ツアー事故はなぜ起こるのか: マス・ツーリズムの本質 (平凡社新書)
- 作者: 吉田春生
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2014/04/16
- メディア: 新書
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内容紹介
秘境でのトラブル、山の遭難など、効率優先の団体旅行には常に事故のリスクが伴う。その原因の多くは運輸機関のミスに求められてきたが、じつは「客の尽きせぬ願望を叶える」というマス・ツーリズムの究極の原理こそが繰り返されるツアー事故を生み出していた。その代表的な例が、テクノロジーの進歩とともにエスカレートするエベレスト登山のツアー、南極旅行などだ。旅行代理店に20年勤務した経験をもち、その内情を知る著者が、観光業に潜む病理を問う。
旅先で事故や犯罪に遭わないためには、どうすれば良いのか?
旅行代理店(JTB)に20年間勤務していたという著者は、この問いに対して、こんなふうに考えているようです。
「旅に出なければ、旅先で事故に遭うことはない」
近代以降に張ったるしたマス・ツーリズムはその時代その時代に旅行を通じてさまざまな恩恵をもたらしてきた。かつてはエリートしか行けなかった旅行も広く大衆が参加できるような仕組みができたことで、個人の見聞・経験できる範囲は大幅に広がることになった。海外旅行のことを考えてみれば明らかであろう。個人の生活にさまざまな豊かさをもたらしたはずである。
マス・ツーリズムは顧客の願望を叶える仕組みでもある。社会現象としてそれはさまざまな願望を実現するべく作用する。外国語ができなくても海外旅行が楽しめるというのはその分かりやすい事例であろう。
こうしたマス・ツーリズムの特徴は、私たちの人生に潤いをもたらし、豊かさをもたらす。しかし、同時に、その便利さがツアー事故を招くということもいえる。
マス・ツーリズムの源流は、19世紀半ばに産業革命に伴って、イギリスで鉄道が開通し、大規模旅客輸送が可能となったことでした。
「生まれた地域をほとんど出ることもなく、死んでいく」のが当たり前だった人たちにとって、「他所の土地の文化に触れる」というのは、画期的な娯楽だったのです。
万国博覧会の開催なども「ツアー旅行」の隆盛の要因となりました。
聖地への巡礼といった「旅行」は昔からあったものの、商売や宗教的な目的がない「観光旅行」の歴史は、人類にとって、そんなに古いものではないのです。
科学技術の発展や人々が経済的に豊かになったこと、情報伝達がより速くなったことにより、マス・ツーリズムは、急速に発展していきます。
交通機関にとっても、観光の対象となる地域にとっても「多くの人の利用が計算できる」というのは、メリットが大きかったのです。
そして、「ツアーを組むこと」そのものもが、ひとつの「産業」となっていきました。
人間の欲望というのは果てしないもので、多くの人が旅に出られるようになると、「他の人が行かない(行けない)ところに行ってみたい」と考える人も、増えていきます。
それも、なるべく安全かつラクに。
この新書のなかでは、「客の願望を叶えるための、さまざまなツアー」の一端が紹介されています。
エベレストが最も典型的だが、プロの登山家に案内してもらい、荷物や酸素ボンベ、食材などはすべてシェルパに運んでもらって頂上を目指す登山隊の事を日本では、営業登山、あるいは公募隊、商業登山、ガイド登山などとさまざまな名称で呼んでいる。筆者自身は営業登山とこれまで表記していたが、本書では商業公募登山隊と記すこととしたい。
いや、それはいくらなんでも、無理があるのではなかろうか。
でも、こういうツアーは実際に存在しているのです。
そして、多くの人が、「憧れの場所に行ってみたい」「めったに行けないようなところに旅してみたい」という欲求から、それに参加しています。
著者は、1996年にこの「商業公募登山隊」の参加者が犠牲になった事故を、一章を割いて紹介しています。
