琥珀色の戯言

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【読書感想】バッタを倒しにアフリカへ ☆☆☆☆

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)


Kindle版もあります。

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
バッタ被害を食い止めるため、バッタ博士は単身、モーリタニアへと旅立った。それが、修羅への道とも知らずに…。『孤独なバッダが群れるとき』の著者が贈る、科学冒険就職ノンフィクション!


 「アウトドア研究者もの」には、「当たり」が多いんだよなあ、と思いながら読みました。
 著者の前野ウルド浩太郎さんは、新進気鋭の昆虫学者です。
 ウルドって、ハーフなの?と思ったのですが、その名前のことも、この本のなかで書かれています。

 私はバッタアレルギーのため、バッタに触られるとじんましんが出てひどい痒みに襲われる。そんなの普段の生活には支障はなさそうだが、あろうことかバッタを研究しているため、死活問題となっている。こんな奇病を患ったのも、14年間にわたりひたすらバッタを触り続けたのが原因だろう。
 全身バッタまみれになったら、あまりの痒さで命を落としかねない。それでも自主的にバッタの群れに突撃したがるのは、自暴自棄になったからではない。


 子供の頃からの夢「バッタに食べられたい」を叶えるためなのだ。


 小学生の頃に読んだ科学雑誌の記事で、外国で大発生したバッタを見学していた女性観光客がバッタの大群に巻き込まれ、緑色の服を喰われてしまったことを知った。バッタに恐怖を覚えると同時に、その女性を羨ましく思った。その頃、『ファーブル昆虫記』に感銘を受け、将来は昆虫学者になろうと心に誓っていたため、虫にたかられるのが羨ましくてしかたなかったのだ。
 虫を愛し、虫に愛される昆虫学者になりたかった。それ以来、緑色の服を着てバッタの群れに飛び込み、全身でバッタと愛を語り合うのが夢になった。


 「夢」っていうのも、人それぞれ、なのだなあ……
 なんて感心するのと同時に、それを「若気の至り」だと処理せずに、ずっと追いかけてきた著者は本当にすごいな、と感心してしまいます。
 著者は、昆虫学者として生きていこうとしているのですが、そこには、生活の問題がのしかかってくるのです。
 昆虫の研究者としていまの日本で食べていくには、大学や研究機関でポストを得るしかないのです。
 そのためには、評価される論文を書かなくてはなりません。
 それしか「バッタの研究で食べていく道」はない。


 対象がゴキブリとかであれば、殺虫剤の会社などでニーズがあるのかもしれませんが、いまの日本でバッタによる被害というのは、現実的なものではありません。
 僕も、光栄の『三國志』というシミュレーションゲームで、「アア、イナゴダ……」と、自分の国が蹂躙されるシーンを思い浮かべることができるくらいです。
 しかしながら、アフリカでは、バッタによる農業被害は現在でも深刻なものなのだそうです。
 その一方で、環境の過酷さもあるのか、自分の国の研究室で遺伝子解析をする研究者は少なからずいるのに、現地でフィールドワークをやる人は、あまりいないのです。
 そこで、著者は一念発起して、西アフリカのモーリタニアの研究所に留学し、さまざまな文化の違いや思うようにバッタに遭遇できないことに戸惑いながら、バッタの研究を続けていきます。

 これを読んでいると、やっぱり、料理ができるっていうのは、どこに行っても武器になるのだなあ、と、自炊をほとんどしない人間としては反省してしまいました。
 著者は料理が得意で、現地の食材や食べ物にも積極的に挑戦しています。
 「食の問題」って、海外で生活をするときに、けっこう大きなハードルなんですよね。


 僕はKindle版で読んだのですが、数々の写真、とくに、バッタの群れの写真には、圧倒されました。なんなんだこの密度は。
 目の前にこんなのがたくさん飛んできたら、そりゃもう逃げるしかないよ。

