琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

パチンコについて語るときに僕の語ること


まずは、この2つのエントリを。
(1)< ビンボーの 原因は パチンコ >
(2)パチンコを必要として無い人間が言うな


最初に言っておこう。
いままでパチンコ(スロット)店に入ったことがない人、パチンコ(スロット)に触ったことがない人、そういう人たちは、ぜひそのまま人生を歩んでもらいたい。パチンコほど、人生において不毛な娯楽はない。それは間違いない。
ただ、パチンコというのは、不毛なところが魅力だというのも僕は知っている。

僕は一時期、パチンコにハマっていたことがある。
いや、「ハマっていた」なんておとなしいものじゃないな、あれは「依存」だったのだろう。
母親が亡くなってしばらく、田舎で働いていた僕は、夜になると家にひとりで居るのがなんだかとても辛かった。
田舎の病院というのは、朝が早く、勤務時間内は座る暇がないほど忙しいが、夜がふけてくると当直医以外はけっこう自由な時間があることが多いのだ。
声がかかれば飲みに行ったり、家でゲームをしていたりすることもあったのだが、そのとき、学生時代にときどきやっていた「パチンコ」というものに、僕は引き寄せられた。
パチンコ屋で予定調和的な「命の次のやりとり」をしていると、なんだかけっこう落ち着いたんだよ。
とはいえ、一応仕事は普通にしていたから、打ちに行ける時間は早くて19時、忙しいときには、21時くらいから「1時間だけでも」と出かけていたものだ。
しばらく、週に2〜3回は行っていた記憶がある。
パチンコに詳しい人はわかると思うけど、こういう打ち方をしていると、パチンコというのは「勝てるわけがない」。
でも、僕はただ台に向かっていたかったのだ。
パチンコ台の前では、空っぽで、機械の一部になることができるし、あの頃の僕は、それをすごく欲していたんだと思う。
だから、隣のオバサンに「サカナ出ないねえ……」なんて話しかけられると、「そうですね……」と自分ではにこやかなつもりの引きつり笑顔を返しながら、さりげなく台を移動していたものだ。

(1)のエントリのブックマークコメントを読んでいると、たぶん、ネットで何かを発信するような「問題意識の高い人たち」は、パチンコなんてしないのだろうな、と思う。もちろん、それはいい、そのほうがいい。
ただ、彼らの声は、毎日パチンコ屋に通っているジャンキーたちには、絶対に届かない。
彼らは「金が欲しいから」パチンコ屋に通っているわけじゃない。
あいつらだって、一部の「プロ」を除けば、「パチンコなんて、やればやるほど負ける」なんて百も承知だ。
ところが、彼らはパチンコ屋に行くことをやめない。
なぜかといえば、彼らには「パチンコをやめてしまったら、もう何もない」から。
「負ける」ことよりも「負けたと認める」ほうが怖い。

それなのに止められないのは何故なのか?
それは俺らの人生に激しい「JOY」がないからなのさ。わかるかい?

うーん、僕は自分がパチンコをやっているときも、パチンコ屋の他の客が嫌いだった。
たぶん、他の人もそれぞれ、自分以外の客が嫌いだったんじゃないかな。
でも、自分だけは違うと、たぶん、思ってた。

僕の高校時代の同級生に、一流と呼ばれる大学に進みながら、パチンコにハマってそのままパチプロになり、大学を中退してしまったヤツがいた。
あいつは、本当に「普通の人間」だったよ。
ところが、大学時代に同窓会に参加したときで、待ち合わせの時間までまだ少しあるからという友達につきあって入ったパチンコ屋で、あいつの人生は変わってしまった。
大当たりを引いちゃったんだよね、たった1000円で。
きっかけなんて、そんなもんだよ。

あのとき、当たらなければ、あいつはたぶん「パチンコなんて、1000円があっという間にパーだぜ、くだんねえよなあ」といまも言っていたかもしれない。
「依存症」はたしかに「病気」なんだけど、風邪と同じくらい「誰でもかかる可能性がある」。そして、なかなか治らない。
そして僕には、「頑なにパチンコを全否定する人」も、「アンチパチンコに依存している」ように感じられるのだ。