参加したのは、全くの山の素人、というわけではありませんでしたが(さすがに「はじめて登る山がエベレスト」みたいな人は、いくらお金を積んでも無理みたいです。そりゃそうですね)、エベレストに登頂するには、技量・体力が不足している人もいたのです。
この登山そのものが「公募登山を運営している側にとっての『宣伝』の意味合いが強かったこともあり(有名人やジャーナリストも参加していたので)、この登山の責任者たちは、危険なサインが数多くあったにもかかわらず、「安全」よりも「登頂」を優先し、結果的に犠牲者を出してしまいました。
この事例は、あまりにも無謀だったと言わざるをえませんが、その一方で、「マス・ツーリズム」においては「リスクと成果のせめぎあい」が常に起こっています。
「無謀な日程」や「スケジュールを消化するための、キツいスケジュール」「以前から危険を指摘されていながら、続けられていたオプショナルツアー」なと、事故が起こってからニュースで観ると、「なんでそこで『引き返すという選択』ができなかったんだろう?」と疑問になります。
その一方で、自分が旅行者であれば、めったに来ることができない国や観光地では「あれもこれも」と、スケジュールを詰め込んでしまいがちですし、交通機関に対しても「今日帰れなければ、仕事に穴をあけてしまうじゃないか!」とギリギリの状況でも、運行を望んでしまうことがあるのです。
「時間に余裕が無い人に、なるべく多くの『特別な体験』を提供すること」と、「安全性を重視すること」を両立させるのは非常に難しい。
中止の基準を「安全重視」のほうにすればするほど、ツアー客からの、「せっかくツアーに参加したのに、目的の場所に行けないなんて!あのくらいで中止だなんて、お金を返してほしい……」なんてボヤキも増えるのです。
そもそも、そんな技量が足りない人に、エベレストに登る資格があるのか?
当然の疑問ですし、僕もそう思うんですよ。
ただ、それはあくまでも僕が「エベレストに登ることへの憧れを持っていない人間」だから、そういうふうに割り切れるのかもしれません。
「ツアー旅行」というのは、「お金を余計に払って、言葉や体力などに自信がない人が、旅慣れている人にサポートしてもらえる権利を買う旅行」なんですよね。
いまは、メジャーな観光地では「ツアーのほうが、かえって安い」なんていうこともあるのですけど。
「そんな技量で、エベレストに登るなんて無謀だ」と言われても、「それでも自分は登りたい。だから、『商業公募登山隊』に参加したんだ」というのが参加者の立場のはず。
自分の力だけで登れる技量や自信があるのなら、最初から自分で登るよ、と。
だからこそ、運営側にとっても「登頂失敗」を避けたい、という思いはあったのでしょう。
「やっぱりダメじゃないか」と見なされてしまったら、今後、商売としては成り立たなくなる可能性が高いのだから。
「誰も行かないようなところに行きたい」という人がいて、その人がお金を払ってくれれば、信じられないようなツアーも成立してしまうのです。
著者はその一例として、2013年12月7日出発、15日間の「南緯90度 南極点到達の旅」を紹介しています。
この旅行はチリ最南端の都市、マゼラン海峡を臨むプンタアレナスから貨客混載の大型ジェット機4時間半かけてANI社が夏期のみ運営するユニオン・グレイシャー・ベースキャンプに到着、そこで6泊する。滞在中に人類が到達できる最南端の南極点へスキー装着型双発機で6時間かけて向かう。途中、南極点までの中間地点で燃料補給のため1時間立ち寄る。パンフレットでいう「南極大陸の静寂と聖なる威厳」がどれほどのものか筆者には想像もつかないが、エベレスト登頂と並ぶ、本来エリートのみに許されていた旅が大衆にまで可能となったマス・ツーリズムの極致ということができる。
このツアーが可能となったのは、まず輸送手段が確保されたことである。そしてより大きな要素としては南極半島よりさらに大陸側に入った地点に、新鮮な食事を取ることのできるメイン・ダイニング・テント併設の、快適な宿泊施設ユニオン・グレイシャー・ベースキャンプが設立されたことである。それまでの船による南極半島沿いの島々への上陸という段階から、旅行代金約780万円という高額ではあるものの、大陸内部で宿泊し、南極点まで到達するという願望が叶う時代となったのである。
