琥珀色の戯言

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SF魂 ☆☆☆☆


SF魂 (新潮新書)

SF魂 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
復活の日』『果てしなき流れの果に』『継ぐのは誰か?』―三十一歳でデビューするや、矢継ぎ早に大作を発表し、『日本沈没』でベストセラー作家となった日本SF界の草分け的存在。高橋和巳と酒を酌み交わした文学青年が、SFに見た「大いなる可能性」とは何か。今なお輝きを失わない作品群は、どのような着想で生まれたのか。そして、意外に知られていない放送作家やルポライター、批評家としての顔―。日本にSFを根付かせた“巨匠”が語る、波瀾万丈のSF半生記。

 故・小松左京さんが5年前に書かれていた新書。
 日本SF界の「御三家」といえば、星新一さん、筒井康隆さん、そして、小松左京さん。
 僕がいちばん好きで、影響を受けているのは筒井さん。高校時代に読み始めて、ほぼ全作品を読んでいます。
 星新一さんも、図書館で借りたり、書店で買ったりしてかなり読みました。「1001作」の半分までは読んでいないと思いますが、300作くらいは読んだはず。
 でも、小松左京さんは、僕にとっては、ちょっと縁遠いというか、知名度のわりには接することの少ない「大家」だったんですよね。
 『日本沈没』『復活の日』を読んだことがあるくらいで、名前と顔はもちろん知っているけれど、あんまり読んでいないんだよなあ。


 この新書は、小松さんが自ら書かれた『SF作家・小松左京の半世紀』です。
 小松さんの大ファンにとっては、「こんなことは知ってるよ」という内容なのかもしれませんが、「名前は知っていて、代表作を何作かは読んだことがあるけれど……」というくらいの「ファン」にとっては、コンパクトにまとまっていて、なかなか興味深い「小松左京入門」だと思います。


 「成績はよかったけれど、ひ弱な文学青年」として、「もうすぐ招集され、死ななければならない」という恐怖と隣り合わせで太平洋戦争の時代を過ごしてきた小松さんが、「自分は直接銃を握ることなく終わってしまった戦争」というものを自分の言葉で語るために見つけたのが「SF」という手法でした。
 当時のSFは、「キワモノ」扱いだったそうなのですが、小松さんは、その「潜在能力」に魅せられてしまいます。
 それは、『SFマガジン』の創刊号の巻頭に掲載されていたロバート・シェイクリという作家の『危険の報酬』という作品がきっかけだったそうです。


 デビュー作『地には平和を』について、小松さんは、次のように書いておられます。

 「地には平和を」は、「1945年秋、本土決戦中の日本」という設定で始まる。日本があそこで降伏せず、本土決戦を続けていたら――という「ヒストリカル・イフ」と「パラレルワールド」を組み合わせた作品だ。コンテストの募集を見た時、僕はすぐにこのテーマが浮かんだ。そして、400字詰80枚を3日で一気に書き上げた。
 僕にとって、この作品は「書かなければならないもの」だった。
 その時もう終戦から15年が経っていたけれども、僕はずっとあの戦争のことを書きたいと思っていた。書かなければならないと思っていた。けれどもどう書けばいいのか糸口が見つからずにいた。
 僕は中学三年で終戦を迎えた世代で、戦争中は自分は兵隊になって死ぬのだと思っていたし、焼け跡の酷い現実も見てきた。しかしまだ生き残っただけマシで、沖縄戦では同い年の少年たちが銃を持たされて戦闘員として大勢死んでいる。もしもあのまま戦争が続いていたら、日本全土が沖縄と同じことになっていただろうという思いがあった。そんな戦争をやったばかりなのに、日本に原爆を落とした連中はその何倍もの威力の核兵器を作って、東西冷戦なんてバカなことをやっている。だから何か書かなければならない。けれども戦争に行っていない自分に、戦争を語る資格があるのか……。
 旧来の文学の方法でこうした重層的な思いを表現しようとすれば、それはたいへんな作業になるし、重苦しくて長いものになるのは自分でも分かっていた。そんな誰にも読まれないような作品を書くのはごめんだ。つまり僕は文学的に行き詰まっていた。
 そんな時に出会ったのがSFだった。SFの手法を使えば、現実にあった歴史を相対化することができる。「本土決戦で泥まみれのゲリラ戦を戦っている自分」という、あり得たかもしれないもう一つの未来を描くことで、戦闘を経験していない後ろめたさにも落とし前をつけながら書くことができる。この作品の構想を思いついた時に、僕は悩んでいた問題の突破口が開いた気がした。
 この作品が表題となった処女短編集『地には平和を』(1963年)のあとがきで、僕はこんなことを書いている。
「正攻法で文学にしようとすれば大変な量になる材料も、それを裏返した形でまとめれば、ごく短いものにまとめられる……。こうして私はうまれてはじめてSFを書き、ついでにコンテストに応募した」
 だいたい、「この歴史は間違っている」とか「なぜ歴史がいくつもあってはいけないのだ」なんて登場人物に言わせることができるのは、SFというジャンルしかありえないだろう?
 僕はSFに出会うことで、自分の中にあった「戦争」にひとまずケリをつけることができた。逆に言えば、僕にとって戦中戦後の経験はそれだけ大きかったということ。あの戦争がなかったら、おそらく僕はSF作家にはなっていない。

