琥珀色の戯言

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工作少年の日々 ☆☆☆☆


工作少年の日々 (集英社文庫 も 24-2)

工作少年の日々 (集英社文庫 も 24-2)

出版社/著者からの内容紹介
マルチ人間の独自な発想と日常…連載エッセイ集!工学部助教授にして人気ミステリィ作家の著者、初の連載エッセイ集。研究と小説と、愛してやまぬ模型工作の日々の中で綴る、時間や忙しさ、小説etc.についての独自考察。目からウロコのマルチ人間の秘密。

 あらためて、森博嗣という人はすごいなあ、と感心させられてしまうエッセイ集です。大学での仕事に小説の執筆にと、仕事だけでも常人の倍はこなしているはずの人なのに、なんでこんなに人生に「余裕」をにじませることができるのだろう、と羨ましいうやら妬ましいやら。
 いつも「時間が足りない」と言っているわりには、次の瞬間に「めんどくさい」という言葉が頭に浮かんでしまう僕のような人間には、なんだかもう凄すぎて「参考にしよう」というよりは、「世の中にはこんな人もいるのか……」と雲を仰ぎ見るような心境にしかなれないのも事実なんですけどね。
 そもそも、ミニチュア鉄道を庭に敷き、家には工作用のガレージまで造ってしまうのですから、本当に「工作が好き」なのだなあ、と。
 でも、森さんの生活を考えると、「実際に工作をできる時間なんて、週に数時間くらいしかないんじゃないか?」という気もするのですが、それでも「時間が無い」などと愚痴ったりされないですし。時間というのは、本当に「使い方しだい」だというようなことを考えさせられます。

 このエッセイの魅力は、「工作の愉しさ」だけではなくて、僕たちが「あいまいにイメージでしか捉えていなかったもの」を森さんが見事に「言語化」しているところにあると思います。

 ちょっとここで関連話題として、「デザイン」について書いておこう。デザインという言葉を、普通の人は「色や形の美しさを考える作業」だと勘違いしている。デザイナーというと、そういう装飾的なことに気を遣う人種だと思われている。これは、明らかな間違いだ。デザインを訳した言葉が「設計」である。設計とは、別の言葉で表現すれば、「最適化」のことであって、これを行う作業の大半は、数字を用いた計算だ。建築の場合には「構造デザイン」といって、材質の性質や形を考慮して、地震や風に抵抗できる形態を算出する作業がある。外壁の色だとか、窓の形だとか、そういったものは、「意匠デザイン」と呼ばれている。室内の壁紙くらいは、まあぎりぎり意匠デザインの種範囲だが、インテリアに至っては、もう建築の分野ではない。建築のデザインは、観葉植物や絵を飾ったり、カーテンとか絨毯とか家具とか、そういったことは主対象ではない。常々、この点が、世間の人の認識とズレがあると感じている。
 デザインは、ビジュアルなものに限らず、もっと広い範囲に使える言葉だ。人生設計を人生デザイン、家計簿をつける作業を家計デザイン、などというのもフィットしている。だから、小説の場合も、最初にプロットをちゃんと考えるような人はデザイナだといえる。
 デザインと対峙する、もう一方の言葉は「アート」である。これも、普通の人は、そうは考えていないようだ。デザインとアートは近いものだと認識している。これも誤解だ。アートとは、設計されて作られるものではない。最適化されるものでもない。もっと無駄なもの、もっと独り善がりなものだ。デザインが「技」であるならば、アートは「芸」である。
 画家は、これから描く絵の完全な下書きをするだとうか? 色見本を使ってあらかじめ色を選択するだろうか? 絵の具の調合を重量で測って記録しているだろうか? アートとは、そもそも行き当たりばったりの作業、感性で作られるものだ。出来上がっていくうちに、発見があり、自分自身にも変化があり、そこでなにかが生まれる。それを掴み取るために作るのだ。そのなにかを掴み取ることが主目的であって、作られるものは、製品ではない。
 抽象画なんかが、その傾向が顕著でわかりやすい。抽象画を観て「意味がわからない」という人がいるが、そういう人は、おそらくアートに製品的機能を求めているのだろう。絵は、意味をわからせるために描かれるものではない。
 詩もそうだ。作者はなにかのメッセージを込めて、読者に訴えかけているのではない。もし、そんな目的があるのなら、そんなわかりにくいメッセージこそ無駄だから、その無駄さにアートがあるのかもしれない。作者の意図が何か、などという国語教育が招いた大いなる誤解だろう。

