さんだったから、らもさんを支えていけた」というものが多かったのですが、男である僕からみると、美代子さんのような人とずっと付き合っていくということもまた、すごいストレスなんじゃないかと思うんですよね。悪気はないのに、どこへでも飛んでいってしまいそうな人だから。むしろ、「よくこんな掴み所がない女性と、35年も結婚生活を送ってこられたなあ」と。

 あと、わかぎゑふさんは、この本の中で「愛人」として、少し貶められていると思うのですが、

 肝臓の数値が正常に戻ったらもは50日間入院した池田市民病院を退院した。ふっこは、退院したらもを自分のアパートに閉じ込め、家に帰さなくなった。帰せば。私が酒を飲ませてしまうというのが理由だった。
「家にあるお酒は全部捨ててください。おっちゃんが見ている前で、台所で流して捨ててください」
「私は、そんなこと、しないよ」
 私が言うとおりにしないと、ふっこはひどく怒った。
「ミーさんに任しといたら、おっちゃんが死んでしまう」
 ふっこはそう言うが、らもが人にかまわれたり、行動を制限されたりするのが何より嫌いな人間だということを、私は知っている。私自身が、やりたいことは誰に何と言って止められてもやってしまう人間だった。ある意味、らもと私は双子のように似ていた。らもは別に死ぬつもりで酒を飲んでいるわけではない。病気になったらまた入院すればいい。子供じゃないのだから。
 しかし、ふっこにはそんな私が許せなかったようだ。ふっこは、周囲の人たちによく言っていたという。
「おっちゃんは家に帰ると酒を飲むから帰したくない」
「ミーさんはだらしないから、おっちゃんが可哀想や」

 これは、どちらが「正論」なのか?
 僕は仕事柄、「死ぬ気じゃなくても酒でボロボロになってしまった人」をたくさんみてきているので、少なくとも、あの時代にわかぎさんに「監禁」されなかったら、らもさんの作品の多くは書かれることがなかったのだろうなあ、とは感じます。というか、そういう「おせっかいなくらい構ってくれる人」がいたから、らもさんは死ななかったのではないでしょうか。それが、らもさんの本意かどうかはさておき。
 そして、らもさんには、「構われたくない」という気持ちと「構ってほしい」という気持ちが両方心のなかにあって(子供のころは、お母さんに「構われすぎるくらい構われていた」わけですし)、結局、らもさん自身も、「二人とも必要」だったのではないでしょうか。
 それが倫理的に正しいことなのかどうかはともかくとして。

 ただ、らもさんの追悼ライブにわかぎさんが呼ばれなかった(あるいは、出席しなかった)こととか、らもさんの死について、わかぎさんが沈黙していることに関しては、僕は「寂しいなあ」と感じてはいます。後期のリリパット・アーミーは、「芝居らしい芝居」になりすぎてしまって、つまらなくなったと僕も思っていたのですけど、やはり、らもさんだけの力では、あの舞台は不可能だっただろうし。

 最後になりますが、僕がこの本を読みながらずっと考えていたのは、「なぜ、美代子さんは、この話を世に出そうと思ったのだろう?」ということでした。「中島らもの真実」をみんなに知ってもらいたかったのか、それとも、「愛人」への復讐なのか?

 僕の勝手な思い込みなのかもしれませんが、これはたぶん、中島らもという「天才」に惹かれ、「表現する人たち」に囲まれて生きていくことを選んでしまったがために、抑圧されてしまった人間の「自分も何かを表現したい!という心の叫び」みたいなものなのではないか、と感じたのですよ。
 もともと、自分でも詩や小説を書いていたという美代子さんにとって、「中島らも」を含む才能ある有名クリエイターたちに囲まれて生活し、彼らがどんどん世の中に出て行くなかで、自分だけが「置いてけぼり」にされたような淋しさもあったのではないかと思うのです。自分も何かを表現したい!という想いが澱のように溜まっていって、ついに抑えきれなくなったのが、この本なのではないかな、と。「中島らものことを書いた」というよりは、「語るべきことが、中島らも以外になかったので、このテーマになった」のではないでしょうか。

 内容的には「今まで曖昧になっていたことが、ちょっとスッキリした」というくらいの印象の本だったのですが、「表現したい人のカルマ」みたいなものを突きつけられたような気がしましたし、読み終えたら、何に感動したのか自分でもわからなかったのですけど、涙があふれてきて困りました。

 そもそも、この本、読めば読むほど、「中島美代子の物語」なんですよね。

 まあ、らもさんはきっと、この「衝撃の告白本」をあの世で読みながら、「死んだあと身内から『暴露本』が出るなんて、俺もロッカーとしてまんざらでもなかったんだな、満足満足」とか言ってるんじゃないかなあ。

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