 バッタの翅(はね)には独特の模様があり、古代エジプト人は、その模様はヘブライ語で「神の罰」と刻まれていると言い伝えた。「蝗害(こうがい)」というバッタによる被害を表す言葉があるように、世界的に天災として恐れられている。
 なぜサバクトビバッタは大発生できるのか? それはこのバッタが、混み合うと変身する特殊能力を秘めているからに他ならない。まばらに生息している低密度下で発育した個体は孤独相と呼ばれ、一般的な緑色をしたおとなしいバッタになり、お互いを避け合う。一方、辺りにたくさんの仲間がいる高密度下で発育したものは、群れを成して活発に動き回り、幼虫は黄色や黒の目立つバッタになる。これらは、群生相と呼ばれ、黒い悪魔として恐れられている。成虫になると、群生相は体に対して翅が長くなり、飛翔に適した形態になる。
 長年にわたって、孤独相と群生相はそれぞれ別種のバッタだと考えられてきた。その後1921年、ロシアの昆虫学者ウバロフ卿が、普段は孤独相のバッタが混み合うと群生相に変身することを突き止め、この現象は「相変異」と名付けられた。
 大発生時には、全ての個体が群生相になって害虫化する。そのため群生相になることを阻止できれば、大発生そのものを未然に防ぐことができると考えられた。相変異のメカニズムの解明は、バッタ問題解決の「カギ」を握っているとされ、1世紀にわたって世界的に研究が積み重ねられてきた。バッタに関する論文数は1万報を軽く超え、昆虫の中でも群を抜いて歴史と伝統がある学問分野であり、現在でも新発見があると超トップジャーナルの表紙を飾る。
 ちなみに、バッタとイナゴは相変異を示すか示さないかで区別されている。相変異を示すものがバッタ(Locust)、示さないものがイナゴ(Grasshopper)と呼ばれる。日本ではオンブバッタやショウリョウバッタなどと呼ばれるが、厳密にはイナゴの仲間である。Locusの由来はラテン語の「焼野原」だ。彼らが過ぎ去った後は、緑という緑が全て消えることからきている。


 僕はこれを読んで、はじめて「バッタ」と「イナゴ」の区別のしかたを知りました。
 そうか、そういうことだったのか……
 40年以上も生きてきて、「バッタ」と「イナゴ」という言葉は知っていたにもかかわらず、疑問を抱かずにみんな「バッタ」だと思っていたんですよね。


 研究所のババ所長は、著者にこう語っています。

「ほとんどの研究者はアフリカに来たがらないのにコータローはよく先進国から来たな。毎月たくさんのバッタの論文が発表されてそのリストが送られてくるが、タイトルを見ただけで私はうんざりしてしまう。バッタの筋肉を動かす神経がどうのこうのとか、そんな研究を続けてバッタ問題を解決できるわけがない。誰もバッタ問題を解決しようなんて初めから思ってなんかいやしない。現場と実験室との間には大きな溝があり、求められていることと実際にやられていることには大きな食い違いがある」


 これはまさに「なるべく早く、形になる結果(論文)が求められる、いまの研究の世界の問題点」なんですよね。
 フィールドワークは時間もコストもかかり、論文になるかどうかもわからないことが多いのです。
 それに比べて、研究室内で行われる「バッタの筋肉を動かす神経がどうたら」というようなものは、ある程度、論文になることが計算できる。
 そして、どんなにフィールドワークを頑張っても、論文にできなければ評価されないのが研究の世界なのです。
 「年功序列で、研究の成果よりも学閥や人脈で偉くなれる時代」より、まともといえば、まともになったとも言えるんですけどね。
 時間と手間がかかる、壮大で直接人の役に立つ研究よりも、確実に成果が期待できる研究を志向してしまうのは、現場の人間としては「食べていくため」に仕方がないところもあるのです。


 著者はバイタリティにあふれ、さまざまなアプローチで「食べていくこと」「ポストを獲得すること」と「好きなバッタの研究をすること」を続けています。
 これを読んでいると、いまの研究の世界というのは、自己プロデュース力みたいなものも求められていて、それに地道にデータを集める能力を持っている人というのは、「超人」ではないか、とも思えてきます。
 「研究を続けるためには、悪事でなければ何でもやる、という覚悟」が、いまの研究者には必要なのかもしれません。


 なんだか真面目なところばかり紹介してしまったような気がしますが、すごく面白くて元気が出る「研究者の生きざま」がつづられている本ですよ。


孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

fujipon.hatenadiary.com
鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

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