琥珀色の戯言

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第142回芥川賞選評


文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

今号の「文藝春秋」には、1999年上半期以来、11年ぶりに「該当作なし」となった芥川賞の選評が掲載されています。
ちなみに、「受賞作掲載なし」は寂しいとの判断なのか、「候補作」として、舞城王太郎さんの『ビッチマグネット』が全文掲載されています。
以下、恒例の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

池澤夏樹
舞城王太郎さんの『ビッチマグネット』について)
 映画・漫画・ゲームの力だろうが、この数十年の間に社会は物語を用意した上で子供たちを迎えるようになった。そこにはいくつかのキャラクターがあり、その一つを採ることで子供は社会=世間において一定の役割を果たすことができる。のび太スネ夫ジャイアン、きみはどれ?
 しかし、この小説の姉と弟はこの構図に反発する。外から与えられるものではなく、自分の中から湧くものによって自分を造ろうとする。弟のガールフレンド問題で姉と弟は取っ組み合いになって「バン!私の手が友徳(弟)の頬を思い切り叩く。言葉も荒くなるが、でもこれは漫画とかの真似だろう」と言う時、姉は漫画を意識している。
 しかしそのすぐ後で姉は「突然の羞恥に駆られ」る。漫画から覚めるのだ。「そんなバカらしいほど単純な、いかにも《トラウマを抱えた子供》チックなキャラに自分を落とし込みたくない」と思うのだが、すぐにまた「などと反発しかけるけど、やめておく」と引く。これほど共感できる場面は他の候補作のどれにもなかった。

小川洋子
 『ボーダー&レス』の寺内さんと、『ビッチマグネット』のキリンの落書きが私は好きだった。にもかかわらずこの二作を推すことができなかった。二人の語り手たちはなぜか、肝心なところにくると自問をはじめる。”これ以上最低なことってあるだろうか?””僕に何がわかる?””何?私ってこれ空っぽ?””言葉はどっから出てくるんだろう?””私と友徳はどんなふうに変わっていくんだろう?”
 この自問の繰り返しが私には受け入れがたかった。問い掛けの声の響きには、書き手として、どこか甘えがあると思う。

石原慎太郎
 土台、五つの候補作の内の三つの題名が片仮名だ。曰くに『ミート・ザ・ビート』、『ボーダー&レス』、『ビッチマグネット』ときている。
 加えてある作品の作者は大森兄弟と名乗り上げ、兄弟二人して事前にメディアのインタビューに応じているそうな。小説はあくまで一人で書くものとはいわぬが、こうした姿勢は何やら世間への当てこみ、おもねりを感じさせるが。この兄弟合作(?)の『犬はいつも足元にいて』と『ミート・ザ・ビート』は論外として最初から選から外されたが、残りの三作どれも再度の投票でも過半の得点には至らなかった。

高樹のぶ子
(大森兄弟の『犬はいつも足元にいて』について)
 今回の候補作のなかでは上位に評価出来ただけに、共作について今一度考えておくべきだと思う。
 新人であれベテランであれ、小説は衝動と抑制、懐疑と肯定、言葉の放出とそれを外側から見る目、破壊衝動と構築本能という、相反する力を無意識のうちにコントロールしながら書くものだ。共作を文学として認めることは、この真反対の力を別々の人間が受け持つことを認めることでもある。そこに生まれる補完効果を当人たちが意識するかどうかは別にして、創作とは何かという根幹に関わる問題。作品優先で考えるなら認められることもあるのだろうが、こうした方法でたとえ出来映えの良い作品が生まれたとしても、どれだけの意味があるのだろう。

黒井千次
 候補作五篇のうち最も強い読後感を与えられたのは、藤代泉氏の「ボーダー&レス」であった。テーマの重さと、それに愚直なまでに対決しようとする姿勢に注目した。

(中略)

