あらすじ: 霊能力者としての才能にふたをして生きているアメリカ人のジョージ(マット・デイモン)、津波での臨死体験で不思議な光景を見たフランス人のマリー(セシル・ドゥ・フランス)、亡くなった双子の兄と再会したいイギリスの少年マーカス。ある日のロンドンで、死に取りつかれた3人の人生が交錯する。
2011年に映画館で観た映画、8作品め。
水曜日のレイトショーだったのですが、観客は僕も含めて3人。
けっこう寒い夜でしたし、まあ、しょうがないのかなあ。
この『ヒア・アフター』、死後の世界に関わる3人の人物の運命的な交差を、あのクリント・イーストウッド監督が描いた作品なのですが、僕は正直、この映画のあらすじを聞いて、「イーストウッド、もう年だからなあ……そういうのに救いを求めるような心境になってきたのかねえ……」と思ったんですよね。
不躾な言い方をすれば、「ヤキがまわって、丹波哲郎みたいになっちゃったのか?」と。
見終えての感想。
この映画、かなり好き嫌いがはっきり分かれるのではないかと思います。
「死後の世界」というだけで「うさんくさい……」と感じる人って、少なくないはずです。
僕もそのひとり。
正直、「霊能者」なんていう存在には、心理的抵抗があります。
でもね、この映画を観ていると、やっぱり、イーストウッドはイーストウッド、なんですよ。
『グラン・トリノ』では少数民族、『チェンジリング』では、息子を捜す母親、『インビクタス』ではマンデラ大統領と、「マジョリティに抑圧されながらも、闘うマイノリティ」を、イーストウッドは描いてきました。
そして、『ヒア・アフター』で、「イーストウッド」は、「死後の世界なんて馬鹿げたことを信じている、非科学的でバカな奴ら」に、温かい視線を向けているのです。
彼らは、いまの文明国においては、「精神的マイノリティ」にあたり、「死後の世界なんて信じない、信じる必要もない」という人々から抑圧されています。
大事な人を失って、そのことを後悔せずにはいられない、そして、死者から「赦し」を得たい、という人たちを、心の傷を持たない「常識人」たちが笑う。
もちろん、マイノリティたちが、犯罪を起こしたり、他者に対して強行な勧誘などを行うべきだとは、イーストウッドも思っていないでしょう。
でも、「それを信じることが、生きるための支えになっている人たち」を、そんなに「改宗」させようとしなくてもいいんじゃない?
そういう映画だと、僕は勝手に解釈しています。
そうやって、お互いの価値観を尊重し、いたわりあうことによって、少し、世界は良くなるのかもしれない、それが、イーストウッド監督が、この世界に遺そうとしているメッセージ。
ひとつ申し添えておきたいのは、イーストウッド監督自身は、「死後の世界」を盲信しているわけではない、ということです。
この映画を観ながら、僕はなんとなく、周防正行監督の『それでもボクはやってない』を思い出したんですよ。
イーストウッド自身は、「臨死体験」や「死者との交信」を「死にそうになった人や霊能者の主観」としては描いているけれど、それが客観的な事実かどうかは、「保留」しながら、この映画を撮っています。
ラストに近い場面で、マット・デイモン演じる霊能者は、小さなウソをついたように見えました。
(どんなウソだったかは、この映画を観た人は、おわかりいただけると思います)
でも、そのウソは、「正しいウソ」だったように僕には感じられました。
いや、「正しい」ではなくて、「つかずにはいられないようなウソ」だと言うべきか。
世の中って、理不尽だと思う。
不幸な人間を嘲笑うように、もっと大きな不幸が押し寄せてくる、そんな人生だってある。
実は僕がこの映画で一番強く感じたのは、街にたむろして弱いものイジメをするようなチンピラやヤンキーは、みんな終身刑にできないものか……という憤りでした。
(これも、映画を観た人には、少しは理解していただけるのではないかと)
村上春樹風にいえば、「死は生と対極にあるものではなく、死はもともと生の一部である」。
「わからないものをわからないまま描いている」のがイーストウッド映画の魅力です。
この映画は、ある意味、少数民族などの「目に見えるマイノリティ」以上に理解されにくく、差別されている「魂のマイノリティ」の姿を描く、極めて野心的な作品だと僕は思います。
この題材には、やっぱり僕も抵抗感があるし、「面白いか?」と問われたら、やっぱり「うーん、ちょっと微妙かな……」というところで、他人には薦めにくいのですけど。
あと、海外の「ブックフェア」って、あんな感じなんですね。本筋とは関係ないのだけれども、作者が自作を朗読しているのを観て、ちょっと驚きました。