 この「小松左京にとって、(あるいは、小説の世界にとって)SFとは何だったのか?」を読めるだけでも、この新書には価値があると思います。
 これは逆に、「小松さんにとっては、SFは現実を語るための比喩としての有効な手段でしかなかった」という、イマジネーションの限界、みたいなものを示す言葉でもあるのですけど。

 
 また、星新一さんについての、このようなエピソードが紹介されており、読んでいてすごく楽しかったです。

 有名なエピソードは東海村の日本原子力研究所に視察に行った時の話。係の人が出てきて、「何からお見せしましょうか」と言うと、星(新一)さんが「まず原子というものを見せてください。この目で見ないと信用できない」。みんなで大受けして、そのうち原子は海で採れるか山で採れるのかと大真面目に議論し始めた。しまいには星さんが「所長の原子力(はらこつとむ)さんに会わせてくれ」なんて言う始末。あの頃のSF作家クラブの集まりはこんなのばっかりだった。
 星さんは普段から同じような調子だった。進化の話の最中に人類はいつ立ったのかという話になったら、「人類は朝立った」。じゃあ女はどうなるんだ。夜中の二時くらいに電話をかけてきて、「いやあ、セックスのやり方忘れちゃった。教えてください」なんてこともあった。こちらは大笑いした挙げ句、調子が来るって原稿どころじゃなくなる。尼崎に住んでいた時には、葉書に「尻崎」と書いてくる。「『尻』じゃなくて『尼』ですよ。中が九じゃなくて七」と言うと、「多い方がいいじゃないか」。で、次に来た葉書を見ると「屁崎」になっている。「忘れないように二つ書いた」って。

 この他にも、筒井康隆さんなど、「SF作家仲間のエピソード」がところどころにさりげなく織り込まれているのも、この新書の魅力だと思います。
 これを読んでいると、「SF惑星を整地したブルドーザー」である小松さんに、「日本SF界の歴史」を書いておいてほしかったなあ、なんて考えずにはいられません。
 もっとも、この新書に関しては、「何かを赤裸々に告白する」というたぐいの本ではなくて、「自分の半生を振り返って、まとめてみた」というもので、小松さん自身の本音みたいなものは、なかなか伝わってはこないんですけどね。
「自分のことを自分で書く」というのは、なかなか難しい面はあるのでしょう。


「『日本沈没』を書いた「動機」を、小松さんはこのように書かれています。

 なぜ、『日本沈没』を書いたかと言われれば、やはり「一億玉砕」「本土決戦」への引っかかりがあったからだ。

(中略)

 政府も軍部も国民も、「一億玉砕」と言って、本当に日本国民がみんな死んでもいいと思っていたのか。日本という国がなくなってもいいと思っていたのか。だったら、一度やってみたらどうだ――そこから、日本がなくなるという設定ができないかと考え始めた。日本という国がなくなった時に、日本人はどう生き延びていくのか。ポーランドのように、歴史上、国がなくなったケースはいくらでもある。たまたま幸運にも日本はそういう経験をしてこなかったが、もしそうなったら日本人はどうするのか。
 普通の小説ならできないが、「ヒストリカル・イフ」を使ったSFなら、そういう設定で書ける。国を消すことで、日本人とは何か、日本文化とは何か、そもそも民族とは何か、国家とは何かということを考えることができる。国を失った日本人たちに、小説の中でそれを考えさせることができる。そのためには、日本列島そのものを沈めてみたらどうか――そういう着想が浮かんだ。そこに地球物理学の新しい理論が、ちょうど登場したということだ。

 東日本大震災で、日本が「沈没」することはありませんでしたが、原発事故により、「日本人が日本に住むことができなくなる未来」もありえるのだ、ということを僕は実感しました。
 「失われること」でしか、「日本人とは何か」を意識することができないというのは、悲しい話ではあるのですが、いま、この時期だからこそ、『日本沈没』を読み返してみようかな、と考えています。


 この新書を読んでいて感じるのは、大阪万博へのコミットなども含めて、小松さんは、真面目に「現実」と向き合って生きていた作家なのだな、ということでした。
 「SFを書くことは、人間の未来について考えること」だと思っておられたのではないか、という気がします。
 製薬会社の御曹司として生まれたものの、家業の没落でさまざまなものを失ってしまった星新一さんや、学者の家に生まれ、役者を目指したもののうまくいかず、デザイン事務所で働きなからSFを書き始めた筒井さんの「小説を書くことへの屈折」に比べると、小松さんの「まっすぐな視線」に感動するのと同時に、「だから、僕は小松さんの作品をあまり面白く感じなかったのかな」なんて考えてみたりもするのです。


 いままで、「小松左京って、名前は知っているんだけど、あんまり読んだことないんだよね……」という方に、一度読んでみていただきたい一冊です。

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