 羽田圭介氏の「ミート・ザ・ビート」は、主人公が予備校に通う浪人中の若者であるとの設定に無理がある。

宮本輝
 委員ひとりひとりは、言葉は違っても、どの候補作に対しても「何かが足りない」という意味の、それもかなり辛辣な評価をした。
 自分の作品をそのような曖昧な表現でけなされると、百人が百人、「何かがって、何なんだよ。それをはっきり言ってくれよ」と腹を立てるであろう。もっともなことだと思う。
 だが、残念ながら、「何かが足りない」と言うしかないのだ。
 これはなにも文学に限ったことではない。芸能の世界においても、物を作る職人の世界においても、スポーツの世界においても、あるいはひとりの人間という領域においても同じである。
 自分にとって決定的に足りない何かがいった何であるのかについて、結局は、自分で考え抜いて掴んだものしか現場では役に立たないのだ。
 えらそうにこれを書いている私も、一篇の小説を仕上げたあと、いつも何かが足りないと頭をかかえている。

山田詠美
 『ミート・ザ・ビート』
 <大雨が、駅舎の屋根やアスファルトに降り注ぎ、厳かな音を立てている――中略――雨音のシンフォニーに彼は虚脱感さえ覚えた>……あ、ほーんと? 読む側としては、<雨音のシンフォニー>と書いてしまうセンスに虚脱感を覚えましたよ。この作者が「文学的」描写と思い込んでいる箇所は、すべて、おおいなる勘違い。どこぞの編集者に入れ知恵されたのではないかと勘ぐりたくなって来る。全部外すべき。あ、それだと<すべてのものが、無に返>っちゃうか。

村上龍
 映画でも小説でも、わたしたちは作家の「偏愛」とその対象に直接触れたいと思う。それはヒューマニズムや善悪を超えたもので、物語に織り込まれて正確に表現されると、わたしたちの精神を拡大し、自由にする。本来文学は、切実な問いを抱えてサバイバルしようとする人に向けて、公正な社会と精神の自由の可能性を示し、「その問いと、サバイバルするための努力は間違っていない」というメッセージを物語に織り込んで届けるものだった。ダメな文学は、「切実な問いを抱える必要はない」という「体制的な」メッセージを結果的に送りつけてしまい、テレビのバラエティのような悲惨な媒体に堕してしまう。

川上弘美
 「犬はいつも足元にいて」を読んでいる間に何度か頭に浮かんだのは「問題提起」という言葉でした。たとえば、ひどい匂いをまきちらす小説中の「肉」って、何なの。またたとえば、語り手の嘘を聞いた後に、包丁を持って出ていった「母さん」は、その後何をしたの。サダの行く末はどうなるの。そのような「問題」が、小説の中で提起されているとしても、小説はそれらの問いに答える必要など、まったくありません。それはよく知っているのです。でもやっぱり何回も思ってしまった。この「問題提起」に、作者自身はどう答える心づもりがあるのだろうなあ、と。


11年ぶりの「受賞作なし」ですから、いったいどんな選評が並ぶのかと思っていたのですが、「主役」が不在なだけに、個別の作品に詳しく言及する選考委員があり、自分の文学論を披露する選考委員ありで、なかなか面白かったです。
個人的には、「穴埋め」で掲載されていた『ビッチマグネット』が青山七恵さんの『ひとり日和』にそんなに負けているとは思えなかったのですが。

それにしても、今回の選評で気の毒だったのは、『ミート・ザ・ビート』の羽田圭介さん。僕はこの作品未読なのですが、各選考委員にここまでこき下ろされているのを読むと、「見せしめのために候補にしたのか……?」とすら思えてきます。
山田詠美さんの選評の率直さは凄い!「何か嫌なことでもあったか、羽田さんに恨みでもあるの?」と勘ぐりたくなるくらいの公開処刑っぷりです。

これらの選評を並べてみて僕が感じたのは、選考委員から、若い作家たちへの「お前たちは、安易に『答えのない問い』を小説で発しすぎているのではないか?」という苛立ちでした。
世の中には「答えのない問い」ってたくさんあるんだけれど、最初から作者が自分で答えを出す努力をすることを放棄したまま、その問題を読者に丸投げして「問題提起している」つもりの小説が多いというのは、たしかにそんな気がするなあ。
これは、「小説」の世界だけじゃなくて、WEBでもそうだと思う。
そして、自分から「答え」を出そうとして悩んだ人が出したものを懸命に粗さがしして、自分が「優位」に立とうとする人が多すぎる。

あと、大森兄弟の登場をきっかけとした、「共作」についての話も興味深かったです。
僕は、「誰がどんなふうに書こうが、良い作品ならそれで良いんじゃないか」と思うのですけど。

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