780万円、かあ……
かなりの高額ではあるけれど、歴史上、名だたる冒険家たちがめざした「南極点」に立つことができるのであれば、これに参加してみたい、と思う人も、いるのではないでしょうか(実際に商品になっているわけですし)。
しかし、南極点まで、ツアーの目的地になっているとはねえ。
このパンフレットにも、「このツアーは冒険的な要素が強く、天候によっては、南極点に到達できない可能性もある」ことと「参加の前には、メディカルチェックが必要である」が明記されているんですけどね。
また、マス・ツーリズムの発展にともなって、その経済的な影響力は、「観光される側」にも、変容をもたらしているのです。
富山県富山市八尾地区で毎年9月1日から同月3日まで行われる「おわら風の盆」というお祭りがあります。
胡弓と三味線による越中おわら節の哀切な音色、菅笠を冠り顔を隠した女性踊り手の無言の艶やかな踊り、ぼんぼりが灯る石畳の坂という設定は、東北三大祭りや徳島の阿波踊り、高知のよさこいなど、にぎやかさが売り物の他の地域の祭りとは一風変わった趣きがあり、三日間で25万人前後の見物客が八尾を訪れるといわれる。祭りの起源は江戸時代の元禄期にまで遡るといわれるが、その由来ははっきりしない。そうしたことも逆に観光客にとってはこの祭りの尽きない魅力となっている。
町には11の踊り連が形成されているが、踊りはどこで始まるか分からないとされている。ただ踊りの列は町を流していくために、どこかで見られる可能性がある。ただし小さな町並みに三日間で25万人が溢れかえる中での見物となる。また、雨が降れば踊りは中止される。地域文化(=伝統文化)としての「おわら風の盆」は観光対象として扱いやすいものではない。
最初は、この祭りの「特性」に合わせて、「現地まで連れていき、祭りの時間は自由行動。踊りが見られるかどうかは自己責任」というようなツアーが組まれていたそうなのです。
しかしながら、この踊りが有名になり、観光客が増加すると、旅行会社も、さまざまな「工夫」をするようになっていきます。
これとは異なる工夫もある。旅行会社クラブツーリズムがすでに15回以上も実績を重ねてきたかたちである。
クラブツーリズムは「月見のおわら」という言葉を商標登録している。本来の「おわら風の盆」は9月1日から3日まで行われるものだが、クラブツーリズムのオリジナル、かつ独占企画「月見のおわら」はある年には9月23日、24日に貸切りのイベントとして実施される。午後7時から2時間、本祭では各町に出かけないと見られない八尾町全11の踊りを特定の会場で、クラブツーリズムの客だけに見てもらえるプランである。
その特色は次の通りである。
(1)クラブツーリズムだけの貴重な独占イベント。
(2)本祭では見ることのできない複数の町の踊り手が一つの町内で見られる。
(3)雨天中止なし。雨でもステージが用意されているので踊りが見られる。
(4)本物の踊り手から和踊りの体験や講習が受けられる。
(5)本祭の町流しは自然発生のため、確実に見られる場所や時間は分からないが、「月見のおわら」では踊りの場所も時間も確定しているので必ず見学できる。
さて、このように設定されたツアーをどう評価すればいいだろうか。
踊りの内容は同じであっても、これは、「おわら風の盆」の特徴とか本質とは、かけ離れた「イベント」でしかないような気がします。
しかしながら、15回も続いているということは、このような形式にもそれなりのニーズがあるし、地元も協力してくれている、ということなのでしょう。
著者が、余裕のないスケジュールの改善や、交通機関の運航者の待遇を見直すことなどを軽視しているというわけではありません。
ただ、人間に「知りたい」「観たい」という欲求があるかぎり、事故はゼロにはならないのだろうな、というのはわかります。
個々の旅行者としては、自分自身の安全のためには「ツアー旅行だから」と油断しないことも、大事なのかもしれませんね。
「あれこれ自分でリスクを調べるようなめんどくさいのが嫌だから、ツアー旅行に参加する」という人が大半だろうから、それだと「割に合わない」気はするのですけど。