参考リンク(1):『ダークナイト ライジング』の批評でロッテン・トマトが炎上! - ニュースウォーカー
Rotten Tomatoesの編集員は、「マーシャルは、同サイトで個人的な意見として映画の好き嫌いを書く権利がありますし、それについて読者の皆さんは、たとえ映画を見ていなくても、反対意見を述べる権利があります。一方で、我々には、不適切だと判断した書き込みは消去する権利があります。ここは、映画を楽しむサイトでありかつビジネスなので、中傷や誹謗、脅しのコメントがあればすぐさま削除します。言論の自由について議論する場所ではありません。世の中には、もっと怒りをぶつけるべきこと、戦争や犯罪、貧困などがたくさんあります。映画のレビューにぶつけないでください」とコメントし、数日間は書き込みができないようにしたことを明らかにした。
参考リンク(2):映画『サマーウォーズ』感想(琥珀色の戯言)
一昨日、『サマーウォーズ』の2回目のテレビ放映がありました。
僕は正直、「またこのエントリが荒れるんじゃないか?」とちょっと心配していたのですが、コメント欄を閉鎖していたおかげか、さすがにもうそんな「熱さ」を持った人は少なくなったのか、とくに罵声を浴びることもなかったのでホッとしたのです。
その前に、<参考リンク(1)>の、『ダークナイト ライジング』の批評に関する記事を読んだのですが、結局のところ、こういう「作品そのものに対して直接どうのこうのではなく、作品の感想や批評に対しての『感想への感想』や『感想への反論』で燃え上がることがあるというのは、洋の東西を問わないものなのですね。
僕自身の『サマーウォーズ』に対する鬱屈した感情というのは、これまでの人生での体験に基づくものであって、それが「普遍的なもの」だとは思っていません。
ここはあくまでも個人ブログであって、僕が思ったことを書くところです(もちろん、法的、倫理的な「書けることの限界」はあります)。
けっこう長い間やってきたのですが、「僕にとってはこう見えた」というような「感想」に対して、「そんなふうに思うこと、感じることは間違っている」「お前はおかしい」というような形での「批判」を述べてくる人はいなくなりません。
「共感した」とか「いや、自分はこう思ったよ」という反応は、歓迎なんですよ。けっこう嬉しい。それが自分とは違う感想であっても、「ああ、こんなふうに感じる人もいるんだなあ」と世界の広さを知ることができる。
僕はこの『サマーウォーズ』の感想のなかで、自分の中のちょっとしたトラウマについて書いています。
「だから、自分にとっては、この作品はコンプレックスというかイヤな記憶を呼び覚まされるので、受け入れがたいところがあるのだ」と。
その「背景」を書かないで、「旧家の話だから、大家族だからイヤ」って言っても、説得力はないと思ったから。
世の中には、いろんな「背景」を持った人がいます。
ある元野球選手は、絶対に車に乗らないそうです。
なぜなら、愛する娘が自動車に轢かれて亡くなったから。
神戸で震災に遭ってから、枕元に笛を置いておかないと怖くて眠れない(突然の地震で生き埋めになったときに、助けを呼べるように)、という女性もいます。
東日本大震災でも、いろんなトラウマを抱えるようになってしまった人がいるはずです。
そして、そういう人々の多くは、それを他人には気づかれないように、暮らしている。
「お前が旧家に不快な記憶を持っているのはおかしい、異常だ」
うん、僕も自分で「おかしいし、そんな不快な気分を引き起こすトリガーは無い人生のほうがいい」と思っているのです。
でもね、そういうのって、自分でもどうしようもないんだよ。
それは、僕がこれまでの人生でつくってしまった痣みたいなものだから。
お願いがあります。
自分の好きな作品を、誰かが「嫌い」と言えば、腹が立つのはわかります。
でも、その不快感を「作品を好きになれない人への攻撃や誹謗中傷、人格否定」という形で露にするのは、やめていただきたいのです。
もしあなたがその作品を愛しているのなら、「否定している人への攻撃」ではなく、「多くの人がその作品に目を向けたくなるような、推薦の言葉」を書いたほうが、よっぽどその作品にとってのプラスになるはずです。
「嫌いだ」「面白くない」と言っている人にも、それなりの「理由」があるのです。
僕にはたしかに異常なところがあるかもしれませんが、それはたぶん、「大部分の人間がどこかに抱えている程度の異常」です。たぶんね。
(それはそれで、本人的には、ちょっと悲しくなったりもするのですが。ある意味幸運なことなんだけど)
そもそも、「自分と違う背景や感じ方」=「異常」なのだろうか?
こういう話をすると、「好きに感想を書いていいのなら、好きに『感想の感想』も書いていいに決まってるだろ!」と言う人もいます。
もちろん、それを「禁止」する力は僕にはないけれど、そうやって、『感想の感想の感想の感想の……』とやり合うことは、不毛な意地の張り合いにしかなりません。
僕個人の考えとしては、まず「作品」があって、「作品への感想」までで良いんじゃないかと。
「作品への感想の感想」は、「堂々巡り」や「お互いにヒートアップしての人格否定合戦」にしか繋がらないと思うのです。
「ものすごく面白い感想」であれば、「感想の感想」を書きたくなるのはわかるんですけどね。
まあ、いずれにせよ、「誹謗中傷」は論外です。
伊集院静さんが『大人の流儀』というエッセイ集に、こんなことを書いておられます。
それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。
夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。
信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。
私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。
ようやく四谷方面から空車が来た。
私は大声を上げて車をとめた。
その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。
タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。
私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、
「どうぞ、気付かなかった。すみません」
と頭と下げた。
二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、
「ありがとうございます」
と目をしばたたかせて言った。
私は救われたような気持ちになった。
いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。
あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。
私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。
あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。
あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。
という感情が働いたのかもしれない。
しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。
あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。
人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。
いや、本当はさ、あんなふうに「他人のトラウマを嘲笑う人たち」にも、「背景」や「事情」があるんだよね、きっと。
僕が何気なく投げているつもりのボールが、急所に当たってしまうことだってあるはず。
そう考えると、こうして傷つけ合っているっていうのは、なんだかとても虚しいというか、考えてもキリがない話なのかもしれません。
眞鍋かをりさんの名言「見たら負け!」こそが、唯一の「生き残るための道」なのだろうか。
「世の中には、もっと怒りをぶつけるべきこと、戦争や犯罪、貧困などがたくさんあります。映画のレビューにぶつけないでください」