琥珀色の戯言

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【読書感想】謎と暗号で読み解く ダンテ『神曲』 ☆☆☆☆☆


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Kindle版もあります。

内容紹介
ダン・ブラウンの最新作『インフェルノ』のモチーフとして注目を集めるダンテ『神曲』。謎と暗号に満ちた「世界文学の最高傑作」を、豊富な図版と共にわかりやすく解説!

ダンテの『神曲』といえば、僕にとっては、ボッカチオ『デカメロン』と並んで「世界史の試験対策としてタイトルは記憶している作品のひとつ」なんですよね。

 14世紀にダンテによって記された叙事詩神曲』。ダンテが、古代の詩人や天使たちと対話しながら、地獄、煉獄、天国といった死の世界をめぐるという壮大な物語は、ときに「世界文学の最高傑作」とも称され、多くの読者に読み継がれ、何世紀もの間、芸術家や詩人たちにインスピレーションを与え、様々なことばに訳されてきた。

ダンテが地獄めぐりをする話」というくらいの知識しかなくて(というかこれ、間違った知識なんですが)、まあ、そんな昔の本、読まなくてもいいよね、と思っていたのです。
ところが先日、岡田斗司夫さんが、新書「『風立ちぬ』を語る」のなかで、こんな解説をされていたのを読みました。

風立ちぬ』を理解するには、演技を見るだけでなく、教養も求められます。
 ラストシーンで、二郎とカプローニは丘の上に立っていますが、これは何を指しているのでしょうか。
 鈴木敏夫プロデューサーがインタビューで語っていたのですが、あの丘は「煉獄」を表しているのだそうです。煉獄とは、ダンテの叙事詩神曲』に出てくる、地獄と天国の間にある世界です。
 宮崎駿監督が絵コンテまで描いていた本来のラストシーンは、二郎とカプローニはともに死んでいて、煉獄にいるのです。そこに菜穂子が現れて「来て」と二郎に言い、2人は一緒に空に消えていくというものでした。これは、地獄に落ちた『神曲』の主人公ダンテが、清らかな美少女ベアトリーチェの祈りによって救済される様子をモチーフにしています。
 宮崎駿監督は、観客がダンテの『神曲』を読んでいることを前提にしているのです。
 鈴木敏夫は悩んだ結果、菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」に変え、煉獄のイメージを薄めました。

 これを読んで、「ああ、『神曲』って、過去の遺物じゃなくて、宮崎駿監督が引用するほど、活きた作品なのだな」と思い知らされたのです。
 宮崎駿監督も、いまの日本の観客の大部分が『神曲』の題名とダンテという作者名くらいしか知らないことは、わかっていたと思うのですが。
 こういう「ルーツになる作品」のことを知っておけば、現在の作品について、もう少し理解できるようになるはずです。
 みんなが知らない「モチーフ」を知っているっていうのは、ちょっとカッコいいかもしれない、などと考えたりもして。
 ダン・ブラウンさんの『インフェルノ』が、『神曲』をモチーフにしているということで、『神曲』関連の作品が、日本でもにわかに盛り上がってきているみたいなんですよね。
 そんななか、書店でこの本を見かけ、「まあ、『神曲』のあらすじだけでも知っておきたいところだな」と購入したのですが、予想外に面白い新書だったのです。
 もっと難しい研究書みたいな内容かと思ったのですが、あらすじだけでも面白いよ『神曲』。
 もしかしたら、著者が「いちばん面白いところ」を選りすぐって紹介してくれているおかげなのかもしれませんが。


 ちなみに、この本のなかで「煉獄」は、このように説明されています。

 生前、カトリックの定める「七つの大罪」にあたるような非常に深刻な罪を犯したものには希望はない。永遠に「地獄」に落とされ、犯した罪にふさわしい地獄での「罰」を受けて苦しみつづける。生前に善行を積み、神に祝福された者の魂は、「天国」へ行く。その二項対立的な世界に対して、第三の場所「煉獄」は、罪を犯したが改悛した死者の魂が、罪の許しを得るために一時的に滞在する場所だ。
 その魂たちは、生前に犯した罪に見合う罰を受けると罪が許されて、神の祝福を得、最終目的地、すなわち「天国」に受けいれられることになる。その贖罪の期間を過ごすのが「煉獄」なのである。

 この「煉獄」は、13世紀から14世紀の中世末期に特有の概念だったそうです。
 『神曲』が書かれたのは、1304年から1321年にかけてだと言われています。

 さて、『神曲』の「地獄」「煉獄」「天国」の3巻のうち、どれが最も広く読まれてきただろうか。
 暗黒の深淵での酷い苦痛や恐怖がドラマチックに描かれる「地獄」。魂たちがいつか赦される希望を抱きながら薄明かりの中で苦しみに耐える「煉獄」。しばしば神学講義の様相を呈する光り輝く「天国」。どれが一番読まれてきたかをあてるのは、さほどむずかしくないだろう。そう、圧倒的に「地獄」が読まれてきたらしいのだ。

