琥珀色の戯言

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大人のための文章教室 ☆☆☆☆


大人のための文章教室 (講談社現代新書)

大人のための文章教室 (講談社現代新書)

出版社 / 著者からの内容紹介
面白いから身につく名講座
いますぐ使える裏ワザ表ワザ! 著者オリジナル例文満載!
この教室の方針
ここで私の言う大人とは、世間一般の普通の大人である。サラリーマンや、事業主や、職人や、公務員や、OLや、主婦や、とにかくそういう、いろんな大人全般である。そういう人たちは、文筆業をなりわいとしているわけではないのだが、でも、文章を書くことと無縁ではない。普通に大人をやっていれば、様々の局面で、ひとに読まれる文章を書くことになるものである。(中略) 私がここに始める文章教室は、そういう文章を、どうすればうまく書けるようになるんだろう、という考察の場である。私なりに、様々の心がけや、技巧や、裏技を考案していこうと思っている。<本書より>

 この本、「小説の書き方」について書かれている「指南書」ではないんですよね。
 ですから、そういう内容を求めている読者にとっては、まさに「肩透かし」的な感じかもしれません。
 でも、本当に「日常生活において『伝わる文章』『他人に好印象を与える文章』を書きたいと思っている人」にとっては、とても役に立つ本なのではないかと思います。毎日それなりに文章を書いている人が陥りやすい、「自分だけがカッコいいと勘違いしてしまう文章の罠」についても、しっかり言及されていますし。
 そもそも、この本に書かれているような「基本」すらできていないってこと、けっこう多いんですよね。

 僕がいちばん参考になったのは、この「接続詞の話」でした。

 接続詞なんて単なる文章のつなぎ役、と思っている人がいるかもしれないが、そうではない。接続詞があるから、文章は展開でき、つながっていくのだ。そしてそのつながり方、それを私は論理構造と言っているのだが、それを設定しているのが接続詞でもある。
 そういう接続詞を、どう使うのがうまい文章術なのだろうか。

(中略)

 私の持っている『岩波講座日本語6 文法Ⅰ』の中の、副用語の項(執筆者は市川孝)の接続詞を論じるくだりに、永野賢という学者が、接続詞を7種に分類していることが紹介されている。その分類が素人にもわかりやすそうなので、ここに書き写してみる。

(a)前の事がらを原因・理由とする結果や結末が、次にくることを表すもの。また、事が順調に運ぶ場合のきっかけや前おきなどを表すもの

 だから  それで   それゆえ   ゆえに   したがって   そこで   すると

(b)前の事がらとそぐわない事、つりあわない事、反対の事、などが次にくることを表すもの。または、前とあととを対立させる意味を表すものもある。

 だが   が   しかし   けれど   けれども   だけど   でも   それでも   ところが   とはいえ
 とはいうものの   それなのに   それにしても   さりとて

(c)前の事がらに次の事がらを付け加えたり、また、前のと並んで存在する事がらをあげたりするのに使われるもの。

 そして   それから   また   かつ   および   その上   それに   あわせて   さらに   なお

(d)前の事がらを、ことばを変えて説明することを表すもの。

 つまり   すなわち   たとえば

(e)前の事がらに関する理由などの説明を補うことを表すもの。

 なぜなら   なんとなれば   ただし   もっとも

(f)前の事がらとあとの事がらと、どちらかを選ぶことを表すもの。

 または   あるいは   もしくは   それとも   ないしは

(g)話題を変えることを表すもの。

 さて   ところで   ときに   次に   では

 接続詞の例がいろいろ出ているので、こんなにあるのか、と感じてほしい。こんな接続詞は使ったことがないな、と思った人は、それも使ってみるように試みてはどうだろう。

 自分が書いているものでいつも気になっているのは、「接続詞が多いなあ」ということだったので、この項はとても参考になりました。
 同じ意味であっても、同じ接続詞ばかりがひとつの文章のなかに頻出するのは避けたいところですし。
 そして、僕が書くものには、基本的に(b)の接続詞の割合が高いのです。「でも」「しかし」「だが」などという接続詞が多い文章というのは、読む側からすると、なんとなくハッキリしないというか、まわりくどくて「だから何を言いたいんだ!」と思われがちなんですよね。ところが(ってまた使ってるし)、なかなかこの癖って直らない。(b)の接続詞の種類が他よりも多いというのは、この接続詞は一般的に使用頻度が高いということなのかもしれませんが。
 ある人が書いた文章を読むときに、使われている「接続詞だけを抜き出してみる」と、その人のキャラクターがけっこう見えてくるのではないかという気がします。ちなみに、「僕が」という主語と「〜と思う」「感じる」も蛇足だと知りつついつも使ってしまう「無駄な言葉」です。ただ、ネット上において、こういうふうにわざわざことわっておくことは、「一般論じゃなくて、あくまでも『僕の主観』ですから!」と叩かれたときに逃げやすいというひとつの「予防線」でもあるのですけどね。

 清水さんは、接続詞について、こんなことも書かれています。

 多くの場合は、すべての接続詞を消してしまうことはなくて、要所要所に理解を導いてくれる接続詞が残っていればいいと思う。いずれにしても、接続詞だらけの文章は、理屈っぽすぎると感じられるのだ。
 学者が、素人向けの解説文を書くと、「つまり」のオン・パレードになりがちだ。その気持ちはとてもよくわかる。
 この説明ではよくわからないかもしれないな、別の説明もしてあげよう、こっちのほうがよくわかるだろうから。と、思うからつい、話を「つまり」でつないで、もっと易しい説明をするのだ。 
 そのせいで、学術的なことの入門書は、「つまり」だらけになってしまうのだ。
 そして読者は、学者の書いた文章は「つまり」が多くて、そこがわかりにくいんだよなあ、と思っているのだ。
 学者にお教えします。あの「つまり」を消してしまっても、文章はきれいにつながって読めますよ。

 「接続詞」の大部分は、「無くても問題ない」ものなのです。それどころか、かえって「有害」な場合も多いようです。
 「つまり」とかを使うと、なんとなく偉くなったような気分になるのですが、それは読み手にとっては何のメリットもありません。
 「つまり」って書いているから、この人って偉いんだ! なんて、誰も思ってはくれませんし。
 文章の流れをはっきりさせるために下書きでは使ってもいいとしても、推敲する際には、接続詞は極力消したほうがよさそうです。そのほうが、ひとつひとつの接続詞の効果も高くなりますしね。

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