 長々と引用してしまって非常に申し訳ないのですが、これを読むと、実は今の世の中に「純粋なアート」というのはほとんど存在しないのではないか、と僕は思います。先日採り上げたピカソの『ゲルニカ』という絵も、その製作過程においては、ピカソはちゃんと下絵を描き、構想を練ってから描き始めていますし(ただ、「再現性が無い」という点では、やはり「アート」なのでしょうけど)。
 そして、世間でいろいろな「デザイナー」を名乗っている人たちは、本当に「デザイナー」なのかという疑問も湧いてきます。もちろん、森さんはそんなことは書かれていませんが。

 この本、「超人の日常日記」としてとても興味深いエッセイ集ではありますが、

 マンションに住んでいたから、飛行機を作るのに適した(たとえばガレージのような)場所もない。模型飛行機の材料ではるバルサという木は、サンドペーパーで削ると凄まじい量の粉が出るから、狭いユニットバスの中で工作した。ちょうど、子供がまだ生まれたばかりで、僕の奥さんは大変な時期だった。それに僕は、飛行機以外にも研究にも熱中していて、大学には一日に16時間はいた。土日もほとんど休まなかったし、お盆もお正月も大学へ出ていった。夜も大学に泊まることが多かった。それなのに、ちゃんと飛行機を作って飛ばしていたのだから、不思議である。たとえば、夜2時に寝ても、朝の4時に起き出して、大学のグラウンドまで車を走らせ、そこで15分くらいラジコン飛行機を飛ばして遊んだ。また帰ってきてから寝直して、それから出勤する、といった具合である。新しい飛行機ができたときは、それを毎日続けた。寝る間を惜しむという文字どおりの生活だった。研究も飛行機も、それくらい、同じくらい面白かったのだ。
 子供は年子だったから、僕の奥さんはとても大変だった(と簡単に書けるのおは、その大変さがわかっていないからだ、と奥さんは言うだろう)。たまに大学を休める日曜日(といっても午前中の半日だけだが)になると、僕は車に飛行機を積み込んで、片道1時間もかかる模型飛行場へ出かけていく。僕の奥さんは、慣れない車の運転をして、小さい子供たち2人を乗せて、僕の車のあとについてきた。僕の車には大きな飛行機が載っているから、もう人が乗れないためだ。そして、飛行場で、僕が飛行機を飛ばしている間、奥さんは子供たちを近くの川原で遊ばせていた。僕は、子供たちの相手をしたことは一度もない。ずっと飛行機の整備をしていた。
 これは自慢をしているのでもないし、また謝罪をしているのでもない。僕は、幼稚園の運動会へ出かけたことも、小学校の参観日に行ったことも一度もない。子供たちの通信簿も見なかった。そんなものよりも、僕にはずっと興味のあることが沢山あったのだ。
 だけど、一つだけ確かなことは、これらのことが、僕が子供たちを愛していない、というのではない、ということだ。子供の相手をしてやること、子供と一緒に遊んでやることで、自分の愛情を彼らに示そうとは考えなかった。今でも、そうは考えていない。

 というような記述を読むと、やっぱりちょっと考え込んでしまうところはあるんですよね。というか、森さんの奥様はどんな気持ちで「無名時代の森博嗣」すなわち、「模型飛行機中毒の一若手研究者」を見つづけてきたのだろうか?と。
 これを読むかぎりでは、「家のことを何もせずに自分の好きなことばっかりやっている、酷い父親」ですよねやっぱり。
 いや、「とにかく面白い人」だと、楽しみながらついていったのかもしれませんし、ここに書かれていることには、森さんの誇張も含まれているのかもしれませんが、「これらのことが、僕が子供たちを愛していない、というのではない」と言われても、「普通の人」には、なかなか伝わりにくいのではないか、とも思うんですよ。もちろん、僕も「そう言われてもねえ……」と感じました。子供を遊びに連れて行くことだけが「愛情表現」ではないというのは、わかるのですが……
 このエッセイ、正直参考にできるところは少ないのですが(というか、僕が真似したら3ヶ月で離婚確実でしょう)、「天才」が生まれるには、それを支える人たちの力が必要なのだなあ、と考えさせられる話ではありますね。
 森さんの奥様のお話を、一度伺ってみたいものです。

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