身も蓋も無い話をすれば、いまの日本でいちばんタチの悪いドラッグは「酒」だからね。
これで身を持ち崩したり、周囲を傷つけている人の数は、パチンコの比じゃない。
酒を飲んで殺人を犯せば、かえって量刑が軽くなることすらある。
僕は自分でも酒を飲むから、「禁酒法をつくれ」なんて言うつもりはサラサラない。
ただ、酒を飲むということに、いまでも罪悪感はある。父親の酒癖が悪かったからね。
もし、そういう体験がなかったら、もっと酒に溺れていたかもしれない、とも思うのだけれど、今でも「酒が飲めることを自慢するヤツ」や「酒を無理にすすめる人」には嫌悪感がある。「酒というものを手放しで賞賛する人」を目の前にすると、僕の心の奥はざわめく。
にもかかわらず、僕はそれなりの「酒飲み」なのだ。
酒とパチンコの最大の違いは、それに依存している人がマジョリティかマイノリティか、なのかもしれない。

僕は、「他人に迷惑をかけない」という点においては、タバコなんて依存の対象としてはかなりマシなんじゃないか、と考えることがある。
タバコがなくてイライラする人はいても、家に火をつけたり、刃物をふるったりするケースは稀だから。

ああ、なんかパチンコを擁護するような感じになってきた。
念のために言っておくけど、そんなつもりは全然ないよ。あれは依存の対象としては、今の日本では(合法なもののなかで)アルコールと恋愛の次くらいに性質が悪い。
それでも、「あんなものに依存するヤツは、心が弱い」と言い切って、別人種のように排斥する人たちにも、僕は違和感がある。
大部分の人にとって、「心」って、「強いときもあれば、弱っていることもある」のだ。

そういえば、僕の親戚は、がんを告知されてから、ときどきパチンコ屋に行くようになったそうだ。
黙って台に向かって大当たりを待ち、途中で疲れたら、『CR大工の源さん』の確率変動中(よくわからない人が多いだろうから一応説明しておくけど、大当たりが連続して起きる可能性がある状態のことです)でも、台を隣の人に譲って帰ってきていたらしい。
「もっと人間どうしのコミュニケーションを!」と君たちは言うけれど、いまの時代の人間には「人間どうしでは癒せない痛み」みたいなのがあるんじゃないかな、とも思う。
「パチンコをするくらいなら、英会話教室にても行けばいいのに!」
それは正しい、正しすぎるくらい正しい。
でも、パチンコを「根絶」するには、「彼らはそもそも英会話教室になんか行きたくないから、パチンコ屋に行くのだ」ということを認識すべきだ。
「バカどもが依存しているから」パチンコなんて根絶しろ、というのは、ではなく、「自分も依存してしまう可能性があるから」それを避けるためにはどうすればいいか、と考えたほうが良いのではないかなあ。
自分をバカにしている人間の言葉は、どんなに正しくても受け入れがたいものだから。

あと、これは蛇足なんだけど、僕はラスベガスやマカオのカジノにも行ったことがあるけど、少なくともああいうカジノのスロットマシンよりは、日本のパチンコ台のほうが面白いし、勝てる可能性が高い(ただし、日本のパチンコには一攫千金の夢はなく、勝ち負けを繰り返しながら、ゆるやかに、かつ確実に負けていくようになっている)。もちろん、ポーカーやブラックジャックなどのテーブルゲームはどうかわからないんだけど、ああいう「その場で面と向かってお金をやりとりする」っていうのは苦手な人が多いんじゃないかな(僕もものすごく苦手だ。勝っても負けてもその場に居辛いからやりたくない)。

最後に、これを書いていて思いついたこと。
ギャンブルをやっていると、なんだか頭の芯がじんじんするような熱感におそわれることがある。
僕の経験やその周囲の人々を観察しての印象としては、ギャンブルで「命の次」を賭けると、大部分の人が、自分が「ギャンブラー」という大きな存在になったり、「神の手に弄ばれるもの」として小さな存在になったりと、身の丈を見失ってしまう。
そういう興奮状態のなかで、多くは粗暴になり、「死ね」などと普段は絶対に使わないようなヤジを口にしたり、パチンコ屋の看板を蹴飛ばし、駐車場でクラクションを鳴らしまくったりする。

僕の感覚としては、これって、「ブログに過激な内容を書いたときの高揚感」や「ネットバトル」に近いんだよ、すごく。
だから僕のパチンコ熱はネットで代償されているのかもしれない。
本当は、パチンコをやっている人をネット上で「心が弱い」などと強い言葉で罵倒している人たちも、「同じ」なんじゃないかな根元では。
まあ、本人が受ける物理的ダメージはだいぶ違うから、「ネット依存のほうがマシ」ではあっても。


参考リンク:パチンコは麻薬
↑は、読んだことがない人は、一度は読んでおいたほうがいいですよ、本当に。

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