 人は人の不幸が好き、ということなのでしょうか。
 いちばん最初の巻であることと、「神学講義」のような「天国」よりも、「人間が人間であるがゆえの悩みや苦しみ」が描かれている「地獄」のほうが実感しやすく、胸に迫ってくる(あるいは、ドラマチックである)から、なのだと思われます。
 この新書でも、「地獄」の巻の紹介が、他の2巻よりも、かなり長くなっていますし。
「地獄」に堕ちているのですから、登場人物たちはそれなりの「罪」を背負っているのですが、この新書で読んだかぎりでは、ダンテはむしろ、「地獄に堕ちた人たち」のほうに、共感していたのではないか、と感じる部分もあるのです。
 「世界をもっと知りたい」という欲望をおさえきれず、神が定めた「人間が越えてはならない境界」を船で越えてしまった、英雄・ウリッセ(オデュッセウス)。
 そして、僕にとって、この新書のなかでいちばん印象的だった、ウゴリーノ伯の物語。

 そこから話される物語は、父親と息子たちの死への道だ。史実は息子と孫がともに幽閉されたと言うが、ダンテの語るのは、父と4人の息子の物語だ。それは塔に閉じ込められた親子が見たまがまがしい夢の様子からはじまる。狩りをする男が、ピサとルッカの間にある山の中で、狼の親子を追っている。そこで、ピサの皇帝党の者どもが、やせた猟犬たちをけしかけて、ついに弱り果てた狼の親子たちの腹に鋭い牙が襲いかかる。
 そこで目覚めたウゴリーノは、自分の子どもたちが眠りながらパンがほしいと泣いているのを聞く。目覚めた親子がそれぞれの夢を思い返し、不安にかられていたその日、時間が来ても、食事は運ばれてこなかった。

 ウゴリーノ伯は、権謀術数を駆使してきた人で、「地獄に堕ちるだけのこと」はしてきた人ではあるのでしょう。
 しかしながら、ここに書かれている「父と息子の物語」は、あまりにも痛切です。
 飢えている子どもたちに、何もできない父親
 そんな父親を気づかう、幼い子どもたち……
 どんなに栄華を極めた人間でも、この状況では「ただの父親」でしかいられません。


 このエピソードの最後は、こう結ばれています。

 その後、飢えが苦悩を越えた。

 ……………
 この文には、さまざまな解釈があるそうですが……


 彼らの探究心や、人間としての苦悩は、人類に普遍のものではないか、と思うのです。
 そして、ダンテと読者は、彼らに惹かれずにはいられなかった。
 ダンテが生きた時代に「地獄の人間のほうが魅力的」だと公言することはできなかったのかもしれませんけど。
 いまよりもずっと「神や教会の影響が大きかった時代」にも、多くの人がこの「地獄」に惹かれていたというのは、なんだかとても親近感がわいてくる話です。
 『神曲』によって、地獄の魅力が人々に認知された、という面もあるのでしょうね。


 ただし、著者は「『神曲』の内容には、今では受け入れられない面もある」ことも紹介しています。

 たとえば、地獄篇第28歌がその一つだ。焼かれながらひきさかれるという悲惨な罰をうけている人々の一人として、何とイスラム教の創始、ムハンマドの名前が書かれているのである。地獄の第8圏第9嚢の魂は生前どんな罪を犯したとされているかと言えば、諍いや分派を生み出した罪だということになっている。今やイスラム教圏からの移民やその第二世代の生徒、学生も増えているイタリアの高校や大学の様子を想像してみよう。よっぽどの注意をはらっても、この箇所はもう教室では読めないだろう。
 もう一つ例をあげれば、地獄篇第15歌と煉獄篇第26歌。「自然」に「暴力」を働いた者たちが火に燃やされている。そこに、通常の「性」に従わなかった、「男色」者たちも登場するのだ。ヨーロッパや北米だけでなく、日本においても、さまざまな性のあり方に対して、その自由と権利の保障が論議されている現在の視点からすれば、これもまたかなり公で語るのには不都合な箇所である。

 おそらく「さまざまな物語の源流」としての『神曲』の価値が失われることはないと思うのですが、こういう記述が含まれていると「書かれた時代」を考えても、扱いにくくなっていくことは事実でしょう。もったいない話ではあるけれど、致し方ないだろうなあ。


 『インフェルノ』を読む前に、この新書を一冊読んでおくだけでも、たぶん、面白さがかなり違ってくるのではないでしょうか。
 というか、この新書だけでも、やっぱり『神曲』ってすごいんだなあ、っていうのが伝わってきます。
 ちなみに「かみきょく」じゃありませんからね。
 14世紀に『ニコニコ動画』は無かったので。

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